第60話:呪いの核(コア)
背後で響く轟音と絶叫――外のドンチャン騒ぎは、俺の鼓膜を叩いた瞬間、意味のない環境音として切り捨てられた。
振り返る必要はない。
あの「全裸の騎士」と「爆弾魔」が暴れているなら、敵の心配をするより、巻き込まれない心配をする方が建設的だ。
俺、黒鉄ジンは、足を止めることなく、指揮車(移動要塞)の最奥へと歩を進めた。
一歩踏み出すたびに、世界が変わる。
鉄と火薬と男臭い汗が充満していた戦場の空気が、ある境界線を越えた瞬間、急激に冷たく、そして粘着質なものへと変質していく。
肌にまとわりつく湿度は、熱帯雨林のそれではない。もっと病的な、腐敗した沼地から立ち上る瘴気のような重苦しさだ。
そして鼻腔を犯すのは、戦場の硝煙の臭いではなく、もっと原始的で、甘ったるい――花が腐り落ちていく瞬間の、甘く危険な死臭だった。
「……待たせたな、泥棒猫」
俺は声をかけた。
だが、返事はない。
ただ、ヒュゥ……ヒュゥ……という、壊れた笛のような頼りない呼吸音だけが、静寂の中に響いていた。
部屋の隅。
無機質な鉄の床に転がされた少女――アリス・ファントムハイヴは、もはや「人間」の形を保っているのが不思議なほど、異様な状態にあった。
「……ッ、これは……」
俺は息を呑み、駆け寄って膝をついた。
想像していたのは、手枷足枷で拘束されている姿だった。あるいは、拷問を受けて傷ついた姿だったかもしれない。
だが、現実はもっと悪質で、美しく、そして残酷だった。
彼女の細い体は、黒い茨のような植物――いや、実体化した「呪い」の蔦によって、幾重にも縛り上げられていた。
それは単に巻き付いているのではない。
蔦の棘が彼女の白い皮膚を食い破り、血管のように皮下へと侵入し、ドクン、ドクンと不気味に脈打ちながら、彼女の生命力を吸い上げているのだ。
白い肌の下を黒い脈が走るその様は、まるでひび割れた磁器人形のようで、痛々しいと同時に、冒涜的な背徳感すら漂わせていた。
その中心にあるのは、あのアリスが盗み出した『銀のオルゴール』だ。
彼女の胸の上に置かれた箱の蓋は開かれ、そこから溢れ出した漆黒の闇が、アリスという苗床に根を張り、毒花を咲かせようとしている。
チリリン……チリリン……。
オルゴールから流れる、調律の狂った不協和音。
その旋律が響くたびに、アリスの顔が苦痛に歪み、唇から魂のような白い光が漏れ出していく。
「……おい。起きろ」
助けなきゃならない。
理屈じゃない。こんな小さなガキが、わけのわからない呪いに食い物にされているのを見て、見過ごせるほど俺は大人じゃない。
俺は手を伸ばし、彼女の首元に絡みつく一番太い蔦を掴み、引き剥がそうとした。
だが。
バチッ!!
「ぐっ!?」
指先が触れる寸前、黒い茨が蛇のように鎌首をもたげ、俺の手を弾いた。
強烈な拒絶反応。
静電気のような生易しいものではない。まるで高圧電流が流れる有刺鉄線に触れたような、神経を焼き切る痛み。
焦げた皮の臭いが鼻をつく。
「……近寄るな、ってか?」
俺は痺れる指先を振り、睨みつけた。
茨は威嚇するように揺れている。
主を守っているのではない。
エサを独占しようとする捕食者の反応だ。「俺の食事を邪魔するな」と、本能で警告しているのだ。
「……酷い有様だねぇ。植物園の剪定にしては、いささか趣味が悪すぎる」
背後から、場違いなほど暢気な、しかし底知れない知性を感じさせる声がした。
振り返ると、白衣を煤と泥、そして謎のピンク色の液体で汚した薬師寺ヤクモが、壊れたドアから入ってくるところだった。
手には使い込まれた黒いアタッシュケース。そのレンズの奥の瞳は、目の前の惨状を「悲劇」としてではなく、「興味深い症例」として観察していた。
「ヤクモか。……外はどうなった?」
「片付いたよ。レオ君が見事なストリップ・ショーで敵の視界と戦意を奪ってくれたからね。今は全員、幸せな夢を見ながらゴロ寝してるよ。……まあ、目が覚めた時に自分の半裸姿を見て、集団でトラウマを発症するだろうけどね」
「……レオは?」
「ああ、彼なら今ごろ、マントの中でエラ呼吸の練習をしているはずさ。水槽の準備が必要だね」
ヤクモは肩をすくめ、倒れているアリスの元へと歩み寄った。
彼は茨の威嚇を気にする風もなく、懐から取り出した聴診器のような魔導具をかざし、手際よく診断を開始する。
その手つきは、さっきまで毒ガスを撒き散らしていたマッドサイエンティストと同一人物とは思えないほど、繊細で正確だった。
「ふむ……。予想通りだ。『吸命』の進行度は末期(ステージ4)。……生命力の8割が既にオルゴールへ移行している」
「8割だと? ……助かるのか?」
「物理的には無理だね」
ヤクモは即答した。
患者に余命を宣告する医師のように、冷徹な診断。
「見てごらん。この茨は、ただ巻き付いているだけじゃない。彼女の心臓、肺、大動脈……主要な臓器と癒着し、循環器系の一部として機能している。無理やり引き剥がせば、その瞬間に彼女の心臓は止まるよ。……いわば、この呪いが今の彼女の『生命維持装置』になってしまっているんだ」
「……人質ってわけか」
「いや、それ以上さ。彼女はもう『爆弾の信管』そのものになっている。……あと10分もすれば、吸い上げた生命力が臨界点に達し、彼女の肉体ごと、このエリア一帯を吹き飛ばすだろうね」
ヤクモは、まるで明日の天気を予想するように淡々と告げた。
10分。
それが、この少女に残された猶予であり、俺たちが逃げ出すためのリミットだ。
逃げるだけなら簡単だ。今すぐここを出て、霊柩車を飛ばせば助かる。
だが、そうすればこのガキは、誰にも看取られることなく、爆弾として消費されて終わる。
「……方法はねぇのか」
俺は鉄パイプを握りしめた。
ミシミシと音がするほど強く。
壊すのは得意だ。殴るのも得意だ。
だが、こういう繊細な「解体作業」は、掃除屋の管轄外だ。力任せにやれば、救うべき対象ごと壊してしまう。
俺の無力さが、歯がゆくて仕方がない。
「外科手術じゃ無理だね。……必要なのは『内科的アプローチ』、それも精神領域への直接干渉だ」
ヤクモが指差したのは、アリスの胸の上で回転を続けるオルゴールだった。
「この呪いの核は、彼女の『精神世界』に深く根を張っている。トラウマ、後悔、孤独……そういった負の感情を栄養にして肥大化しているんだ。……外からどれだけ枝葉を剪定しても無駄さ。内側に入り込んで、根っこを断ち切らない限り、この暴走は止まらない」
「内側……精神世界だと?」
「そう。……誰かが彼女の意識の中にダイブして、内側から鍵を閉めるしかない。……もっとも、そんな芸当ができるのは、肉体という檻を持たない『霊体』くらいのものだけどね」
ヤクモがチラリと、俺の胸ポケットを見た。
そこにいる「彼女」に、話を振るように。
「……私がやるわ」
俺の胸元から、青白い光が漏れ出した。
スマホの画面から抜け出し、空中に実体化したのは、半透明の秘書――マシロだった。
いつものツンケンした表情ではない。
静かで、覚悟を決めた、大人の女性の顔をしていた。
その輪郭は、いつもより鮮明で、そしてどこか儚げだった。
「マシロ? おい、正気か?」
俺は止めた。
「精神世界へのダイブなんて、聞いたことがねぇぞ。もし失敗したら……お前まで戻ってこられなくなるかもしれん」
精神世界への干渉は、相互作用だ。
相手の深層心理に触れるということは、自分の深層心理も晒すということ。
もしアリスの抱える絶望が深すぎれば、マシロの自我ごと飲み込まれ、二度と帰ってこられなくなるリスクがある。
俺は、こいつを二度も失いたくない。
「幽霊の専門分野でしょ? ……それに、放っておけないわ」
マシロは、苦しげに喘ぐアリスを見下ろした。
その視線は、優しく、そしてどこか悲しげだった。
まるで、過去の自分自身を見ているかのような。
「聞こえるのよ。……あの子の心の声が。ずっと『寂しい』って泣いてる」
マシロがそっと手を伸ばす。
茨は、彼女を拒絶しなかった。
実体のない霊体であるマシロに対して、物理的な防御は無意味だからか。あるいは、同じ「迷子」の匂いを感じ取ったからか。
マシロの手が、アリスの頬に触れる。冷たいはずの幽霊の手が、今の俺にはとても温かく見えた。
「この子は、昔の私と同じよ。……誰にも見つけてもらえなくて、暗闇の中で膝を抱えてる。……だから、私が迎えに行ってあげる」
「……」
俺は言葉を詰まらせた。
5年前。俺がマシロを拾った時、彼女もまた、記憶を失い、自分が何者かも分からずに彷徨っていた。
その孤独を知る彼女だからこそ、アリスの声が届いてしまったんだ。
「……危険だぞ」
「平気よ。……あんたが待ってる場所には、這ってでも戻ってくるわ」
マシロは、ふわりと笑った。
その笑顔は、5年前に俺が出会った時の、あの儚げな幽霊のそれではなく、俺の尻を叩いて叱咤する「相棒」の強さを帯びていた。
「ジン。……あんたは外で待ってなさい。私が中で掃除してくるから、あんたは外の『ゴミ処理』を頼むわよ。……私の帰る場所、守っててよね」
「……チッ。勝手に仕切りやがって」
俺は悪態をつき、視線を逸らした。
止めても無駄だ。こいつは一度言い出したら聞かない。
それに、今の俺にできることは、こいつを信じて送り出し、その背中を守ることだけだ。
「……3分だ」
俺は言った。
「カップラーメンができる時間だ。それ以上かかったら、麺が伸びちまう。……俺は伸びた麺が嫌いなんだよ」
「十分よ。……行ってきます」
マシロの体が、光の粒子となって崩れた。
キラキラと輝く光の粉が、アリスの額へと吸い込まれていく。
水面に波紋が広がるように、光がアリスの中に消え、部屋の明かりが一瞬だけ強くなった。
「……さて」
後に残されたのは、俺とヤクモ、そして瀕死のアリスの肉体だけ。
静寂が戻る。
だが、それは終わりの静けさではない。嵐の前の、張り詰めた緊張感だ。
「ヤクモ。お前は何をする?」
「ボクかい? もちろん、物理的な延命措置さ」
ヤクモはアタッシュケースを全開にした。
中には、巨大な注射器や、電気ショック用のパドル、魔導術式の刻まれたメス、そして怪しげな色の点滴パックがぎっしりと詰まっている。
彼はそれを手際よく並べ、即席の手術台を作り上げていく。
「彼女の魂が戻ってくるまで、肉体(器)が壊れないように維持しなきゃならない。……心停止したら即座に蘇生。血管が破裂したら即座に縫合。呪いの浸食スピードとボクの外科手術、どちらが速いかのチキンレースだね」
彼は白衣の袖をまくり、ゴム手袋を装着した。パチン、という音が響く。
その表情から、変態的な笑みは消えている。
そこにあるのは、かつて「神の手を持つ天才外科医」と呼ばれ、命のやり取りの最前線に立っていた男の、真剣な横顔だった。
「地味だけど、失敗の許されないパズルゲームだよ。……彼女の心臓が止まれば、マシロちゃんも帰ってこられなくなるからね」
「……頼んだぞ」
俺は短く言い、鉄パイプを担ぎ直した。
ヤクモは何も言わず、ただ黙々とアリスの腕に点滴の針を刺した。
「ジン君。君の仕事は分かってるね?」
「ああ」
俺は壊れたドアの方を向いた。
外から、複数の足音が近づいてくる。
重い軍靴の音。
紅蓮騎士団の残党か、あるいは遅れて到着した増援か。
いずれにせよ、ここで寝ているお姫様たちの安眠を妨害し、手術の邪魔をする連中だ。
「掃除だろ? ……任せとけ」
俺は指揮車の入り口に仁王立ちした。
背後には、命を懸けた精神の旅路と、ギリギリの延命手術。
その聖域を守るのが、今の俺の役目だ。
武器は鉄パイプ一本。
体はボロボロ。
だが、不思議と心は落ち着いていた。
守るべきものがある時の「掃除屋」は、いつだって最強なんだよ。
「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止だ。……死にたい奴から並びな」
俺の殺気が、入り口に見えない壁を作った。
最後の3分間。
泥棒猫と幽霊の、孤独な魂の救出劇が幕を開ける。




