第58話 掃除用具の正しい使い方
(……プツン)
世界から、雑音が消えた。
直前まで鼓膜を叩いていた紅蓮騎士団長ガレスの嘲笑も、遠くで響く爆発音も、足元で蠢く瀕死の少女の呼吸音さえも。
すべてが遠い彼方へと退き、代わりに脳内を支配したのは、絶対零度の静寂と、冷徹な計算式だけだった。
目の前には、巨大なゴミ(男)。
足元には、破損した清掃用具。
そして、この空間に蔓延する、不快な悪意という名の汚れ。
――あーあ。散らかってやがる。
俺、黒鉄ジンは、右手に握りしめた鉄パイプの感触を確かめた。
冷たく、錆びついた鉄の棒。
だが、今の俺にとっては、それは単なる「投擲用のゴミ」でしかなかった。
「……消毒の時間だ」
俺がそう呟いた瞬間、ガレスが眉をひそめた。
俺の顔に張り付いた、感情の一切ない笑顔。
それが、歴戦の猛者である彼の本能に、警報を鳴らさせたのだろう。
「……虚勢を張るな、ドブネズミ。武器も持たぬ貴様に何ができる?」
ガレスが鼻を鳴らし、腰の大剣に手をかける。
その動作は洗練されており、隙がない。
だが、遅い。
今の俺の目には、彼の動きがコマ送りの映画のように、酷く緩慢に見えていた。
「ゴミの分別もできねぇのか。……教育が必要だな」
ヒュンッ!!
予備動作ゼロ。
俺は脱力した状態から、手にした鉄パイプを弾丸のように放った。
「ぬっ!?」
狙いは、ガレスの眉間。
殺気さえ込めない、ただゴミ箱に空き缶を放り投げるような無造作な投擲。
だからこそ、ガレスの反応がコンマ一秒遅れた。
ガギンッ!!
ガレスは咄嗟に首を捻り、鉄パイプを回避した。
パイプは彼の頬を掠め、背後のモニターを粉砕する。
ガラスの破片が飛び散り、火花が散る。
その一瞬。
視界が塞がれ、意識が逸れた、その刹那の空白。
俺は、既に走っていた。
床を蹴る音さえ置き去りにする、超低空の疾走。
狙うはガレスの首ではない。
その足元に転がる、俺の半身。
「小賢しいわッ!!」
ガレスが激昂し、大剣を振り下ろす。
風を裂く轟音。
だが、その刃が俺の頭蓋を割るより早く、俺の身体は床を滑っていた。
ズザァァァッ!!
野球のスライディングのように、摩擦熱で膝が焼けるのも構わず滑り込む。
伸ばした指先が、冷たい金属に触れた。
カチャリ。
その感触。
5年間、何万回と握りしめてきた、ゴム製のグリップの感触。
歪んでいる。プラスチックのカバーは割れ、フレームも曲がっている。
だが、その芯にある「魂」は、まだ死んじゃいない。
「……おかえり」
俺は愛おしむようにハサミを握りしめ、そのままの勢いで回転し、ガレスの股下をすり抜けた。
ドガァァァン!!
直後、俺がいた場所に大剣が突き刺さり、床の鉄板を豆腐のように両断した。
凄まじい破壊力。
だが、当たらなければただの空気の振動だ。
「……チッ。逃げ足だけは速いな、掃除屋」
ガレスが大剣を引き抜き、ゆっくりと振り返る。
俺は距離を取り、ボロボロになった『高枝切りバサミ』を見つめた。
酷い有様だ。
持ち手のカバーは粉砕され、剥き出しになった金属が痛々しい。
刃先も欠け、噛み合わせがズレてしまっている。
これじゃあ、枝一本切るのも難しいかもしれない。
普通なら、ゴミだ。
スクラップ行きの、ただのガラクタだ。
だが。
「……あーあ。噛み合わせがズレちまった」
俺は指先で、刃についた泥と、ガレスの靴底の汚れを拭い取った。
優しく。丁寧に。
まるで、傷ついた子供の頬を撫でるように。
「ごめんな。……痛かったろ」
「……は?」
ガレスが呆れたような声を出す。
「貴様、正気か? そんな壊れた玩具に話しかけて……。恐怖で頭がイカれたか」
「イカれてるのはテメェの眼球だ、三流」
俺はゆっくりと顔を上げた。
その時、俺の中でカチリと音がした。
掃除屋としてのスイッチが、完全に固定された音だ。
「こいつは壊れてねぇ。……ただ、少し『機嫌を損ねてる』だけだ」
俺はハサミを開いた。
ジャリ……と、砂を噛む嫌な音がする。
だが、俺には分かる。
こいつはまだ、切りたがっている。
俺の手の中で、獲物を求めて震えている。
「ふん。戯言を。……そのガラクタごと、微塵切りにしてくれるわ!」
ガレスが咆哮し、大剣を構えた。
全身から赤い闘気が噴き出し、室内の空気が震える。
紅蓮騎士団長の全力。
まともに受ければ、装甲車すら蒸発するだけの一撃必殺の構え。
対する俺は、ハサミをだらりと下げたまま、棒立ちだった。
構えなんていらない。
掃除をするのに、武道の型なんて必要ないからだ。
「死ねェッ!!」
ガレスが踏み込む。
床が爆ぜる。
音速を超えた斬撃が、俺の胴体を薙ぎ払う軌道で迫る。
速い。重い。鋭い。
だが。
(……雑だ)
俺の目には、その剣筋に付着した「汚れ」が見えていた。
力任せの遠心力。
殺意による重心のブレ。
そして何より、道具(剣)への愛着のなさからくる、微細な不協和音。
――そんなナマクラで、俺の相棒に勝てるわけがねぇだろ。
俺は動かなかった。
刃が鼻先数センチに迫るまで、微動だにしなかった。
そして。
トン。
最小限の動き。
半歩だけ前に出る。
回避ではない。「前進」だ。
剣の威力は、切っ先が最も強く、根元に近づくほど死に体になる。
俺はあえて、死の暴風雨の中心へと飛び込んだ。
「なっ!?」
ガレスの目が驚愕に見開かれる。
大剣の刃が、俺の背後の空気を切り裂く。
俺の体は、ガレスの懐――剣の柄を握る手首の、さらに内側にあった。
「……ここだな」
俺はハサミを持ち上げた。
狙うのは、首でも心臓でもない。
ガレスが身に纏う、分厚い深紅の鎧。
その肩口にある、直径わずか数ミリの「留め具」。
かつて5年前。
ダンジョンの最深部で、俺はあらゆる魔物の構造を学び、解体し、そして喰らった。
生物だろうが機械だろうが、構造あるものには必ず「継ぎ目」がある。
そこさえ外せば、どんなに強固な城壁も、ただの積み木崩しだ。
「『床掃除・分別解体』」
俺の手首が返る。
ハサミの刃先が、ボルトの隙間に滑り込む。
噛み合わせの悪さ? 関係ねぇ。
俺の握力と、このハサミの「意地」で、無理やりねじ伏せる。
パチン。
戦場には似つかわしくない、軽快な金属音が響いた。
それは、庭師が小枝を剪定するような。
あるいは、美容師が前髪を整えるような、日常的な音だった。
「……え?」
ガレスが間の抜けた声を漏らす。
直後。
ガシャァァァァァン!!!!
ガレスの右腕を覆っていた重厚な肩アーマーが、まるでパズルのピースが崩れるようにバラバラになり、床に落ちた。
「な、なんだと……!?」
露わになった無防備な腕。
ガレスは己の身に起きたことが理解できず、後ずさる。
「いい鎧だな。ミスリル合金製か?」
俺はハサミをチャキッと鳴らし、冷ややかな視線を向けた。
「だが、手入れがなってねぇ。……関節部分に油泥が詰まってるし、ボルトも錆びついてる。これじゃあ動きが鈍るのも当然だ」
「き、貴様……何をした!?」
「何って……掃除だよ」
俺は一歩、踏み出す。
ガレスが、反射的に一歩下がる。
恐怖。
目の前の男が、剣を持った戦士ではなく、得体の知れない「職人」に見えたからだ。
「『燃えないゴミ(鉄屑)』と『生ゴミ(お前)』を分別してやっただけだ。……感謝しろよ。リサイクルしやすくしてやったんだからな」
「ふ、巫山戯るなァァァッ!!」
ガレスがプライドを傷つけられ、顔を真っ赤にして吼える。
彼は大剣を振り回し、暴風のような連撃を繰り出した。
「死ね! 死ね! みじん切りになれェッ!」
だが、もう遅い。
俺の目は、すでに彼の「全身の分解図」を捉えていた。
右肘の結合部。
腰のベルトのバックル。
膝当ての留め金。
兜の顎紐。
そこには、赤いマーカーで『切断箇所』と書かれているようにさえ見えた。
「……リズムが悪い」
俺は踊るようにステップを踏んだ。
大剣の軌道を紙一重で躱し、そのすれ違いざまに、ハサミを走らせる。
パチン。
カチン。
チョキン。
軽快なリズム。
殺し合いの場とは思えない、小気味いい切断音の連続。
「ぐっ!? 肘が……!」
「な、何だ!? 腰が……ズボンが!?」
ガレスが剣を振るうたびに、彼の装備が剥がれ落ちていく。
籠手が飛び、脛当てが落ち、マントが舞い、そしてズボンのベルトが切れて下半身が涼しくなる。
それは戦闘ではない。
一方的な「皮剥き」だった。
「ほらほら、どうした? 動きが鈍いぞ」
俺はハサミをくるくると回し、ガレスの周囲を旋回する。
攻撃はしない。肉は切らない。
ただひたすらに、彼が身に纏う「虚飾」という名の鎧を、一枚ずつ丁寧に剥ぎ取っていく。
「や、やめろ……! 近づくな! 来るなァァァッ!!」
ガレスの悲鳴が変わる。
怒りから、純粋な恐怖へ。
そして、もっとも屈辱的な「羞恥」へと。
数分後。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
床一面に散らばる、かつて最高級品だったミスリル製の鎧の残骸。
そしてその中央で、ハート柄のトランクス一丁になり、ガタガタと震えながら自分の身体を隠しているおっさん(元・紅蓮騎士団長)。
「……か、風邪を引く……」
ガレスが涙目で呟く。
その威厳は、トランクスのゴムと共に伸びきって消滅していた。
「……掃除完了」
俺はハサミを畳み、ふぅ、と息を吐いた。
額の汗を拭う。
いい仕事をした後のような、妙な爽快感があった。
「さて」
俺はハサミの切っ先を、震えるガレスの鼻先に突きつけた。
「分別は終わった。……次は『焼却処分』の時間だが、心の準備はいいか?」
「ひぃッ!?」
ガレスが腰を抜かしてへたり込む。
勝負ありだ。
だが、俺の目的はこいつのいじめじゃない。
俺は視線を、部屋の奥へと向けた。
そこには、呪いに蝕まれ、今にも消えそうなアリスの姿がある。
「……待たせたな、泥棒猫」
俺はガレスを無視して、アリスの方へと歩き出した。
だが、その背後で。
指揮車の外から、新たな轟音と、絶叫が響いてきた。
「ギャァァァァッ!! め、目がぁぁぁ!!」
「変態だ! 新手の変態が来たぞォォォッ!!」
「……あ?」
俺は眉をひそめた。
どうやら、外の掃除も佳境を迎えているらしい。
それも、俺とは違うベクトルの、もっとタチの悪い「精神汚染」によって。




