第55話:SOSは届かない
「――電波が悪い」
深夜三時。
ダンジョン遺失物管理センターのリビング(壁なし)は、冷蔵庫のモーター音と、遠くで聞こえるサイレンの音、そして俺たちの沈黙によって支配されていた。
俺、黒鉄ジンは、ソファに深く沈み込み、スマホの画面を睨みつけていた。
画面には「圏外」の文字など出ていない。アンテナはバリ3だ。
だが、俺の心の中のアンテナは、どうやら深刻な通信障害を起こしているらしい。
「なあ、マシロ。……この世界の電波ってのは、どうしてこうも都合の悪い時だけ繋がるんだろうな」
俺は誰に言うでもなくボヤいた。
テーブルの上には、冷めきった缶コーヒーと、ヤクモが置いていった胃薬の袋。
そして、俺の正面――空中に浮遊しているスマホ(マシロ憑依中)が、さっきから不吉な明滅を繰り返している。
「……ジン。聞こえる?」
マシロの声は、いつもの凛とした響きを失い、深い井戸の底から響いてくるような、湿ったノイズ混じりのものだった。
「……ああ。聞こえてるよ。耳鳴りがうるせぇな」
「耳鳴りじゃないわ。……これは、悲鳴(SOS)よ」
マシロの画面が、まるで心電図のように激しく波打つ。
彼女は幽霊だ。肉体を持たない分、精神的な波動――特に「死にかけた人間」が発する強烈な情念の電波を受信しやすい体質(?)らしい。
便利な機能だが、今の俺にとっては、これほど迷惑な着信音はない。
「……あの子よ。アリス」
マシロが呻くように言った。
「泣いてる。叫んでる。……『助けて』って言ってる」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが冷たく波打った。
胃の腑に鉛を流し込まれたような重苦しさ。
あるいは、飲みすぎた翌朝の、あのどうしようもない後悔に似た感覚。
「……空耳だろ。あいつは泥棒だぞ? 今頃、盗んだハサミとオルゴールを抱えて、高飛びの準備でもしてるさ」
俺は強引に視線を逸らし、手元の週刊誌(先週号)をめくった。
ページの内容なんて頭に入ってこない。
『今週のラッキー星座:山羊座』。俺は射手座だ。関係ない。
『特集:絶対に失敗しない唐揚げの作り方』。油の温度は180度。二度揚げが基本。……ああ、唐揚げ食いてぇな。レモンをかけるかかけないかで戦争が起きるあの茶色い塊。そういえば、ここ数日まともな飯を食ってない気がする。
「現実逃避してんじゃないわよ!」
バチッ!
マシロ(スマホ)が放電し、俺の持っていた雑誌を黒焦げにした。
「熱ッ!? 何すんだ!」
「あんたにも見せてあげるわ。……今のあの子が、何を見ているのか」
マシロは俺の抗議を無視し、スマホのプロジェクター機能を強制起動した。
ブォン……という音と共に、リビングの虚空にホログラム映像が投影される。
それは、映画のような鮮明な映像ではなかった。
ノイズが走り、色が歪み、視界がぐるぐると回る、三半規管を直接攻撃してくるような最悪の主観映像。
『……ガハッ、あ、ぅ……』
スピーカーから漏れる、苦しげな呼吸音。
視界の端に映るのは、冷たい鉄の床と、自分の細い腕。
その腕には、黒い茨のような痣が走り、どす黒く変色している。
そして、目の前には――。
『ゴミめ。……運ぶ手間が増えたな』
無機質なフルフェイスの兜を被った男たちが、こちらを見下ろしている。
深紅の鎧。紅蓮騎士団。
その足元には、見覚えのある「物」が転がっていた。
赤錆びた、柄の曲がった、高枝切りバサミ。
男の一人が、無造作にそのハサミを踏みつけた。
グリッ、と靴底でねじり上げる。
さらに、つま先でサッカーボールのように蹴り飛ばす。
カラン、カラン……。
乾いた音が、映像越しに俺の鼓膜を殴りつけた。
「……ッ!」
プツン。
映像が途切れる。
マシロの魔力が尽きたのか、それとも発信元の意識が途絶えたのか。
リビングに、再び重苦しい静寂が戻ってきた。
「……見たでしょ、ジン」
マシロの声が震えている。
「あの子、捕まったわ。……それも、ただの拘束じゃない。あのオルゴールの呪いで、命を吸い尽くされかけてる。このままだと……死ぬわ」
死ぬ。
その単語が、俺の脳内で木霊する。
だが、俺は動かなかった。
ソファに深くもたれかかり、天井のシミの数を数えるフリをした。
一つ、二つ、三つ……。あのシミ、なんか人の顔に見えてきたな。ムンクの叫びみたいな。いや、ヤクモの笑顔か? どっちにしろ不吉だ。
「……ジン? 何してるの? 早く準備して!」
マシロが焦れたように叫ぶ。
「場所は特定できたわ。B3Fの廃棄区画よ。今すぐ出れば間に合うかも……」
「……行かねぇよ」
俺は低く、冷たい声で遮った。
「え?」
「自業自得だろ。……人のモン盗んで、勝手に罠にかかって、勝手に死ぬ。泥棒の末路としちゃ、教科書通りの因果応報だ」
俺は正論を吐いた。
あまりにも正しすぎて、反論の余地がないほどの正論を。
俺たちは正義の味方じゃない。
警察でもないし、ボランティア団体でもない。
ただの、借金まみれの掃き溜め集団だ。
自分たちの生活(と命)を守るだけで精一杯の俺たちが、敵対組織の罠に飛び込んでまで、自分たちを陥れた泥棒を助ける義理があるか?
ない。断じてない。
リスクとリターンが見合わないどころか、リスクしかない自殺行為だ。
「……本気で言ってるの?」
マシロの声温度が、さらに下がる。
「あの子を見捨てるって言うの? ……あんなに寂しそうな顔をしてたのに?」
「同情で飯は食えねぇよ。……それに、俺たちに何ができる? 武器もねぇ、金もねぇ、戦力は半壊してる。乗り込んだところで、仲良く並んで死体袋に入るのがオチだ」
俺は現実的な問題を並べ立てた。
実際、今の俺たちの戦力はボロボロだ。
霊柩車はサスペンションがイカれてるし、ツムギの爆薬は底をついてる。ヤクモの毒ガスも在庫切れだ。
こんな状態で紅蓮騎士団の本拠地(仮)に突っ込むなんて、正気の沙汰じゃない。
「最低……」
マシロが呟いた。
「あんた、それでも男!? ……あの時、観覧車の上であの子の手を掴んだのは、何だったのよ!」
「……商売道具を取り返すためだ。他意はねぇ」
「嘘つき! ……もういいわ。あんたが行かないなら、私一人でも行く!」
マシロ(スマホ)が浮き上がり、玄関へ向かおうとする。
だが、スマホ単体で移動できる距離なんてたかが知れているし、実体のない幽霊に物理的な干渉力はほとんどない。行っても無駄死に(二度目の死)だ。
「……待つケロ」
その時、バスタブの中から緑色の手が伸びた。
レオだ。
彼はヌルヌルした体を引きずり出し、床にベチャッと着地した。
「……ジン。貴様、本当にそれで行かないつもりケロか?」
レオが大きな目玉で俺を見上げる。
その瞳は、カエルのそれでありながら、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「僕は……騎士だケロ。騎士道精神に則れば、助けを求めるレディを見捨てるなんて、万死に値するケロ。……たとえ相手が泥棒でも、だケロ」
「お前はカエルだろ。騎士道なんて水に流せ」
「流さんケロ! ……それに、あの子は泣いていたケロ。映像の中で……『おじさん』って呼んでたケロ」
レオが一歩、俺に近づく。
「貴様は、それを無視できるほど……冷たい人間だったケロか?」
「……うるせぇな」
俺は舌打ちをした。
どいつもこいつも、綺麗なことばかり言いやがって。
ヒーローごっこがしたいなら他所でやれ。ここは現実だ。ハッピーエンドが約束されたおとぎ話の世界じゃないんだよ。
「……ちょっとトイレ」
俺は居心地の悪さに耐えきれず、席を立った。
逃げたわけじゃない。生理現象だ。生理現象には勝てない。
リビングを出て、廊下を歩く。
背中に突き刺さるマシロとレオの視線が、物理的に痛かった。
***
トイレ……ではなく、俺は無意識に足が向いていた「倉庫」の扉を開けた。
薄暗い室内。
埃と、カビと、古い油の匂いがする。
そこは、俺の「商売道具」たちの墓場であり、休憩所だ。
棚には、様々な掃除用具が並んでいる。
モップ、デッキブラシ、高圧洗浄機、チェーンソー(枝切り用)、火炎放射器(雑草焼却用)。
どれも俺がこの5年間で使い潰し、修理し、また使い潰してきた道具たちだ。
俺は手近にあったバールを手に取った。
ずしりと重い鉄の棒。
こいつは頑丈だ。人を殴るのにも、扉をこじ開けるのにも使える。
武器としては優秀だ。
だが。
「……ちげぇな」
俺はバールを握りしめ、そして棚に戻した。
違う。
重さが違う。重心が違う。
何より、手に馴染まない。
掌に感じる異物感が、酷く気持ち悪かった。
次に、チェーンソーを手に取る。
エンジンをかければ強力な武器になる。
だが、うるさいし、重いし、何より燃料の匂いが鼻につく。
「……これもダメだ」
俺は次々と道具を手に取り、そして戻した。
どれも「使える」道具だ。機能的には問題ない。
だが、俺の心が拒絶している。
「これじゃない」と。
俺は自分の右手を見つめた。
硬くなった掌。無数のマメ。指に残る古い傷跡。
この手が覚えているのは、あの錆びたハサミの感触だけだ。
あのグリップのカーブ。
バネの反発力。
刃が噛み合う瞬間の、カチンという小気味いい振動。
5年間、毎日触れてきた。
雨の日も、風の日も。
仲間が死んだ悪夢を見て飛び起きた夜も、酔い潰れて床で寝た朝も。
いつも枕元にはあれがあった。
あれは、ただの道具じゃない。
俺が「何も持っていない自分」を支えるために縋り付いた、唯一の杖だったんだ。
『おじさんの匂い……安心するの』
アリスの声が脳裏に蘇る。
あいつは、俺のハサミを抱きしめていた。
まるで、世界の全てから拒絶された子供が、ボロボロのぬいぐるみに縋り付くように。
(……似てやがる)
5年前の俺と。
全てを失って、瓦礫の中で膝を抱えていた、あの頃の俺と。
俺はポケットを探った。
指先に触れたのは、小さな金属片。
ハサミの調整ネジだ。いつか交換しようと思って、ずっとポケットに入れていた予備の部品。
それを強く握りしめる。
金属の角が皮膚に食い込み、痛みが走る。
その痛みが、俺の中のモヤモヤした感情を、一つの明確な「理屈」へと収束させていく。
「……クソッ」
俺は吐き捨てた。
分かってる。分かってるよ。
俺が行かない理由は「危険だから」でも「金にならないから」でもない。
ただ、怖いだけだ。
また失うのが。
一度拾ったものを、また自分の手から零れ落ちさせてしまうのが、死ぬほど怖いんだ。
だから、見ないフリをした。
「自業自得だ」なんて尤もらしい理由をつけて、自分を正当化しようとした。
でもよ。
俺の商売道具が、あんな汚い連中に踏みつけられてる映像を見せられて、それでも平気な顔をして寝られるほど、俺は大人になれちゃいねぇんだよ。
「……あーあ。損な性分だぜ」
俺は頭をガシガシとかきむしった。
ため息が出る。深く、重い、諦めのため息だ。
どうやら今夜も、安眠はできそうにないらしい。
俺は倉庫の隅に転がっていた、一本の鉄パイプを拾い上げた。
ただの工事現場の足場用パイプだ。
長さは1メートルちょっと。錆びていて、所々凹んでいる。
武器と呼ぶにはお粗末すぎる鉄屑。
だが、俺が握ると、不思議と手に馴染んだ。
少なくとも、あの新品のバールよりはずっとマシだ。
「……行くか」
俺は鉄パイプを肩に担ぎ、倉庫を出た。
***
リビングに戻ると、空気はお通夜のように沈んでいた。
マシロは画面を伏せて沈黙し、レオはバスタブの隅で膝を抱えている。
ツムギは空っぽのリュックを呆然と見つめ、ヤクモだけが相変わらず薬品を調合している(こいつは通常運転だ)。
「……おい」
俺が声をかけると、全員が弾かれたように顔を上げた。
「ジン!?」
「先輩……?」
俺は無言で鉄パイプをテーブルの上に置いた。
ゴトン、と重い音がする。
「……行くぞ」
短く告げる。
「え……?」
「勘違いすんなよ。俺は正義の味方じゃねぇ。人助けなんてボランティアをする気は更々ねぇ」
俺は腕組みをし、ふてぶてしい顔を作った。
照れ隠しだ。素直に「助けに行く」なんて言ったら、マシロに一生からかわれる。
「ただ……俺の商売道具があんな汚ぇ連中に触られてるのが、生理的に我慢ならねぇだけだ」
俺はヤクモが投影していたホログラム――ハサミが踏みつけられている映像を指差した。
「あれは俺のモンだ。所有権は俺にある。……それを勝手に持ち出して、あまつさえ土足で踏みつけるなんざ、万死に値する」
「……ぷっ」
マシロが吹き出した。
「な、なんだよ」
「ううん。……相変わらず素直じゃないわね、あんたは」
マシロ(スマホ)が浮き上がり、画面にニッコリとした笑顔の顔文字を表示させる。
「でも、そういうとこ、嫌いじゃないわよ」
「うるせぇ。……おいツムギ! 残ってる火薬はあるか!?」
「あ、ありますっ!」
ツムギがバッと顔を上げ、目を輝かせた。
「リュックの底に、非常食用の『タコさんウインナー製造爆竹』と、湿気ったねずみ花火が少々! あと、爆破予定だったビルの設計図(折り紙になってる)があります!」
「ゴミじゃねぇか! ……まあいい、工夫して使え! 壁の一枚くらいなら吹き飛ばせるだろ!」
「了解です! 知恵と勇気と爆発でなんとかします! 爆弾に不可能はありません!」
ツムギがガッツポーズをする。根拠のない自信だが、こいつならやりかねない。
「ヤクモ! お前は……」
「ボクかい? 毒ガスは切れちゃったけど、面白いものがあるよ」
ヤクモは白衣のポケットから、怪しい色の液体が入った注射器を取り出した。
「『強制興奮剤・改』だ。打てば痛覚を遮断して、3分間だけ身体能力を3倍にする。……ただし、副作用で理性が飛んで、目の前の動くものを全て破壊する殺人マシーンになるけどね」
「使うかボケ! ……まあ、最後の手段として持っとけ」
「了解。……あ、レオ君用の『人間に戻る薬(試作品)』も持っていくかい?」
「あるのか!?」
「不完全だけどね。……『人魚の口づけ(改)』。DNA情報を強制的に書き戻す劇薬だよ。ただし、効果時間は3分間。カップラーメンが出来上がるまでのシンデレラタイムさ」
「3分……」
レオが絶句する。
だが、彼はすぐに緑色の顔を引き締めた。
「上等だケロ! 3分あれば十分だ! カップ麺ができる間に、悪党どもを成敗してやるのがヒーローだケロ!」
「その意気だ。……副作用でオタマジャクシになっても知らねぇぞ」
「……えっ? オタマジャクシ……?」
「行くぞ! 総員、再出撃だ!」
俺はレオの動揺を無視して号令をかけた。
もう迷いはない。
思考の脱線も、現実逃避も終わりだ。
俺たちは「遺失物管理センター」だ。
誰かが落としたもの、忘れたもの、そして捨てられたものを拾うのが仕事だ。
アリス・ファントムハイヴ。
あのガキもまた、世界から捨てられた「迷子」の一人だと言うなら、拾いに行くのが俺たちの流儀だろ。
「マシロ、車のエンジンをかけろ! まだ動くか!?」
「ギリギリよ! タイヤが一本パンクしてるし、エンジンから異音がしてるけど、根性で回すわ!」
「上等だ! ……待ってろよ、泥棒猫」
俺は心の中で呟いた。
肩に担いだ鉄パイプの冷たさが、心地よく熱を帯びていく。
「勝手に死ぬなよ。……テメェの命の使い道は、俺が決める」
俺たちは夜の闇へと飛び出した。
目指すは、死のカウントダウンが刻まれる、孤独な少女の隠れ家。
アンラッキー・カルテットの夜は、まだ終わらない。
むしろ、ここからが本番だ。
(……待ってろ、相棒。すぐに迎えに行くからな)
俺の右手が、失われたハサミの感触を求めて、冷たい鉄パイプを強く握りしめた。




