第54話:猫の隠れ家
「――ただいま」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
返事がないことは分かっている。
それでも口にしなければ、自分がこの世界のどこにも存在していないような気がして、怖くなるからだ。
あるいは、そうやって「日常」のルーティンを演じることで、自分がまともな人間であるという錯覚を維持しようとする、哀れな防衛本能なのかもしれない。
ダンジョンB3F、廃棄区画『鉄屑の墓場』。
かつて都市開発に使われ、今は用済みとなって投棄された巨大なコンテナの山。
その隙間に隠されるようにして、少女――アリス・ファントムハイヴの「城」はあった。
サビついたコンテナの扉を押し開ける。
キィィィィ……という蝶番の悲鳴が、静寂を切り裂く。
この音を聞くたびに、アリスは思うのだ。
ああ、まるでB級ホラー映画のオープニングみたいだ、と。
このあと金髪の美女がシャワーを浴びて、背後からチェーンソー男に襲われるのがお約束だが、残念ながらここにはシャワーもないし、あたしは金髪でもない。銀髪だ。そして何より、チェーンソー男よりもタチの悪い「孤独」という怪物が、すでに部屋の中で待ち構えている。
「……さむっ」
アリスは体を震わせ、コートの前を合わせた。
中は、外見からは想像もつかないほど煌びやかだった。
床には最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には美術館から盗み出した名画が無造作に立てかけられている。
『ひまわり』の隣に『叫び』があり、その下には誰かの肖像画が虚ろな目でこちらを見ている。
テーブル代わりの木箱の上には、王冠、宝石、金の延べ棒といった、世界中の泥棒が羨むような「戦利品」の山が築かれていた。
総額、数百億円。
小国の国家予算が軽く吹き飛ぶほどの富が、ここにはある。
だが、今の室温は冷蔵庫の中と大差ない。
宝石の輝きは美しいが、熱を発してはくれない。
黄金の輝きは眩しいが、心を満たしてはくれない。
ルビーを燃やしても暖は取れないし、ダイヤモンドを齧っても腹は膨れないのだ。
「……はぁ。虚しい。この展開、尺稼ぎじゃないよね?」
アリスは誰に言うでもなく呟き、絨毯の上にドサリと寝転がった。
天井を見上げる。コンテナの鉄板には結露が張り付き、今にも冷たい雫となって落ちてきそうだ。
今日の夕飯は何にしようか。
昨日盗んできた高級キャビアの缶詰があるけれど、あれって正直、塩辛いだけでそんなに美味しくない。プチプチした食感は嫌いじゃないけれど、白いご飯に乗せて食べるには味が濃すぎるし、そもそもここには炊飯器がない。
コンビニのツナマヨおにぎりの方が、よっぽどご馳走だ。
ああ、ツナマヨが食べたい。
海苔がパリパリじゃなくて、湿気でしなしなになったやつ。あの湿った海苔の匂いを嗅ぐと、なぜか妙に安心するのだ。
「……ふん。今日はいっぱい走ったなぁ」
思考を強制的に切り替える。
今日の「鬼ごっこ」は楽しかった。
あんなに必死に追いかけられたのは初めてだ。
あのおじさん――黒鉄ジン。
口が悪くて、ボロボロの服を着て、目つきの悪い掃除屋。
正直、最初はただのカモだと思っていた。
レオとかいうピエロの影に隠れている、地味な裏方。
でも、違った。
あの人は、本物だった。
アリスは寝返りを打ち、懐から「今日の戦利品」を取り出した。
赤錆びた園芸用の道具。
『高枝切りバサミ』。
ホームセンターで売っていそうな安物だ。
ここにある他の宝物――王冠のルビーや、古代王朝の短剣――に比べれば、ゴミ同然の価値しかない。
リサイクルショップに持って行っても、100円で買い取ってくれるかどうか怪しいレベルだ。
なのに。
「……あったかい」
アリスはハサミを抱きしめ、頬を擦り寄せた。
冷たいはずの金属から、不思議な温もりが伝わってくる気がした。
それは物理的な熱ではない。
残留思念、あるいは「魂」と呼ばれるものの温度だ。
使い込まれたグリップの感触。
指の形に合わせて摩耗したゴムの凹凸が、アリスの手のひらに吸い付くようにフィットする。
刃こぼれした刃先に染み付いた、オイルと鉄、そして微かな血の匂い。
それらは全て、持ち主が注ぎ込んできた、途方もない時間の重みを物語っている。
5年。
365日×5年=1825日。
時間にして約4万3800時間。
あのおじさんは、このハサミと共に生きてきた。
雨の日も、風の日も、二日酔いの日も、パチンコで負けた日も。
毎日手入れをして、研いで、磨いて。
「誰にも必要とされないガラクタ」を、「世界に一つだけの相棒」に変えた。
「……ねえ、おじさん」
アリスはハサミに話しかけた。
側から見れば、錆びたハサミに話しかける危ない少女だ。
でも、いいじゃないか。誰も見ていないんだから。
友達がいないボッチの特権だ。独り言の相手くらい、自分で選ばせてほしい。
「なんで、あたしを庇ったの?」
観覧車から落ちた時。
おじさんは、あたしを抱きかかえて、自分の体をクッションにした。
鉄骨にハサミを食い込ませてブレーキをかけた時、おじさんの腕からは、筋肉が断裂する嫌な音がしていた。
ブチブチブチッ……って。
まるで古くなった輪ゴムを無理やり引き伸ばして切るような、生理的な嫌悪感を催す音。
思い出すだけで、自分の腕まで痛くなってくる。
普通なら離すはずだ。
自分の命が惜しければ、邪魔な荷物なんて投げ捨てて、身軽になればいい。
それが生物としての正しい生存戦略だ。
「あたしは泥棒だよ? おじさんの大事なものを盗んだ敵だよ? ……見捨てればよかったじゃん」
理解できない。
大人はみんな、損得勘定で動く生き物だと思っていた。
自分に利益があるなら笑いかけ、用が済めばゴミのように捨てる。
それが、アリスが知っている「大人」の正体だった。
――5年前。
走馬灯のように、古い記憶が蘇る。
こういう時に限って、思い出したくない記憶ばかりが鮮明に再生されるのは、脳のバグなのだろうか。
雨の日だった。
施設の前に置き去りにされたあの日。
冷たいアスファルトの感触。叩きつける雨音。
通り過ぎる大人たちの足。革靴、ハイヒール、スニーカー。
誰も、立ち止まらなかった。
傘を差し出してくれる人も、声をかけてくれる人もいなかった。
あたしは透明人間だった。
あるいは、道端に転がる空き缶や、噛み終わったガムと同じ、「背景」の一部でしかなかった。
『いらない子』。
誰かの声が聞こえた気がした。
幻聴かもしれない。でも、その言葉は呪いのように、アリスの心臓に焼き付いて離れない。
だから、盗んだ。
宝石を、絵画を、注目を。
世間を騒がせ、警察を翻弄し、「怪盗ファントム」という名前がニュースで流れる時だけ、あたしは自分が生きていると実感できた。
「見て! あたしはここにいるよ! あんたたちが捨てたガラクタは、こんなに凄いことができるんだよ!」
そう叫びたかった。
誰かに、自分を見つけてほしかった。
「……でも、おじさんは違った」
あの人は、あたしを見た。
怪盗としてでも、子供としてでもなく。
ただの「性根の悪いガキ」として、本気で怒り、本気で説教し、そして本気で守ろうとした。
ハサミの使い方をレクチャーされた時は、正直ドン引きしたけれど。
でも、あの時の真っ直ぐな目。
あれは、道具を愛する職人の目であり、同時に、迷子を叱る父親のような目でもあった。
「……変なの。変態。ロリコン」
悪態をついてみるが、胸の奥がチクリと痛む。
ハサミを抱きしめる力が強くなる。
このハサミには、あのおじさんの「匂い」が染み付いている。
汗と、泥と、そして不器用な優しさの匂いが。
ヤニ臭い煙草の匂いも少し混じっているけれど、それすらも今は愛おしい。
「……返さなきゃ、よかったかな」
アリスは少しだけ後悔した。
こんなボロいハサミ一つで、あんなに必死になるなんて。
もし返してしまったら、あの人はもう、あたしを追いかけてくれないかもしれない。
「用済み」になって、また透明人間に戻ってしまう。
それが怖かった。
泥棒が警察に追われるのは平気だ。でも、誰にも追われないのは、死ぬより怖い。
「……ううん。まだ終わってないもん」
アリスは首を振った。
彼女の手元には、もう一つの戦利品がある。
『銀のオルゴール』。
紅蓮騎士団とかいう怖い人たちが血眼になって探していた、謎の小箱。
屋敷の机の上にポツンと置かれていたそれを、アリスは「ついで」に盗んできたのだ。
おじさんの気を引くための、第二のオモチャとして。
「これがあれば、また遊んでもらえるよね」
アリスはオルゴールを手に取った。
手のひらサイズの、銀色の箱。
ずっしりと重い。中身が詰まっている証拠だ。
表面には精巧な彫刻が施されており、月と星、そして踊る道化師の姿が彫られている。
道化師の目はルビーで出来ていて、見る角度によって笑っているようにも、泣いているようにも見える。
美しい。
だが、どこか不吉な美しさだ。
見ているだけで吸い込まれそうな、底知れない闇を感じる。
本能が警鐘を鳴らしている。「これは触ってはいけないものだ」と。
まるで、深海魚が発光体でおびき寄せるルアーのような、致命的な魅力。
「……どんな音がするのかな」
アリスの好奇心が鎌首をもたげた。
泥棒猫の習性だ。
箱があれば開けたくなる。秘密があれば暴きたくなる。
「好奇心は猫をも殺す」なんてことわざがあるけれど、好奇心のない猫なんて、ただの毛玉だ。死んだも同然だ。
「ちょっとだけ。……音を聞くだけなら、いいよね」
彼女は、オルゴールの底にあるゼンマイに指をかけた。
キリキリ、と硬い感触が指に伝わる。
何年も時が止まっていたかのような、重たい手応え。
指の皮が擦れて痛い。でも、その痛みが逆に期待感を煽る。
キリッ、キリッ……。
ゼンマイを巻き終える。
心臓の鼓動が早くなる。
ドクン、ドクン。
静寂の中で、自分の心音がやけに大きく響く。
アリスは震える指先で、留め具を外した。
カチリ。
小さな音が、世界の終わりを告げる引き金のように響いた。
パカッ。
蓋が開く。
その瞬間。
「――――ッ!?」
音が、鳴らなかった。
いや、聞こえなかった。
美しいメロディ? 癒やしの音楽?
そんなものは幻想だ。
鼓膜ではなく、脳髄に直接響くような、不協和音の絶叫が炸裂したからだ。
ギャァァァァァァァァッ!!
何万人の亡者が一斉に爪を立てて黒板を引っ掻いたような、精神を削り取る悲鳴。
視界が明滅し、平衡感覚が消し飛ぶ。
「あ、が……ッ!?」
アリスの手からオルゴールが落ちる。
だが、離れない。
箱の中から飛び出した、黒い茨のような影が、アリスの手首に食らいついていたのだ。
「なに、これ……!? 痛い! 熱い!」
茨は生き物のように蠢き、アリスの腕を這い上がり、皮膚を食い破って体内へと侵入してくる。
ズブブブ……という嫌な音が体内で響く。
血管の中に、沸騰した鉛を流し込まれたような激痛。
あるいは、生きたまま神経を引き抜かれるような、鮮烈な苦痛。
「嫌ッ……! 離れて! 離してぇぇッ!」
アリスは悲鳴を上げ、もう片方の手で茨を引き剥がそうとした。
だが、触れた指先からも茨が侵入し、両手を拘束する。
まるで蜘蛛の巣にかかった蝶だ。もがけばもがくほど、絡め取られていく。
吸われる。
何かが、体の中から強引に引きずり出されていく。
体力? 魔力?
いいや、もっと根源的な……「命」そのものが。
魂の灯火が、ストローで吸い上げられるように、急速に小さくなっていく感覚。
「あ……か、はっ……」
呼吸ができない。
肺が凍りついたように動かない。
視界の端から、色が失われていく。モノクロの世界。
手足の感覚がなくなり、自分の体が泥人形になったように重い。
走馬灯が見えた。
まただ。さっき見たばかりの、雨の日の記憶。
でも今度は、もっと鮮明だ。
雨の冷たさ、アスファルトの匂い、そして置き去りにしていった親の背中。
あの時の絶望が、今の痛みとリンクして、何倍にも増幅される。
(……罠、だ……)
薄れゆく意識の中で、アリスは悟った。
これは宝物じゃない。
誰かを殺すための、純粋な悪意の塊だ。
『吸命の魔道具』。
持ち主の命を喰らい、魔力に変えて爆発する、呪いの時限爆弾。
あの依頼書。あの屋敷。
すべては、あたしにこれを盗ませるための舞台装置だったんだ。
「怪盗なら、必ずこのオルゴールに目を付けるはずだ」
そう見透かされていた。
あたしは、自分から毒入りの餌に飛びついた、マヌケなネズミだったんだ。
「……助け、て……」
アリスは床に倒れ込んだ。
伸ばした手の先に、ジンのハサミがある。
あと数センチ。
あともう少しで届くのに、指が動かない。
体が、冷たい。
まるで、世界の底に沈んでいくようだ。
「おじ、さん……」
あんなに温かかったハサミが、今は遠い。
視界が闇に塗り潰されていく。
誰か。誰でもいい。
あたしを見つけて。
あたしはここにいるよ。
ゴミなんかじゃない。生きている人間なんだよ。
その時。
ドォォォォォォン!!
コンテナの入り口が、爆音と共に吹き飛んだ。
アリスの願いが届いたわけではない。
もっと残酷な、「死神」の到着を告げるノックだった。
鉄の扉がひしゃげ、熱風と共に黒い影たちが侵入してくる。
深紅の鎧。
無機質なフルフェイスの兜。
手には最新鋭の魔導ライフル。
紅蓮騎士団。
「……確認した。ターゲットの無力化完了」
先頭に立つ男――遊園地で見た、隻眼の隊長が、冷酷な声で告げた。
彼は倒れているアリスを見下ろし、ゴミを見るような目で鼻を鳴らした。
「愚かな泥棒猫め。……好奇心は猫をも殺すと言うが、まさにその通りだな」
「……あ、ぅ……」
「回収せよ。……『爆弾』の起動には成功したようだ。アリス・ファントムハイヴの生命力を吸い尽くせば、このオルゴールは都市一つを消し飛ばす戦略兵器になる」
男の言葉が、遠くから聞こえる。
あたしは……爆弾?
人間じゃないの?
ただの部品? 燃料?
「連れて行け。……これ以上の抵抗は不可能だ」
隊長の合図で、兵士たちがアリスを取り囲む。
無骨な手が伸びてくる。
抵抗する力はない。
アリスは、ただ無力な人形のように、乱暴に抱え上げられた。
(……やだ)
連れて行かないで。
暗いところは嫌だ。
寒いところは嫌だ。
まだ、死にたくない。
まだ、誰にも「さよなら」って言ってない。
まだ、あのおじさんに……「ごめんなさい」も「ありがとう」も言えてないのに。
アリスの視界の端に、床に転がったハサミが映る。
錆びついた、ボロボロのハサミ。
でも、今のあたしにとっては、ここにあるどんな宝石よりも、世界で一番綺麗なものに見えた。
(……おじさん)
心の中で叫ぶ。
届くはずのないSOS。
あの人は言った。
『俺の所有物を持ったまま死なれるのは迷惑だ』と。
ごめんね、おじさん。
あたし、やっぱり泥棒失格みたい。
盗んだもの、守りきれなかったよ。
あんたの大事な相棒、こんなところに置いていっちゃうね。
アリスの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙は頬を伝い、床に落ちることなく蒸発した。
意識が途切れる寸前、彼女は見た気がした。
兵士の足が、無造作にハサミを踏みつけるのを。
――パキッ。
乾いた音が、アリスの心を粉々に砕いた。
それはハサミが壊れた音か、それとも彼女の最後の希望が折れた音か。
闇が、全てを飲み込んだ。




