第51話:第三勢力の介入
重力というやつは、いつだって公平で、残酷で、そして無愛想だ。
英雄だろうが、大泥棒だろうが、あるいは借金まみれの清掃員だろうが、足場を失えば等しく「落下物」として処理される。
ヒュオォォォォォォォッ!!
鼓膜を叩く暴風音。
内臓が浮き上がるような浮遊感。
そして、眼下に迫るコンクリートの地面という名の「死の結末」。
地上50メートルからのダイブ。
自由落下における体感時間は、走馬灯を見る暇もないほど一瞬だ。だが、死を目前にした人間の脳内クロックは、その一瞬を永遠のように引き伸ばすという。
「……くっ、重めぇな! 何キロあんだよテメェ!」
俺、黒鉄ジンは、落下する瓦礫の雨の中で、小脇に抱えた「荷物」に向かって悪態をついた。
いや、実際に重いわけではない。アリス・ファントムハイヴは小柄で、猫のように軽い。
重いのは、こいつが懐に抱え込んでいる「余計な戦利品」と、俺の背負った「死亡フラグ」の質量だ。
「きゃぁぁぁっ! 死ぬ死ぬ死ぬ! おじさん、なんとかしてよぉ!」
アリスが俺の首にしがみつき、鼓膜が破れそうな悲鳴を上げる。
さっきまでの不敵な怪盗の面影はどこへやら、今はただのパニックに陥った少女だ。
その瞳には、迫りくる地面と、自らの死の予感だけが映っている。
「喚くな! 舌噛むぞ!」
俺は空中で体勢を変えた。
落下速度、秒速30メートル超。
パラシュートはない。魔法で空を飛ぶこともできない。
マシロの霊力も、この速度を受け止めるには足りない。
だが、俺には「道具」がある。
俺は右手でアリスを抱きかかえたまま、左手の『高枝切りバサミ』を逆手に持ち替えた。
狙うのは、崩壊しながら傾いていく観覧車の、鉄骨の支柱。
爆破され、捻じ曲がりながら倒壊していく巨大な鉄の墓標だ。
「マシロ! 座標計算! 一番太い鉄骨はどこだ!?」
俺は胸ポケットのスマホに向かって叫んだ。
風圧で息ができない。思考が焼き切れそうだ。
『右斜め下、3時の方向! 距離5メートル! でもジン、あの速度で接触したら腕が千切れるわよ!?』
マシロの警告。
知ったことか。腕一本で命が買えるなら安いもんだ。
それに、俺の相棒なら、きっと耐えてくれる。こいつは、俺が泥の中から拾い上げて、毎日油を差して磨き上げた、世界で一番頑丈なゴミなんだからな。
「『床掃除・高所作業用アタッチメント』――」
俺は空気を蹴るように身体を捻り、落下軌道を無理やり変えた。
迫りくる鉄骨の壁。
俺はハサミの刃を開き、その鉄骨の縁を、まるでレールのように挟み込んだ。
「――『摩擦制動』ッ!!」
ガギギギギギギギギギッ!!!!
凄まじい金属音と火花が、夜空に散った。
ハサミの刃が鉄骨を削り、その強烈な摩擦抵抗で落下速度を殺す。
瞬間、腕にかかる強烈なG。
肩の関節が悲鳴を上げ、筋肉がブチブチと断裂する音が体内から聞こえる。
「ぐ、ぅぅぅぅぅ……ッ!!」
熱い。
ハサミのグリップが摩擦熱で焼け付き、掌の皮を焦がしていく。
鉄の焼ける匂いと、自分の血の匂いが混ざり合う。
だが、離すわけにはいかない。
ここで離せば、俺とこのガキは地面の染みだ。
「お、おじさん……!?」
腕の中のアリスが、火花に照らされた俺の顔を見て息を呑む。
鬼のような形相で、歯を食いしばり、それでも腕の力だけは緩めない俺の姿。
ただの泥棒である彼女にとって、他人のためにそこまでする大人の姿は、理解の範疇を超えていたのかもしれない。
「捕まってろ……! 振り落とされても知らねぇぞ!」
ガガガガッ……!
速度が落ちる。
鉄骨の終わりが見える。
地面まであと10メートル。5メートル。
「今だッ! 跳べ!」
俺はハサミを外し、鉄骨を蹴った。
最後の数メートルは自由落下。
だが、致死速度ではない。
ダンッ!!
俺たちは地面に着地した。
衝撃を殺すために前転し、瓦礫の上を転がって受け身を取る。
ザザァッ……と土煙を上げて、俺たちの体はようやく停止した。
「……ッ、はぁ、はぁ……」
俺は大の字になって空を見上げた。
頭上では、爆破された観覧車が、まるで巨獣の死骸のようにゆっくりと崩れ落ちていく。
ギリギリだった。
あとコンマ一秒判断が遅れていたら、俺たちはあの鉄屑の下敷きだった。
「……生きてる、か?」
俺は隣でへたり込んでいるアリスに声をかけた。
左腕が痺れて感覚がない。ハサミの刃はボロボロに欠け、赤熱している。
「……うん。……生きてる」
アリスは呆然と自分の手足を確認し、それから俺を見た。
その瞳は、恐怖と、興奮と、そして何か得体の知れない感情で揺れていた。
「すごい……。人間業じゃないよ、おじさん。……やっぱり、あたしの目に狂いはなかった」
「変な勘違いするな。……今はそれどころじゃねぇぞ」
俺は痛む体を起こし、周囲を警戒した。
観覧車を爆破した犯人。
俺たちを殺そうとした「第三勢力」が、すぐそこまで迫っているはずだ。
ザッ、ザッ、ザッ……。
瓦礫を踏みしめる、統率の取れた軍靴の音。
土煙の向こうから、無数の影が現れる。
一人や二人じゃない。
軍隊だ。
深紅の鎧に身を包み、手には最新鋭の魔導ライフルや大剣を携えた、完全武装の集団。
その数、およそ30名。
全員が、感情のない、殺意の塊のような冷徹なオーラを纏っている。
「……『紅蓮騎士団』か」
俺は舌打ちをした。
このダンジョン都市において、レオ率いる『白銀騎士団』と双璧をなす、もう一つの巨大武装組織。
表向きはライバル関係だが、その実態は、非合法な手段も辞さない過激派の傭兵集団だ。
遊園地の爆破なんて、奴らにとっちゃ朝飯前だろう。
「――見つけたぞ。ドブネズミども」
集団の中から、一人の男が進み出た。
隊長格だろう。
顔の半分を火傷の痕で覆い、眼光鋭い隻眼の男。
その手には、不釣り合いなほど巨大なウォーハンマーが握られている。
「随分と派手に暴れてくれたな。おかげで我々の『計画』が少し狂った」
男の声は、鉄板を爪で引っ掻くような不快な響きを持っていた。
「……計画だと? 遊園地をスクラップにする計画か?」
俺は高枝切りバサミを杖代わりにして立ち上がり、皮肉を飛ばした。
レオたち(カエル、爆弾魔、変態)の姿は見えない。
落下地点がズレたか、あるいは瓦礫の向こうで分断されたか。
いずれにせよ、今ここにいるのは、満身創痍の俺と、非力な怪盗だけだ。
「ここはお前らの私有地じゃねぇぞ。不法投棄で通報してやろうか?」
「減らず口を叩くな、掃除屋風情が」
男はハンマーを地面に叩きつけた。
ドォォン! と地面が揺れる。
「我々の用があるのは、貴様ではない。……そこの泥棒猫だ」
男の隻眼が、俺の背後にいるアリスを射抜いた。
「アリス・ファントムハイヴ。……貴様が盗んだ『銀のオルゴール』。それを返してもらおうか」
「……オルゴール?」
俺は眉をひそめてアリスを振り返った。
アリスはビクッとして、懐を隠すような仕草をした。
「……おい、ガキ。お前、ハサミ以外にも何か盗んだのか?」
「……つ、つい出来心で」
アリスがおずおずと取り出したのは、古びた銀色の小箱だった。
手のひらサイズの、アンティーク・オルゴール。
精巧な彫刻が施されているが、どこか禍々しい、不吉な魔力を帯びているように見える。
「依頼品の屋敷にあったから……ハサミのついでに頂いちゃったの。だって、すごく綺麗な細工だったし……」
「手癖が悪すぎるだろ! この状況で盗品コレクション自慢か!」
俺は頭を抱えた。
こいつは筋金入りの泥棒だ。命の危機に瀕しても、お宝への執着を捨てられない業の深さ。
いや、それだけじゃない。
このガキは、「盗む」ことでしか自分の存在を確認できないんだ。
「返せ。……それは、我々『紅蓮』にとって重要な『鍵』なのだ」
隊長が一歩踏み出す。
周囲の騎士たちも、一斉に武器を構える。
一触即発。
俺の武器はボロボロの園芸用品。アリスは非力。味方は行方不明。
対する敵は、完全武装の精鋭部隊。
詰んでいる。どう見てもチェックメイトだ。
「……嫌よ」
だが、アリスはオルゴールを胸に抱きしめ、首を横に振った。
その瞳には、異様なほどの執着が宿っていた。
「これはあたしが盗んだの。あたしの戦利品よ。……あんたたちなんかに渡さない」
「……死にたいのか?」
「死んでも渡さない! だって……これ、すごく『悲しい音』がするんだもん」
アリスの言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
悲しい音?
こいつの『鑑定眼』は、物の価値だけでなく、その物に込められた「情念」すら読み取る。
つまり、このオルゴールには、ただならぬ「何か」が込められているということか。
「……ほう。なら、死ね」
隊長が無慈悲に宣告した。
彼がハンマーを振り上げる。
交渉決裂。問答無用の処刑タイムだ。
「総員、射撃用意! 目標、泥棒猫と掃除屋! 挽肉にしろ!」
カチャッ、カチャッ!
魔導ライフルの一斉装填音。
数十の赤いレーザーサイトが、俺たちの身体に照準を合わせる。
「……マシロ、バリア張れるか?」
『無理よ! さっきの落下でエネルギー空っ欠よ! あんたのハサミも限界でしょ!?』
「知ってるよ! ……チッ、やるしかねぇか」
俺はアリスを背中に隠し、ボロボロの高枝切りバサミを構えた。
刃こぼれだらけの刃。曲がった柄。
これで魔法の弾丸の雨を防ぎきれるか? いや、無理だ。
だが、俺の背中にはガキがいる。
俺が拾った「迷子」がいる。
ここで退いたら、掃除屋の名折れだ。
「アリス、耳塞いで屈んでろ」
「え? でも、おじさん……」
「いいから聞け! ……行くぞ、三流騎士ども! 掃除の時間だ!」
俺が吠えた瞬間。
ドガァァァァァァン!!!!!
敵陣のど真ん中で、唐突に爆発が起きた。
「なッ!?」
「うわぁぁぁッ!?」
隊長を含め、数人の騎士が吹き飛ぶ。
地面が陥没し、黒煙が舞い上がる。
何だ? 誤射か?
いや、違う。この独特の、火薬の匂いと焦げ臭さ。そして、無駄にキラキラした演出用の閃光。
「お待たせしましたぁぁぁッ!! 『アンラッキー・カルテット』、遅ればせながら参上ですぅぅぅ!」
煙の中から飛び出してきたのは、巨大なリュックを背負った爆弾娘――栗花落ツムギだった。
彼女は両手に手榴弾を房のように持ち、満面の笑みで敵陣に特攻をかけていた。
「プレゼントフォーユーです! 受け取ってください、私の熱い想い(ナパーム弾)を!」
ボムッ! ボムッ! ドカァァン!
次々と投げ込まれる爆弾。
統率の取れていた騎士団の陣形が、一瞬で阿鼻叫喚の混乱に陥る。
「な、なんだこの女は!? 自爆テロか!?」
「撃て! 近づけるな!」
「無駄だよ無駄だよぉ! ボクの『特製ガス』も吸ってくれたまえ!」
さらに、反対側の瓦礫の陰から、ガスマスクを装着した白衣の男――薬師寺ヤクモが現れた。
彼が手に持った噴霧器から、毒々しい紫色の煙がプシューッと噴射される。
「『神経毒ガス・タイプB(即効性)』だ。吸うと三秒で手足が痺れて、五秒で幻覚が見えて、十秒で失禁するよ!」
「ゲホッ、ガハッ……!?」
「め、目がぁぁぁ!」
紫の煙を吸い込んだ騎士たちが、次々と膝をつき、泡を吹いて倒れていく。
地獄絵図だ。
正義の騎士団が、一瞬にしてカオスな実験場と化した。
「……あいつら、やりやがったな」
俺は呆れつつも、口元を緩めた。
最高だ。
ロクでもない仲間たちだが、こういう時の破壊力だけは信頼できる。
「ケロォォォッ!!」
そして、トドメとばかりに、瓦礫の上から緑色の影が跳んだ。
バスタブ(台車付き)に乗ったカエル人間――レオだ。
彼はヤクモの作った『一時的に巨大化する薬(失敗作)』を飲まされたのか、通常時の二倍近いサイズに膨れ上がっていた。
「僕を忘れるなケロ! 騎士団長(仮)の怒りを知れ!」
ベチャッ!!
巨大カエルが、隊長(隻眼の男)の顔面にダイレクト・プレスを決めた。
ヌルヌルの腹が、男の視界と呼吸を奪う。
「ぐぇッ!? な、なんだこのヌメヌメは……! 離せ! 臭い!」
「失礼な! これは高級保湿ローションだケロ!」
カオス。
完全に戦場がコント会場と化している。
「今だ! アリス、走るぞ!」
俺はこの隙を見逃さなかった。
混乱する敵陣の隙間を縫って、包囲網の外へ抜け出そうとする。
だが。
「……甘いな」
カエルを引き剥がし、毒ガスを風魔法で払いのけた隊長が、怒髪天を衝く形相で立ち上がった。
その手には、禍々しい魔力を帯びた赤い宝珠が握られている。
「貴様らごときの悪ふざけで、我々の計画が止まると思うか?」
隊長が宝珠を掲げる。
「第3級・広域拘束術式、解放! ――『重力鎖』!」
ブォォォォォン!!
空間が歪んだ。
俺たちの足元の地面から、赤黒い鎖のような魔力の波が噴出し、全員の足首に絡みついた。
「ぐっ……!?」
重い。
まるで鉛の靴を履かされたように、足が地面に縫い付けられる。
俺だけでなく、ツムギも、ヤクモも、レオも、全員がその場に縫い止められた。
「キャッ!?」
アリスが転ぶ。
「……終わりだ」
隊長が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その背後には、体勢を立て直した騎士たちが、怒りに満ちた目で一斉に銃口を向けている。
爆煙と毒ガスも、風魔法使いによって晴らされつつある。
万事休す。
小手先の奇襲は、圧倒的な戦力差の前には時間稼ぎにしかならなかった。
完全に、包囲された。
「貴様らの悪運もこれまでだ。……ここで全員、消えてもらおう」
隊長がハンマーを振り上げた。
処刑のカウントダウン。
逃げ場はない。
助けは来ない。
俺たちは今、正真正銘の「詰み(チェックメイト)」の盤上に立たされていた。
「……アリス。俺の後ろにいろ」
俺は動かない足を踏ん張り、折れかけたハサミを構えた。
だが、その背中に、少女の震える体温はもうなかった。
カラン……。
足元に転がってきたのは、小さな金属球。
発煙筒だ。
「……え?」
俺が振り返ると、そこには、冷ややかな瞳で俺を見下ろすアリスの姿があった。
彼女の手には、しっかりと『銀のオルゴール』が抱かれている。
そして、その腰には――いつの間にか俺のホルダーから抜き取られた、『高枝切りバサミ』がぶら下がっていた。
「……ごめんね、おじさん」
アリスが呟く。
「あたしは『泥棒』なの。……沈む船からは、一番先に逃げるのが流儀よ」
ボンッ!!
紫色の煙が、俺たちの間を分断した。




