第50話:観覧車での剪定講座
高いところが好き、というのは『バカと煙』の専売特許だと言われている。
だが、現代のダンジョン都市においては、そこに『怪盗』と『自殺志願者』、そして『給料泥棒』が追加されるべきだろう。
地上50メートル。
吹きっさらしの鉄骨の上。
俺、黒鉄ジンの頬を、カミソリのように冷たい夜風が切り裂いていく。
「……寒ッ!!」
思わず口から漏れたのは、ハードボイルドな決め台詞ではなく、ただの生理的な不満だった。
眼下には、宝石箱をひっくり返したようなダンジョン都市の夜景が広がっている。
本来ならロマンチックなデートスポットだろうが、足元が「手すりのない鉄骨」である以上、ここは処刑台以外の何物でもない。
「ヒャッハー! 絶景ですね先輩! ここから爆弾を落としたら、綺麗な花火が見れますよ!」
隣で、栗花落ツムギが目を輝かせて下界を覗き込んでいる。
彼女は高所恐怖症という概念を母親の胎内に忘れてきたらしい。リュックからC4爆薬を取り出し、紙飛行機のように折ろうとしている。
「やめろ。地上に被害が出る。……それより、ターゲットを見失うなよ」
俺はモップを杖代わりにして、強風に耐えながら上を見上げた。
俺たちが立っているのは、巨大な観覧車の基部プラットホーム。
そして、獲物である怪盗アリスは、すでに動き出したゴンドラの上に飛び乗り、頂上へと向かっていた。
「キャハハハッ! 遅いよおじさーん! あたしは『お星様』に近いところまで行っちゃうよー!」
頭上から、挑発的な笑い声が降ってくる。
ゴンドラの屋根に座り、足をブラブラさせているアリスのシルエット。
その手には、俺の愛用する『高枝切りバサミ』が握られている。
「……チッ。逃げ足の速いガキだ」
俺は舌打ちをした。
エレベーターで追いかける? そんな悠長な機能はこの廃墟にはない。
階段? 腐り落ちている。
残されたルートは一つ。
メンテナンス用の、剥き出しの鉄骨支柱のみ。
「……行くぞ。レオ、ヤクモ、ツムギ。お前らは下で待機だ。落ちてきた俺を受け止める準備だけしとけ」
「無茶だケロ! 人間……いや、カエルが登れる場所じゃないケロ!」
バスタブ(台車付き)の中で、レオが青ざめた顔で首を振る。
カエルの身体能力なら登れそうなものだが、今の彼は恐怖で足がすくんでいるようだ。
「ボクはパスだねぇ。高所からの落下死体は損傷が激しくて、検体としての価値が下がるからね」
ヤクモが白衣の襟を立てて拒否する。
「仕方ねぇ。……マシロ、サポート頼むぞ」
『了解。……落ちたら霊体側に来るだけよ。歓迎するわ』
インカム越しの軽口を背に受けて、俺は鉄骨に手をかけた。
冷たい。
錆びついた鉄の感触と、オイルの臭い。
5年前、ダンジョンの断崖絶壁を素手で登った記憶がフラッシュバックする。あの時よりマシなのは、背負っているものが「世界の命運」ではなく、「自分の商売道具」だけだということか。
「……よっと!」
俺は身体を引き上げた。
筋繊維が軋み、古傷が疼く。
だが、止まらない。
俺の大事な「半身」を取り戻すまでは。
***
ギィィ……ゴトン、ゴトン……。
巨大な歯車が回る重低音と、風の音だけが支配する世界。
観覧車の頂上付近。地上80メートル。
酸素が薄いわけではないが、緊張感で息が詰まる。
俺は、アリスが乗っているゴンドラの「一つ後ろ」のゴンドラの屋根に到達した。
距離にして約5メートル。
鉄骨を伝って、アリスの真上へと回り込む。
「……見つけた」
俺は、真下のゴンドラの屋根に音もなく着地した。
アリスは気づいていない。夜景を見下ろし、何かを口ずさんでいる。
「――いただきま〜す」
アリスが、俺のハサミを頬に擦り寄せ、恍惚の表情を浮かべていた。
その姿は、獲物を前にした猫そのものだ。
「……おい。人の道具でオママゴトしてんじゃねぇよ」
俺の声に、アリスが弾かれたように振り返る。
「……あはっ! 来た! すごいじゃんおじさん! ゴキブリみたいに壁を這ってきたの?」
「誰がゴキブリだ。……返せ。それは俺のだ」
俺はモップを突きつけた。
足場は不安定なゴンドラの屋根の上。
風が吹くたびに大きく揺れ、バランスを崩せば即座に転落する。
「嫌よ。……これ、すごくイイ匂いがするんだもん」
アリスはハサミを抱きしめ、うっとりと目を細めた。
「鉄の錆びた匂いじゃない。……油と、手垢と、それから『研ぎ澄まされた神経』の匂い。おじさん、このハサミで何を切ってきたの? ただの枝じゃないでしょ?」
彼女の瞳孔が、爬虫類のように縦に収縮する。
鑑定眼。
物の価値だけでなく、その道具に込められた「使い手の歴史」すら読み取る、怪盗特有の眼。
「……枝も切ったさ。魔物の首も、鉄の鎖もな」
俺は重心を低くした。
「だが、一番切ったのは『自分の未練』だ。……そいつはな、俺が過去を断ち切るために拾った、ただの園芸用品だ。お前みたいなガキのコレクションになるような、高尚なモンじゃねぇんだよ!」
「ふーん。……じゃあ、確かめてあげる」
アリスが立ち上がった。
その手には、高枝切りバサミ。
彼女はそれを、まるで「大剣」か「戦斧」のように、両手で振りかぶった。
「あたしを楽しませて! おじさんの『技術』、骨の髄まで味わわせてよ!」
ダンッ!!
アリスが跳んだ。
5メートルの距離を一足飛びにし、俺のいるゴンドラへと襲いかかる。
振り下ろされるハサミの一撃。
それは、力任せの暴力的な斬撃だった。
「……ッ、バカ野郎!!」
俺は反射的に叫んだ。
モップで受け止める? 回避する?
違う。俺が叫んだ理由は、そんな戦術的なことじゃない。
ガギィィィン!!
モップの柄と、ハサミの刃が激突し、火花が散る。
重い。
小柄な少女とは思えない、異常な膂力。
だが、俺の怒りの矛先はそこじゃなかった。
「使い方が違げぇんだよ素人がッ!!」
俺はモップを押し返しながら、アリスの顔面至近距離で怒鳴った。
「そのハサミはな、打撃武器じゃねぇ! 『挟んで切る』道具だ! そんな風に大上段から叩きつけたら、刃こぼれするだろうが!」
「えっ? な、なに急に……?」
アリスがキョトンとする。
戦闘中に、敵から道具の使い方のダメ出しをされるとは思っていなかったらしい。
「軸がブレてる! 支点に力がかかりすぎだ! テメェ、道具への愛がねぇのか!?」
「愛なんて知らないわよ! 壊れたらまた盗めばいいし!」
「それが二流の考えだっつってんだよ!」
俺はモップを回転させ、アリスの足払いを仕掛けた。
アリスはバックフリップで回避し、空中でハサミを構え直す。
今度は、横薙ぎ。
ハサミを開いたまま、鎌のように俺の首を刈り取ろうとしてくる。
ブォンッ!
空を切る刃。
俺は上体を逸らして回避したが、その刃の軌道を見て、またしても血管が切れそうになった。
「違う! そうじゃない!」
俺は戦闘中にも関わらず、説教を開始した。
「いいか、よく聞け! そのハサミの真価は『押し切り』じゃねぇ、『引き切り』だ! 刃の湾曲を利用して、対象を逃さず、かつ最小限の力で切断する! 手首のスナップをもっと利かせろ!」
「はぁ!? な、なんで敵にアドバイスしてんのよ!? おじさん変態!?」
アリスがドン引きしている。
だが、俺は止まらない。
掃除屋として、そしてこのハサミの持ち主として、間違った使い方をされるのが生理的に我慢ならないのだ。
「グリップの握り方も甘ぇ! 小指に力を入れろ! そうすれば刃先が安定する!」
「う、うるさいわね! こう!?」
アリスが、俺の言葉に釣られて握りを変えた。
小指を締め、手首を返す。
そして、繰り出された突き。
シュッ……!
空気が裂ける音が変わった。
鋭い。
さっきまでの「ブンッ」という鈍い風切り音ではなく、カミソリが風を断つような、静かで致命的な音。
「ッ!?」
俺はとっさにモップを盾にした。
だが、ハサミの刃はモップの柄を、まるで豆腐のように音もなく切断し、俺の鼻先数ミリを掠めた。
プツン。
俺の前髪が数本、ハラハラと舞い散る。
「……ぐ、ぅ……」
俺は冷や汗を流しながら、切断されたモップの柄を見つめた。
完璧な切れ味。
俺が教えた通りの、理想的な刃筋。
「……いい切れ味だ。……教えた俺が言うのもなんだが、殺す気か」
「あはっ! すごい! なにこれ、全然力が要らない!」
アリスが目を輝かせた。
彼女はハサミを見つめ、初めて「道具と一体化する」感覚を味わっていた。
ただ振り回すだけでは得られなかった、指先の延長線上に刃がある感覚。
「おじさん、すごーい! 魔法みたい!」
「魔法じゃねぇ、技術だ。……クソッ、敵に塩を送っちまった」
俺は短くなったモップを構え直した。
状況は悪化した。
アリスは天才だ。
一度のアドバイスで、俺が数年かけて馴染ませた「ハサミのクセ」を完全に理解し、最適化してしまった。
今の彼女は、ただの泥棒じゃない。
俺と同等……いや、身体能力で勝る分、俺以上の「剪定士」だ。
「もっと教えてよ、おじさん! このハサミで、どこを切れば一番楽しいの? 血管? 神経? それとも……心臓?」
アリスが嗤う。
その笑顔は無邪気で、そして残酷だった。
知識を吸収した子供が、昆虫の足を毟り取る時のような、純粋な好奇心。
「……教育的指導が必要だな」
俺は覚悟を決めた。
言葉で分からねぇなら、体で教えるしかねぇ。
道具ってのはな、人を傷つけるためにあるんじゃねぇ。
世界を「綺麗にする(掃除)」ためにあるんだよ。
『ジン! 来るわよ!』
マシロの警告。
アリスが姿を消した。
いや、高速移動だ。
ゴンドラの屋根を蹴り、残像を残して俺の死角へと回り込む。
「頂きッ!」
背後からの斬撃。
ハサミの刃が、俺の首を狙って閉ざされる――。
その瞬間。
「『マシロ・アイ(ドローン視覚共有)』、起動!」
俺の視界に、上空からの映像がオーバーレイ(重畳)される。
マシロが操作するドローンのカメラ映像だ。
俯瞰視点。
そこには、俺の背後に迫るアリスの姿が、鮮明に映し出されていた。
「見えてるぜ、クソガキ!」
俺は振り向かずに、背後へ向かってモップの柄(折れた先端)を突き出した。
ズドンッ!!
「ぐぇッ!?」
モップの先が、アリスのみぞおちにクリーンヒットした。
彼女の動きが止まる。
ハサミが空を切る。
「道具に使われてんじゃねぇよ。……主人は『お前』だろ?」
俺は振り返り、体勢を崩したアリスの手首を掴んだ。
「捕まえた」
「は、離して! この変態!」
アリスが暴れる。
だが、俺は離さない。
この手首の細さ。震え。
こいつは天才的な怪盗だが、中身はただの孤独なガキだ。
「マシロ! 目潰しだ!」
『了解! ハイビーム!』
上空のドローンが一斉にフラッシュを焚いた。
夜の闇が一瞬で白昼夢のように染まる。
「きゃぁっ!?」
アリスが目をくらませ、力が緩んだ。
その隙に、俺は彼女の手から『高枝切りバサミ』をもぎ取った。
カシャン。
手の中に、馴染み深い感触が戻ってくる。
錆びた鉄の冷たさと、グリップの温もり。
おかえり、相棒。
「……チェックメイトだ」
俺はハサミを構え、アリスの鼻先に突きつけた。
刃先を開き、いつでも「剪定」できる距離で。
「……う、うぅ……」
アリスが涙目でこちらを睨む。
ゴンドラの上。逃げ場はない。
「授業終了だ、泥棒猫。……補習授業は、センターでたっぷりとやってやる」
俺は勝った。
だが、その勝利の余韻に浸る間もなく。
ゴゴゴゴゴ……。
観覧車全体が、不吉な音を立てて振動し始めた。
「……なんだ?」
「先輩! 大変です!」
地上から、ツムギの絶叫が聞こえた。
「観覧車の支柱に仕掛けられた爆弾が……誰かに起動されました! あと10秒で爆発します! 崩れますよぉぉぉッ!」
「はぁッ!?」
俺は下を見た。
支柱の根元で、赤いランプが点滅している。
俺たちが仕掛けたものじゃない。
第三者――おそらく、俺たちをここに招いた「本当の黒幕」が仕掛けた罠だ。
「……やりやがったな」
俺たちごと、証拠隠滅する気か。
「キャハハッ! やっぱりね! あの依頼、臭うと思ったんだ!」
アリスが乾いた笑い声を上げる。
彼女も気づいていたのだ。自分が「捨て駒」にされていたことに。
「一緒に死のうか、おじさん? 心中なんてロマンチックじゃん?」
「お断りだ! 俺はまだパチンコの新台を打ってねぇ!」
俺はアリスの襟首を掴み、小脇に抱えた。
「舌噛むなよ! ……緊急脱出だ!」
「え? ちょ、待っ……!」
俺はハサミをベルトに差し、ゴンドラの縁から身を躍らせた。
地上50メートルからの、命がけのダイブ。
その直後。
ドゴォォォォォォン!!!!
爆音が夜空を震わせ、巨大な観覧車が、ゆっくりと傾き始めた。
崩壊する鉄の城。
その瓦礫の雨の中を、俺たちは落下していく。
最悪の夜は、まだ終わらないらしい。




