第43話:カエルと爆弾と闇医者のいる朝
「朝」という概念は、一般的には希望や始まりを象徴するものだ。
小鳥のさえずり、焼きたてのトーストの香り、そして淹れたてのコーヒー。
それらが織りなすハーモニーこそが、健全な社会人の一日のスタートである。
だが、ここ『ダンジョン遺失物管理センター』において、「朝」という単語は別の意味を持つ。
すなわち――『カオス(混沌)とバイオハザードの幕開け』である。
「……臭い」
俺、黒鉄ジンは、愛用のソファ(スプリングが壊れかけ)の上で、鼻をつまんで目を覚ました。
鼻腔を直撃するのは、コーヒーの芳醇な香りではない。
消毒用エタノール、腐った卵、そして焦げた火薬の臭いが複雑骨折したような、この世の終わりみたいな異臭だ。
「おはよう、ジン君。今日の湿度も菌の培養には最適だねぇ」
キッチンから顔を出したのは、白衣を紫色のアクで汚した男――薬師寺ヤクモだ。
彼はフライパンを振っているが、中身は明らかに食材ではない。
ドロドロとした緑色の粘液の中で、得体の知れない肉片がグツグツと泡立ち、紫色の煙を上げている。
「……なんだそれは。朝から毒ガス兵器の実験か?」
「失敬な。朝食だよ。『トロールの胃袋とマンドラゴラのポワレ・特製劇薬ソース添え』さ。滋養強壮にいいんだよ?」
「胃袋が溶けるわ! 人間用の飯を作れ!」
俺が怒鳴ると、ヤクモは「味覚の幅が狭いねぇ」と肩をすくめた。
こいつが勝手に住み着いてからというもの、センターの食卓は魔界の宴と化している。
「先輩! 火力が足りないみたいですね! 私が調節します!」
そこへ、元気いっぱいの声と共に、栗花落ツムギが飛び出してきた。
彼女はエプロン姿だが、その手にはなぜか火炎放射器(携帯用バーナーを改造したもの)が握られている。
「ちょ、待てツムギ! 室内だぞ!?」
「大丈夫です! 一点集中で焼き上げれば、素材の旨味(と細胞)を一瞬で閉じ込められます! いきますよー! 汚物は消毒ですぅ!」
ゴォォォォォォッ!!
ツムギがトリガーを引く。
青白い炎が、キッチンのコンロ目掛けて噴射された。
それは調理というより、焼却処分に近い光景だった。
「わぁっ!? 熱いよツムギちゃん! ボクの前髪がチリチリになる!」
「あ、すみません! 計算より燃焼効率が良すぎました! テヘッ☆」
「テヘッじゃねぇよ!! 壁が! やっと直したベニヤ板が焦げてるだろうが!!」
俺の絶叫も虚しく、キッチンから黒煙が上がる。
火災報知器が鳴らないのは、先週ツムギが「うるさいので配線を切断(爆破)しておきました」と笑顔で報告していたからだ。終わっている。
「……いい加減にしなさいよ、あんたたち」
その時、リビングの空気が氷点下に下がった。
頭上から、絶対零度の声が降ってくる。
「朝からギャーギャーうるさいのよ! 私の安眠を妨害する罪がどれだけ重いか、その身に刻んであげましょうか!?」
幽霊秘書のマシロが、鬼の形相で浮遊していた。
彼女の髪が怒りで逆立ち、周囲の家具がガタガタと震えだす。ポルターガイスト現象・最大出力。
「『強制・換気』ッ!!」
ドガァァァァン!!
マシロが腕を振るうと、窓ガラスが内側からの風圧で弾け飛んだ。
猛烈な突風が室内を吹き抜け、紫色の毒ガスと黒煙、そしてツムギとヤクモをまとめて窓の外へ吹き飛ばす。
「あーれー!」
「おやおや、空を飛ぶのは久しぶりだねぇ」
二人の影が、朝の青空に吸い込まれていく。
俺は強風に耐えるため、ソファにしがみつきながら叫んだ。
「マシロ! やりすぎだ! 窓ガラスの修理代はどうすんだよ!」
「知らないわよ! あのままじゃ部屋に臭いが染み付くでしょ! ……はぁ、本当にロクなのがいないわね」
マシロはふわりと着地し、乱れた髪を直しながらため息をついた。
静寂が戻る。
窓枠からは爽やかな風が入ってくるが、ガラスはない。
我が家のエンゲル係数と修繕費は、右肩上がりで崩壊中だ。
「……ケロ」
ふと、部屋の隅から湿っぽい声がした。
俺は視線を向けた。
そこには、リビングの一角を占拠する巨大な水槽――正確には、粗大ゴミ置き場から拾ってきた洋風バスタブが鎮座していた。
その縁に、緑色の前足をかけて、哀愁漂う瞳でこちらを見つめる「生き物」がいる。
「……おはよう、レオ」
「……おはようだケロ、ジン」
剣崎レオ。
かつての「白銀の騎士」であり、人類の英雄。
だが今の彼は、身長180センチの巨大なカエル人間(半魚人風)だった。
激闘の際、ヤクモの作った違法ドーピング薬『緑汁』を過剰摂取した副作用で、DNA情報が書き換わってしまった成れの果てだ。
肌は鮮やかなアマガエル色。
手足には立派な水かき。
そして語尾には、呪いのように「ケロ」がつく。
「……調子はどうだ?」
「最悪だケロ。……皮膚が乾燥してヒリヒリするケロ。保湿ローション(一瓶5万円)が切れたから、早く新しいのを買ってきてほしいケロ」
レオはバスタブの中の水(ヤクモ特製・保湿液入り)に浸かりながら、どんよりとした目で訴えた。
その姿に、かつての煌びやかなオーラは微塵もない。
あるのは、進化した両生類としての悲哀だけだ。
「贅沢言うな。水道水で我慢しろ」
「死ぬケロ! この繊細な粘膜をなんと心得るケロ! それに……腹が減ったケロ」
レオの目が、空中でブンブンと飛び回るハエを捉えた。
瞬間。
彼の瞳孔が縦に収縮し、捕食者の目に変わる。
「……ッ!」
シュパッ!!
目にも止まらぬ速さで、レオの口からピンク色の長い舌が射出された。
舌先は正確無比にハエを絡め取り、瞬時に口内へと引き戻される。
「んぐっ……ごっくん」
レオの喉がごくりと鳴った。
「…………」
「…………」
俺とマシロは、無言でその一部始終を見ていた。
レオはハッとして、自分の口を押さえた。
緑色の顔が、さらに青ざめていく。
「ち、違うケロ! 今のは……身体が勝手に……! 僕は食べてないケロ! 騎士としての誇りは失っていないケロ!」
「……美味かったか?」
「……高タンパクだったケロ。……はっ!? ち、違うと言っているだろォォォッ!!」
レオが頭を抱えて絶叫し、バスタブに潜った。
ブクブクと泡が浮かぶ。
プライドと本能の狭間で揺れる元英雄。あまりにも無様で、涙を禁じ得ない。
「……終わってるわね、ウチの職場環境」
マシロが冷ややかな総評を下した。
俺も激しく同意する。
カオスだ。ここは地獄の釜の底だ。
***
窓から吹き飛ばされた二人が戻ってきた頃、遅めの朝食(作り直した普通のトースト)と共に、『定例・借金カンファレンス』が始まった。
「さて、ジン君。現実を見ようか」
ヤクモは、煤けた白衣を叩きながら、分厚いファイルをテーブルに広げた。
その表紙には、『黒鉄ジン様 債務状況報告書(地獄)』と書かれている。
「先日の『水晶渓谷』での作戦。……あれで発生した経費と、君の治療費、それからレオ君の維持費(保湿ローション代等)を合算した結果が出たよ」
ヤクモが電卓を叩く。
タタタッ、ターン! という軽快な音が、俺の処刑宣告のように響く。
「現在の君の借金総額は――締めて、一千二百五十万円だ」
「ぶふっ!?」
俺はコーヒーを噴き出した。
「い、一千……!? 増えてるじゃねぇか! 前回まで五百万だっただろ!」
「金利だよ、金利。トイチ(十日で一割)で計算させてもらってるからね」
「闇金かよ! 法廷利息を無視するな!」
「ここは無法地帯の近くだよ? 日本の法律なんて適用外さ」
ヤクモは悪魔のような笑顔で言い放ち、さらにレオの方を指差した。
「それに、レオ君の『人間に戻る薬』の開発費。……これが高いんだ。希少な薬草を湯水のように使うからねぇ。今のままだと、完全に人間に戻るまであと半年はかかるかな」
「は、半年!?」
バスタブのレオが顔を出す。
「待ってくれケロ! 半年もこのままなんて耐えられないケロ! 来月には騎士団の公式式典があるんだケロ! カエルの姿で出席したら伝説になるケロ!」
「『カエルの王子様』として売り出せば? 受けるよ?」
「そういう問題じゃないケロ!」
「まあまあ。……とにかく、金がないと薬も作れないし、このセンターの修理もできない」
ヤクモは電卓を置き、冷徹な目で俺を見た。
「ジン君。今月の利息分、あと三十万。……明日までに用意できるかい?」
「さ、三十万……?」
俺は財布の中身を確認した。
小銭が数枚と、パチンコの会員カード。
合計、三百六十八円。
「……無理だ」
俺は白旗を上げた。
逆立ちしても鼻血も出ない。
「そうかい。残念だねぇ」
ヤクモは懐から、銀色に光るメスを取り出した。
チャキッ、と刃先が光を反射する。
「なら、体で払ってもらうしかないね。……君の腎臓、一つならなくても死なないよね? 裏ルートで売れば、ちょうど三十万くらいにはなるんだ」
「ひぃッ!?」
「あ、私も手伝います!」
ツムギが手を挙げる。彼女の手にはダイナマイトが握られている。
「腎臓を取り出すついでに、お腹の中に爆弾を仕込んで『人間爆弾』にするのはどうですか!? 自爆テロの依頼とか受けられますよ!」
「受けねぇよ! 俺を兵器にするな!」
「冗談じゃないわよ!」
マシロが割って入る。
「ジンが死んだら、私の記憶探しはどうなるのよ! 臓器売買なんて却下! ……働きなさい、ジン。まともな方法で稼ぐのよ!」
「まともな方法って言ってもなぁ……」
俺は頭を抱えた。
ギルドの依頼は、最近シケている。
雑用みたいな仕事ばかりで、単価が安い。一攫千金を狙えるようなデカい山は、大手クランが独占しているのが現状だ。
「……あーあ。どっかに、五億くらい落ちてねぇかなぁ」
俺が現実逃避の独り言を漏らした、その時だった。
バササッ!
壊れた窓から、一羽のフクロウが飛び込んできた。
黒いフクロウだ。
足には、一通の封筒が括り付けられている。
「うおっ、鳥!?」
「焼き鳥にしますか!?」
ツムギがバーナーを構えるのを制し、俺はフクロウの足から手紙を解いた。
封筒は上質な和紙でできており、差出人の名前はない。
ただ、封蝋には、見覚えのない『三日月の紋章』が押されていた。
「……なんだこれ? 果たし状か?」
俺はペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、一枚の便箋と、一枚の『写真』。
便箋には、流麗な筆記体でこう書かれていた。
『依頼: 奪われた「家宝」の奪還』
『ターゲット: 銀のオルゴール』
『報酬: 300万円(成功報酬)』
『場所: ダンジョン内・貴族屋敷エリア』
そして、写真には、古びた銀色のオルゴールが写っていた。
精巧な彫刻が施された、アンティーク品だ。
「さ、三百万円……!?」
俺の声が裏返った。
今の俺たちにとって、それは天から降ってきた蜘蛛の糸、いや、黄金のロープに見えた。
「すげぇ……! これだ! これを受ければ、利息どころか借金の元本も減らせる!」
「待って、ジン」
マシロが写真を覗き込み、眉をひそめた。
「……怪しくない? 差出人不明、高額報酬、それにこのオルゴール……。写真越しだけど、なんか『嫌な感じ』がするわ」
「嫌な感じ?」
「ええ。……持ち主の『情念』じゃない。もっと人工的な……『罠』の臭いがする」
マシロの鑑定眼は正確だ。彼女が警告する時は、大抵ロクなことにならない。
だが。
「罠だろうが何だろうが、金になるなら構わん!」
俺は手紙を握りしめ、立ち上がった。
背に腹は代えられない。
腎臓を売られるよりは、怪しい依頼に飛び込む方が百倍マシだ。
「やるぞ! 総員、出撃準備だ! この300万は俺たちが頂く!」
「了解です! 爆破準備よし!」
「やれやれ、怪我人が増えそうだねぇ(歓喜)」
「僕も行くケロ! バスタブごとトラックに乗せてくれケロ!」
センターに活気が戻る。
それは希望への活力というより、破滅へ向かう暴走列車の加速音に近かったが、今の俺にはその違いを聞き分ける余裕はなかった。
こうして。
俺たちは、まんまとその『蜘蛛の糸』にぶら下がった。
その糸の先で、手ぐすね引いて待っている「泥棒猫」と「悪意」の存在になど、気づきもしないで。




