第42話 プロローグ:泥棒猫の品定め
夜というものは、誰にとっても平等に訪れる。
仕事に疲れたサラリーマンにも、明日のテストに怯える学生にも、そして――退屈を持て余した「泥棒猫」にも。
国立博物館、特別展示室『王家の回廊』。
そこは今、蜘蛛の巣のように張り巡らされた赤外線レーザーと、呼吸音さえ拾う高性能集音マイク、そして屈強な警備兵たちによって、アリ一匹通さない鉄壁の要塞と化していた。
だが、そんな厳重な警備も、彼女にとっては少し難易度の高いアスレチック遊具でしかなかった。
「……ふわぁ。つまんない」
天井の梁の上。
埃ひとつない暗闇の中で、銀髪の少女――アリス・ファントムハイヴは、猫のようにしなやかな体躯を丸め、大きなあくびをこぼした。
猫耳のついたフードを目深に被り、身を包むのは闇に溶ける漆黒のボディスーツ。
その姿は、夜そのものが形を持ったかのように周囲の景色と同化している。
彼女の眼下には、防弾ガラスのケースに収められた、今夜のメインターゲットが鎮座していた。
『嘆きのダイヤモンド』。
推定価格、30億円。かつて亡国の王女が処刑台で流した涙が結晶化したと言われる、世界最大級のブルーダイヤモンドだ。
「30億かぁ……。30億あったら、高級猫缶がいくつ買えるのかな」
アリスは指先でスマホを操作し、電卓アプリを立ち上げようとして――すぐにやめた。
虚しいだけだ。
金なんて、今の彼女にとっては紙切れと変わらない。欲しいものは盗めば手に入るし、手に入れた瞬間に色あせてゴミになる。
「……飽ーきた。さっさと終わらせよ」
彼女は梁から身を躍らせた。
音はない。風切り音さえ置き去りにする、重力を無視した落下。
着地と同時に、彼女は床を滑るように移動した。
赤外線レーザーの僅かな隙間――警備システムが再スキャンを行うコンマ0.5秒の空白を縫って、ガラスケースの前へと肉薄する。
「開けゴマ、なんてね」
手にしたのは、髪留めのピン一本。
それを鍵穴に差し込み、指先の感覚だけでシリンダー内部のピンを弾く。
カチリ。
最新鋭の電子ロックが、まるで旧友に会ったかのように素直に解錠音を立てた。
ガラスが開く。
冷気と共に、ダイヤモンドの輝きが彼女の瞳を射抜く。
「……綺麗」
アリスはダイヤを摘み上げ、月明かりに透かした。
冷たく、硬く、そしてどこまでも透き通った青い光。
それは確かに、息を呑むほど美しかった。
だが。
「……冷たいわね」
アリスの口から漏れたのは、感嘆ではなく、失望のため息だった。
彼女はダイヤを頬に押し当て、目を閉じる。
伝わってくるのは、鉱物特有の冷たさだけ。
そこには、職人の情熱も、持ち主の愛着も、長い歴史が刻んだ「物語」も感じられなかった。
「ただの石ころじゃん。……いらない」
ポイッ。
彼女は30億円の至宝を、まるで噛み終わったガムのように放り投げた。
ダイヤは放物線を描き、巡回中の警備員の制服のポケットに、スポッと音もなく収まった。
「あーあ。今夜もハズレかぁ」
アリスは肩をすくめ、警報が鳴り響く前に、開いた天窓から夜空へと溶けていった。
残されたのは、翌朝、自分のポケットから国宝が出てきて腰を抜かすことになる哀れな警備員と、ガラスケースに貼られた一枚のカードだけ。
『おじさんたちの宝物、つまんなかったから返してあげる。もっとマシなオモチャを用意してね♡ ――怪盗ファントム』
***
ダンジョン都市を一望する、廃ビルの屋上。
冷たい夜風が、アリスの銀髪を揺らしていた。
「……はぁ。寒っ」
彼女は給水塔の縁に座り、足をブラブラさせながらスマホを眺めていた。
画面に映っているのは、宝石の相場表でも、警察の無線傍受ログでもない。
動画投稿サイト『D-Tube』のアーカイブ映像だ。
タイトルは、『【神回】白銀の騎士レオ、水晶渓谷で伝説になる! 同接150万人の奇跡!』。
「ケッ。……何が奇跡よ。これだから大衆は」
アリスは鼻で笑い、画面をタップした。
映し出されているのは、泥まみれになりながら剣を振るう剣崎レオの姿。
世間では「感動のフィナーレ」と称賛されているが、プロの泥棒である彼女の目には、それがすべて「演出された茶番」であることが透けて見えていた。
「カメラアングルが作為的すぎるし、敵の動きも不自然。……完全に『接待プレイ』じゃん。よくこんなの見て喜べるわね」
彼女は興味なさげに動画をスキップする。
レオの顔なんてどうでもいい。あんな作られた笑顔には、何の価値もない。
だが。
動画の後半。画面が暗転し、また明かりが戻ったあの一瞬。
アリスの指が、ピタリと止まった。
「……ん?」
彼女は動画を一時停止し、拡大した。
画面の端。
スポットライトを浴びるレオの背後、岩陰に隠れるようにして、去っていく男の後ろ姿が映り込んでいた。
ボロボロの作業着。
泥だらけのブーツ。
そして、その手に握られている、赤錆びた園芸用の道具――『高枝切りバサミ』。
「……あはっ。何これ」
アリスの瞳孔が、猫のように縦に裂け、収縮した。
一瞬だ。
本当に、瞬きするほどの短い時間。
だが、彼女の『鑑定眼』は、その男が放つ異質なオーラを見逃さなかった。
直前のシーン。
巨大なカマキリの首が落ちる瞬間。
レオの剣が届くよりも早く、見えない斬撃が怪物の首を断ち切っていた。
その軌道。その鋭さ。
そして何より、ただの錆びたハサミを、まるで伝説の名刀であるかのように扱っていた、あの男の手つき。
「……見ぃつけた」
アリスは画面の中の男の背中を、指でツンとなぞった。
ゾクゾクと、背筋に電流が走る。
宝石を見た時のような冷たい興奮ではない。
もっと粘着質で、熱くて、ドロリとした所有欲が、空っぽだった彼女の胸を満たしていく。
「ただの掃除屋さん……じゃないわよね? ねえ、おじさん」
一流の泥棒は、宝石よりも『技術』を欲しがる。
物はいつか壊れる。金はいつか尽きる。
だが、極限まで研ぎ澄まされた技術と、道具への異常なまでの愛着だけは、決して色褪せない。
「欲しいなぁ……。あの手。あの指。あの技術」
アリスは自分の体を抱きしめ、うっとりと吐息を漏らした。
冷たかった夜風が、今は心地よい熱を帯びて感じられる。
「決まりっ! 次のターゲットは、このおじさんに決定!」
彼女は立ち上がり、夜景に向かって伸びをした。
退屈な夜は終わりだ。
世界で一番面白いオモチャを見つけた子供のように、彼女の口元が三日月型に歪む。
「待っててね、おじさん。……あんたの大事なもの、心も、プライドも、命も……ぜーんぶ、あたしが盗んであげるから♡」
ビルの屋上から飛び降りる彼女の影は、巨大な猫の形をして、ネオン輝く街の闇へと吸い込まれていった。
***
一方、その頃。
光と影が交差するこの都市の、最も深い「闇」の中にも、不穏な波紋が広がっていた。
場所は、地図には載っていない地下区画。
古びた地下鉄の廃線を改造して作られた、巨大な空間。
そこは、深紅のタペストリーと、無数の武器によって装飾された、血なまぐさい神殿のような場所だった。
『紅蓮騎士団』総本部。
表向きは民間の警備会社を装っているが、その実態は、非合法な手段でダンジョンの利権を貪る、過激派の武装集団である。
その最奥にある会議室は、重苦しい紫煙と、張り詰めた殺気で満ちていた。
「――失敗した、だと?」
長いテーブルの上座。
深紅のローブを纏い、顔の半分を仮面で隠した男が、地獄の底から響くような低い声を出した。
紅蓮騎士団長、ガレス。
その腕には、真っ赤な盾に交差する剣の紋章が、血のように赤く刺繍されている。
「は、はい……! 申し訳ありません、団長!」
報告に来た部下が、床に額を擦り付けて震えている。
彼は先日の『水晶渓谷』での作戦失敗を報告していた。
「計画通り、変異種を解き放ち、白銀騎士団のレオを孤立させました。奴は薬物中毒に陥り、手も足も出ずに殺されるはずでした……!」
「だが、奴は生きている。それどころか、同接150万人の伝説を作って凱旋した。……あの無能な『お飾り騎士』一人に、我々の切り札が破られたと言うのか?」
ガレスの声には、感情の起伏がない。
それが余計に、部下の恐怖を煽る。彼は知っているのだ。この男が、失敗した部下をどう処分するかを。
「そ、それが……映像が途切れた数分間、現場で何が起きたのか……。事後検証の結果、マンティスの死骸には不可解な痕跡がありました」
部下は震える手で、タブレット端末を差し出した。
そこに映し出されていたのは、黒焦げになったマンティスの関節部分の拡大写真。
「……関節が、切断されている?」
ガレスが眉をひそめる。
「はい。それも、剣や魔法による破壊ではありません。極めて鋭利な刃物で、装甲の隙間をピンポイントに狙い、神経束ごと『剪定』されています。……レオの剣技は派手なだけで、これほど精密な解体技術はありません」
「ふむ……」
ガレスは写真をスワイプし、次の一枚を表示させた。
それは、現場に残されていた微量な魔力波形の分析データだった。
波形は、歪だった。
通常の魔法使いや騎士が放つ、整った波形ではない。
まるで、死者の怨念と、生者の覇気が混ざり合ったような、異質で、鋭利で、そしてどこか懐かしい波形。
ガレスはそれを見た瞬間、咥えていた葉巻を噛み砕いた。
仮面の奥の瞳が、憎悪と歓喜に燃え上がる。
「……まさか」
彼の脳裏に、5年前の記憶が蘇る。
かつて、このダンジョン都市の勢力図を一人で塗り替え、我々『紅蓮』の精鋭部隊を壊滅させ、そして忽然と姿を消した「伝説の男」。
黒いコート。
無造作に振るわれる剣。
そして、圧倒的なまでの「死」の気配。
「掃除屋……。『黒の剣聖』か」
ガレスの口から漏れたその二つ名に、会議室の空気が凍りついた。
幹部たちがざわめき、顔を見合わせる。
「生きていたのか……。あの崩落事故で死んだはずの亡霊が」
ガレスは立ち上がり、壁に貼られたダンジョンの勢力図を睨みつけた。
その中心には、レオの所属する『白銀騎士団』の管轄エリアがある。
「レオの背後に、奴がいるというのか? ……面白い」
ガレスは歪んだ笑みを浮かべた。
それは、長年の因縁に決着をつける機会を得た、狂信者の笑みだった。
「計画を変更する。……レオを潰すだけでは足りん。その影に潜む『掃除屋』ごと、根こそぎ焼き払ってやる」
彼は部下たちに新たな命令を下した。
「餌を用意しろ。……奴らは『遺失物』に引き寄せられるハエのようなものだ。極上の『呪い』を込めた餌で、おびき出してやる」
「は、はい! 具体的には……?」
ガレスは机の引き出しから、一つの小箱を取り出した。
古びた銀色のオルゴール。
その表面には、持ち主の生命力を吸い取って魔力に変える、禁忌の術式が刻まれている。
「これを『市場』に流せ。……餌食になるのは、目ざとい泥棒か、あるいは正義感の強い回収屋か。どちらにせよ、我々の掌の上だ」
「はっ! 直ちに!」
部下たちが一斉に退室していく。
残されたガレスは、オルゴールのゼンマイを指で弾いた。
チリリン……と、不吉で美しい音色が地下室に響く。
「乾杯しようか、亡霊殿。……貴様の『掃除』がどこまで通用するか、見せてもらおう」
彼は赤ワインをグラスに注ぎ、誰もいない空間に向かって掲げた。
グラスの中で揺れる液体は、まるでこれから流される血のように、ドス黒く濁っていた。
泥棒猫の気まぐれと、亡霊への殺意。
二つの悪意が交錯する時、遺失物管理センターに新たな嵐が吹き荒れる。




