第41話 エピローグ:猫は見ていた
世界は、誰かの「悪意」と「好奇心」で見守られている。
表舞台で英雄がスポットライトを浴びているその裏側で、暗闇に潜む猫たちが、獲物を狙って爪を研いでいるように。
ダンジョン都市の中心部にそびえ立つ、超高級ホテル『バベル・タワー』。
その最上階にあるロイヤル・スイートルームは、今夜もまた、本来の宿泊客ではない「招かれざる客」によって占拠されていた。
「――キャハハハハッ! ウケる〜! ナニこれ、最高傑作じゃん!」
シャンデリアが煌めく広大なリビングで、少女の高笑いが響き渡る。
部屋の中央にあるキングサイズのベッドの上で、腹を抱えて転げ回っているのは、猫耳のついたフードを目深に被った、小柄な少女だった。
彼女の周りには、無造作に散らばった宝石、古美術品、そして今日の日付が入ったばかりの極秘書類の束が、まるでオモチャのように転がっている。
総額にすれば、小国の国家予算が軽く吹き飛ぶほどの「盗品」の山だ。
だが、少女――アリス・ファントムハイヴにとって、それらはただのガラクタに過ぎない。
彼女が今、熱中しているのは、壁一面を覆う巨大な8Kモニターに映し出された映像だった。
『――みんな、また会おうね! 愛してるよ!』
画面の中では、カエルになる直前の剣崎レオが、泥まみれの笑顔で手を振っている。
本日行われた「水晶渓谷」攻略戦のアーカイブ映像だ。
世間では「感動の奇跡」として称賛されているこの映像を、アリスは高級マカロン(一個三千円)を齧りながら、冷ややかな、しかし楽しげな目で見つめていた。
「バッカみたい。これ全部『ヤラセ』じゃん。……カメラアングルも、敵の動きも、全部台本通り。最後の一撃なんて、完全に照明詐欺だしぃ〜」
アリスは指先で空中のホログラムキーボードを操作し、映像をコマ送りした。
彼女の目は、ただ可愛いだけではない。
「本物」と「偽物」を一瞬で見抜く、怪盗特有の鑑定眼が備わっている。
「ほら、ここ。……スライムが弾ける寸前、一瞬だけ誰かの影が映ってる」
彼女が指差した先。
レオがスライムを倒すシーンの、コンマ数秒の隙間。
岩陰から伸びた「何か」が、スライムの核を叩き割る瞬間が映り込んでいた。
「デッキブラシ……? プッ、なにあれダサッ!」
アリスは吹き出した。
だが、その目は笑っていない。
画面をさらに操作し、クライマックスの「暗闇の戦闘シーン」へと飛ばす。
照明が落ち、映像がブラックアウトした数分間。
音声だけが残るそのノイズ混じりの闇の中で、彼女は耳を澄ませた。
キィィン……ガギィン……!
硬質な金属音。
何かが切断される音。
そして、巨大な魔物が、手も足も出ずに解体されていく悲鳴。
「……すご」
アリスの手から、食べかけのマカロンが転がり落ちた。
彼女はベッドから飛び起き、モニターに顔を近づけた。
「聞こえる……。このリズム、この音……。レオじゃない。全然違う誰かが、闇の中で踊ってる」
彼女は想像した。
暗闇の中、誰にも見られることなく、たった一人で化け物を蹂躙する「影」の姿を。
錆びついた道具一つで、世界を騙し、英雄を作り上げ、そして誰にも知られずに去っていく男の背中を。
ゾクゾクと、背筋に電流が走る。
それは恐怖ではない。
所有欲だ。
「……見ぃつけた」
アリスは画面の端、光が戻った瞬間に一瞬だけ映り込んだ、作業着姿の男の背中を拡大した。
泥だらけで、猫背で、やる気のなさそうな男。
手には、ボロボロになった高枝切りバサミ。
「あはっ♡ いいじゃん、このおじさん」
アリスは画面の中の男の背中を、指でツンとなぞった。
その瞳孔が、猫のように縦に裂け、怪しく収縮する。
「あんなボロいハサミを、まるで名剣みたいに使ってる。……ねえ、知ってる? 一流の泥棒はね、宝石よりも『技術』を欲しがるのよ」
彼女は知っていた。
物はいつか壊れる。金はいつか尽きる。
だが、あの男が持っている「それ」は、決して色褪せない。
道具を愛し、使いこなし、ガラクタを宝物に変えてしまう魔法のような技術。
「欲しいなぁ……。あの手、あの指、あの技術……」
アリスは自分の体を抱きしめ、うっとりと吐息を漏らした。
孤独な収集癖の魂が、飢えた獣のように疼き出す。
「決まりっ! 次のターゲットは、このおじさんに決定!」
彼女は指を鳴らした。
部屋の隅に控えていた執事ロボットが、音もなく近づいてくる。
「お嬢様、次はどちらへ?」
「ダンジョンのゴミ捨て場(B3F)。……そこに、世界で一番面白い『オモチャ』が落ちてるの」
アリスはフードを深く被り直し、ニヤリと笑った。
その笑顔は、無邪気な少女のものでありながら、獲物を甚振ることを楽しむ悪魔のようでもあった。
「待っててね、おじさん。……あんたの大事なもの、心も、プライドも、命も……ぜーんぶ、あたしが盗んであげるから♡」
窓の外、満月が彼女の影を長く伸ばした。
その影は、巨大な猫の形をして、夜の街を飲み込もうとしていた。
***
一方、その頃。
光と影が交差するこの都市には、もう一つ、不穏な空気が渦巻く場所があった。
ダンジョン対策本部とは別の場所にある、地下深くの隠しアジト。
重厚な鉄扉の奥にある会議室は、紫煙と殺気に満ちていた。
「――失敗した、だと?」
長いテーブルの上座。
深紅のローブを纏った男が、低く唸るような声を出した。
彼の腕には、真っ赤な盾に交差する剣の紋章――『紅蓮騎士団』のエンブレムが刺繍されている。
「は、はい……! 申し訳ありません、団長!」
報告に来た部下が、床に額を擦り付けて震えている。
「計画通り、変異種を水晶渓谷に放ち、レオを孤立させました。薬物中毒になったレオは、手も足も出ずに殺されるはずでした……!」
「だが、奴は生きている。それどころか、同接150万人の伝説を作って凱旋した。……どういうことだ?」
団長の声には、感情の起伏がない。
それが余計に、部下の恐怖を煽る。
「そ、それが……映像が途切れた数分間、何が起きたのか……。現場検証の結果、マンティスは『全身の関節を切断』され、その後に焼却された痕跡がありました」
「関節を切断?」
団長が眉をひそめる。
「レオにそんな技術はない。奴の剣技は派手なだけで、あそこまで精密な解体は不可能だ」
「は、はい。それに、現場には微量ですが……『奇妙な魔力残滓』が残っていました」
部下は震える手で、一枚の分析データを差し出した。
そこには、波形のグラフが描かれている。
通常の魔法使いや騎士の放つ魔力とは違う、異質で、鋭利で、そしてどこか懐かしい波形。
団長はそれを見た瞬間、咥えていた葉巻を噛み砕いた。
「……まさか」
彼の脳裏に、5年前の記憶が蘇る。
かつて、このダンジョン都市の勢力図を一人で塗り替え、そして忽然と姿を消した「伝説の男」。
黒いコート。
無造作に振るわれる剣。
そして、圧倒的なまでの「死」の気配。
「掃除屋……。『黒の剣聖』か」
団長の口から漏れたその二つ名に、会議室の空気が凍りついた。
「生きていたのか……。あの崩落事故で死んだはずの亡霊が」
彼は立ち上がり、壁に貼られたダンジョンの地図を睨みつけた。
その中心には、レオの所属する『白銀騎士団』の管轄エリアがある。
「レオの背後に、奴がいるというのか? ……面白い」
団長は歪んだ笑みを浮かべた。
それは、獲物を見つけた狩人の笑みであり、同時に、長年の因縁に決着をつける機会を得た狂信者の笑みでもあった。
「計画を変更する。……レオを潰すだけでは足りん。その影に潜む『掃除屋』ごと、根こそぎ焼き払ってやる」
彼は部下たちに命令を下した。
「探せ。奴の居場所を特定しろ。……そして、次の『舞台』を用意するんだ。奴らが二度と這い上がれないほどの、絶望的な地獄をな」
「はっ! 直ちに!」
部下たちが一斉に退室していく。
残された団長は、赤ワインをグラスに注ぎ、月に向かって掲げた。
「乾杯しようか、亡霊殿。……貴様の『掃除』がどこまで通用するか、見せてもらおう」
グラスの中で揺れる液体は、まるでこれから流される血のように、ドス黒く濁っていた。
***
そして。
全ての因縁が交差する中心点、『遺失物管理センター』。
深夜二時。
壁のないリビングには、ようやく静寂が訪れていた。
焼肉の宴は終わり、ツムギとヤクモはそれぞれの寝袋(ツムギは爆薬の上、ヤクモは死体袋の中)で眠りについている。
カエルのレオも、水槽代わりのバスタブに沈められ、ピクリとも動かずに朝を待っていた。
俺、黒鉄ジンは、ソファの上で毛布にくるまりながら、夜空を見上げていた。
「……ふあぁ」
大きなあくびが出る。
今日は長かった。
パレードの裏方、魔獣退治、変異種との死闘、そして請求書地獄。
人生で一番濃い一日だったかもしれない。
『……まだ起きてるの?』
枕元に置いたスマホから、マシロの眠たげな声がした。
画面の中のSDキャラも、ナイトキャップを被ってウトウトしている。
「ああ。……なんとなくな」
俺は寝返りを打ち、星空を見た。
壁がないおかげで、星がよく見える。
皮肉なもんだ。全てを失ったおかげで、視界だけはクリアになった。
「……マシロ」
『ん……?』
「ありがとな。……今日、お前がいなきゃ死んでた」
俺はボソリと言った。
昼間、皆の前では言えなかった言葉。
でも、言っておかなきゃいけない気がした。
『……ふふっ。素直ね』
マシロが嬉しそうに笑う。
『私こそ、ありがとう。……あんたのおかげで、少しだけ「自分」を取り戻せた気がする』
「記憶か?」
『ううん。記憶はまだ戻らないけど……「誰かを守りたい」って気持ち。それが私の中にあるって分かっただけで、十分よ』
彼女の声は優しかった。
幽霊のくせに、誰よりも温かい心を持っている。
「……そうかよ。ま、これからもこき使ってやるから覚悟しとけ」
『望むところよ。……おやすみ、ジン』
『おう。おやすみ』
俺は目を閉じた。
意識が微睡みの中に溶けていく。
明日もまた、借金の返済と、ゴミ拾いの日々が待っている。
でも、悪くない。
今の俺には、帰る場所と、騒がしい仲間たちがいるんだから。
そう思って、深い眠りに落ちようとした、その時。
ゾクッ。
背筋に、冷たいものが走った。
風邪の悪寒じゃない。
もっと直接的で、粘着質な……「誰かに見られている」ような気配。
「……っ、くしゅんっ!!」
俺は盛大なくしゃみをした。
静寂をぶち壊す、間の抜けた音。
「うわっ、鼻水出た……」
俺はティッシュで鼻をかみながら、ブルリと身震いをした。
「……なんだ? 誰かが俺の噂でもしてんのか?」
俺は疑わしげに周囲を見渡した。
誰もいない。
ただ、夜風がブルーシートを揺らし、カエルの鳴き声が遠くで聞こえるだけだ。
だが。
俺の野生の勘が、微かに警鐘を鳴らしていた。
この平和な日常の裏側で、何かが動き出している。
俺たちの知らないところで、新しい歯車が回り始めているような、そんな予感。
「……ま、風邪だろ。壁がねぇんだから当たり前だ」
俺は強引に自分を納得させ、もう一度毛布を頭まで被った。
「寝よ寝よ。明日は明日の風が吹く」
俺は強引に目を閉じた。
そのすぐ外、ビルの屋上で、猫の影と赤い紋章の影が重なり合い、俺たちの寝顔をじっと見下ろしていることなど、知る由もなく。
『……ニャ~オ』
風に乗って、猫の鳴き声が聞こえた気がした。
それは、新しい波乱の幕開けを告げる、可愛らしくも不吉な合図だった。




