第2話:労働意欲ゼロの男と、マイナスからのスタート
翌朝。
世界は残酷なほどに美しく晴れ渡っていた。
小鳥がさえずり、朝日がダンジョンの入り口である巨大なゲートを黄金色に照らす。
冒険者たちは希望を胸に列をなし、武器屋の親父は威勢のいい声を張り上げる。
まさに、労働と冒険にふさわしい、清々しい一日の始まり――。
「……雨だな」
遺失物管理センターのソファの上で、俺は毛布を頭から被り、厳かに宣言した。
「これは台風だ。いや、ハリケーンだ。外に出たら即座に牛が飛んでくるレベルの暴風雨だ。よって、本日の業務は中止。二度寝を結構する」
俺は外界との接続を遮断し、ダンゴムシのように丸まった。
瞼の裏に広がるのは、愛しのレム睡眠という名の桃源郷。
ああ、おやすみ世界。起こさないでくれ、俺はこれから夢の中で競馬の大穴を当てるんだ……。
シャッ!!
小気味いい音と共に、遮光カーテンが全開にされた。
眼前に広がる巨大な『大穴』の絶壁に反射した、暴力的なまでの紫外線が、俺の網膜を灼く。
「ぐあぁぁぁぁっ! 目が、目がぁぁぁ!」
「おはようございます、オーナー(駄目人間)。快晴よ」
逆光の中に、腕組みをして浮遊するマシロのシルエットがあった。
彼女は透き通るような白い肌を朝日になびかせ、冷徹な眼差しで俺を見下ろしている。
「嘘だ! 俺の『サボりセンサー』が低気圧を感知している! 今日は関節が痛むんだ!」
「それはただの運動不足と、昨日私に掃除(物理)された打撲痛よ。ほら、起きて。朝食は作っておいたわ」
「は? 朝食?」
俺は渋々起き上がり、目をこすった。
昨日まで書類とゴミの山だったローテーブルの上には、湯気を立てる味噌汁と、艶やかな白米、そして焼き魚が並んでいた。
完璧な和食だ。旅館かここは。
「……お前、幽霊だろ? どうやって作ったんだ?」
「『憑依調理』よ。包丁と菜箸に憑依して作ったの。味見はできないから、毒見はあなたがしてね」
「主を実験台にするなよ……」
俺は恐る恐る味噌汁を啜る。
……美味い。
出汁がきいている。悔しいが、コンビニのインスタントとは雲泥の差だ。
「ちっ、胃袋を掴む作戦か。悪徳商法の手口だな」
「誰が悪徳よ。さあ、食べたら仕事よ。今日はセンターの『経営会議』を開きます」
マシロは空中にホワイトボード(倉庫から発掘したらしい)を展開し、マジックペンを念動力で浮かせた。
***
「結論から言うわ」
マシロはホワイトボードに、赤い太文字でデカデカと数字を書いた。
『¥368』
「これが、現在の当センターの全財産よ」
「……ん? 何かの暗号か? 俺の戦闘力か?」
「通帳残高よ!!」
バァァァン!
マシロがボードを叩く(手はすり抜けたが、衝撃波でボードが揺れた)。
「三桁!? おい待て、先月までは確か五万くらいあったはずだぞ!」
「通帳の履歴を見たわ。『魔導パチンコ・ラスベガス』への出金履歴が十七件。あと、『限定フィギュア(美少女)』の購入履歴。それから『プレミアム激甘コーヒー(ケース買い)』……」
「あー! ストップ! 読み上げるな! プライバシーの侵害だ!」
俺は耳を塞いだ。
だが、事実は消えない。三百六十八円。
これでは、次の光熱費の引き落としで死ぬ。電気も水道も止められ、俺たちは暗闇の中で渇きに苦しむことになる。
「ジン。あなた、この仕事を何だと思ってるの?」
「え? 社会奉仕活動?」
「営利企業よ! 国からの補助金は『出来高制』でしょ!? 依頼をこなさないと一銭も入ってこないのよ!」
マシロの説教は正論だった。
この遺失物管理センターは、表向きは政府公認の機関だが、その実態は「やる気のない下請け業者」だ。
冒険者が落とし物を届け出たり、逆に拾ってほしいと依頼して初めて報酬が発生する。
「でもよぉ、客が来ねぇんだから仕方ねぇだろ。ここ、ダンジョンの裏口だし。誰も通らねぇし」
「それについてだけど」
マシロは指を鳴らす。
すると、一枚の写真が俺の目の前に飛んできた。
それは、今朝マシロが撮影したという、当センターの入り口の看板の写真だった。
そこには、長年の泥とカビで文字が汚れ、こう書かれていた。
『 猛獣 センター 』
(元:遺失物管理センター)
「……動物園かな?」
「誰が入るのよこんな店! 『猛獣センター』なんて、自殺志願者しか来ないわよ!」
「なるほど、だから先週、間違えてグリフォンが入ってきたのか……」
「納得してる場合!? 今すぐ磨いてきなさい! ピカピカに!」
マシロの怒号と共に、雑巾とバケツが俺の顔面に飛んできた。
***
看板磨きという重労働(所要時間十分)を終え、俺は再びソファに沈没した。
もう一日のエネルギーを使い果たした気分だ。
「あー、疲れた。休憩だ。テレビでも見るか」
俺はリモコンを操作し、壁掛けのモニターを点けた。
画面に映し出されたのは、朝のニュース番組『おはようダンジョン』。
そして、そのトップニュースで、不愉快なほどキラキラした男がインタビューを受けていた。
『――ええ、今回の深層遠征も、順調でしたよ』
金髪碧眼。純白の騎士団服。
カメラに向かって爽やかな笑顔を振りまいているのは、国立ダンジョン対策本部・第1特殊部隊隊長、剣崎レオ。
世間じゃ「白銀の騎士」なんて呼ばれてる、今をときめく英雄様だ。
『キャー! レオ様こっち向いてー!』
『さすが人類の希望! 肌が発光してるわ!』
黄色い声援が飛び交う中、レオはマイクを向けられ、キリッとした顔で答える。
『秘訣ですか? そうですね……やはり、日々の筋肉との対話でしょうか。ダンジョンの魔物も、プロテインの前には無力です』
「……ッ」
俺は無言でリモコンの電源ボタンを押し込んだ。
ブツン、と画面が暗転する。
「あら、消しちゃうの? イケメンだったのに」
書類整理をしていたマシロが、不思議そうに振り返る。
「……電気がもったいねぇ。あいつが映ると画面が眩しすぎて、消費電力が三倍になるんだ」
「何その理屈。……知り合い?」
マシロの勘は鋭い。
記憶喪失のくせに、こういう時だけ目ざとい幽霊だ。
「まさか。俺みたいな底辺清掃員と、雲の上の英雄様に関わりがあるわけないだろ」
俺は吐き捨てるように言い、あくびを噛み殺したフリをした。
胸の奥が、少しだけざらつく。
英雄。希望。
そんなものが、どれだけの『嘘』と『犠牲』の上に成り立っているか、あの能天気な騎士様は分かっていて道化を演じているのか、それとも本気で忘れているのか。
「……ふーん」
マシロはジッと俺の横顔を見ていたが、それ以上は追求してこなかった。
彼女は再び書類に視線を戻し、独り言のように呟く。
「ま、いいわ。今は過去の男より、現在の現金よ。……はぁ、本当にどうしようかしら、この赤字」
その時だった。
チリーン……。
入り口のドアベルが、数年分の錆をこすり合わせるような、頼りない音を立てた。
「!」
俺とマシロは同時に顔を見合わせた。
幻聴か?
いや、確かに鳴った。
この、猛獣注意の看板を掲げ(今は直したが)、地下の掃き溜めに存在する廃墟のような事務所に、客が?
「……ジン、来たわよ」
マシロが小声で囁く。その目は「カモがネギ背負って来た」と言う捕食者の目だった。
「客よ! 逃がさないで! ふんだく……いえ、誠心誠意おもてなしして!」
「おい、本音が漏れてるぞ」
俺はのろのろと立ち上がり、入り口へと向かった。
重い鉄扉が開く。
逆光の中に立っていたのは、大きなリュックを背負った、小柄な人影だった。
「あ、あの……」
怯えたような、消え入りそうな声。
それは、泥だらけの装備を身につけた、まだ十代半ばに見える新米冒険者の少女だった。
「ここは……『遺失物管理センター』で、合ってますか……?」
俺はニヤリと笑う――つもりはなく、あくまで業務的な笑顔を作った。
「ああ、そうだ。いらっしゃい。どんな『忘れ物』だい? ここなら、地獄の底にあるモンでも見つかるぜ」
こうして。
俺たちの最初の仕事が、唐突に動き出したのだった。




