第24話 幽霊秘書のストライキ
「生活」という字は、「生」きる「活」力と書く。
だが、今の遺失物管理センターにおける「生活」は、ただの「生」存競争と「活」断層の上のジェンガだ。
ヤクモが勝手に住み着いてから、三日が過ぎた。
その三日間で、かつてマシロが丹精込めて作り上げた「清潔で快適なオフィス」は、見るも無残な変貌を遂げていた。
「……汚らわしい」
朝のリビング。
マシロは床から50センチほど浮遊し、スカートの裾を押さえながら、眼下に広がる惨状を見下ろしていた。
床には、ヌルヌルとした蛍光グリーンの粘液が這った跡(スライムの脱走痕)が光っている。
ソファの上には、血のついた白衣と、謎の獣毛がこびりついたタオルが放置されている。
キッチンからは、何かが腐敗したような甘酸っぱい異臭と、ボコボコと沸騰するビーカーの音が聞こえてくる。
「おはよう、幽霊ちゃん。今日の湿度も、菌の繁殖には最高だねぇ」
キッチンから顔を出したのは、片手にフラスコ、片手にフライパンを持ったヤクモだ。
寝癖だらけの髪に、染みだらけの白衣。
その笑顔は爽やかだが、背景にドス黒いオーラが見える。
「……寄るな。半径2メートル以内に近づいたら、ポルターガイストでそのフラスコを脳天に叩き込むわよ」
マシロは氷点下の声で威嚇した。
彼女の潔癖症センサーは、常にレッドゾーンを振り切っている。
「つれないねぇ。せっかく朝食を作ってあげようと思ったのに」
「あんたの料理なんて、毒物混入以前の問題よ! 昨日だって目玉焼きから『紫色の煙』が出てたじゃない!」
「あれは栄養価を高めるためのマンドラゴラ・ソースだよ。美容にいいのに」
そんな不毛な会話が繰り広げられている横で。
俺、黒鉄ジンは、死んだ魚のような目でテーブルに突っ伏していた。
「……あー。うるせぇ」
俺は二日酔いのような頭痛(原因はヤクモが散布している怪しい薬品の蒸気だ)を堪え、手を挙げた。
「おいマシロ。コーヒー。濃いめで頼む」
いつもの習慣だ。
朝起きて、マシロにコーヒーを淹れてもらう。それが俺のルーティンであり、唯一の癒やし。
だが、今日に限って、そのオーダーは「地雷」だった。
ピキッ。
マシロのこめかみで、血管が切れる音が聞こえた気がした。
「……は?」
彼女がゆっくりと振り返る。
その瞳から、ハイライトが消えていた。
「今、なんて言ったの? ジン」
「あん? だからコーヒーだって。砂糖はミルク3個分な」
俺があくびをしながら言うと、マシロはプルプルと震えだした。
そして。
「いい加減にしなさいよぉぉぉッ!!」
ドカァァァァァン!!
リビングの空気が爆ぜた。
マシロを中心に衝撃波が発生し、俺の目の前のテーブルがガタガタと揺れ、ヤクモの持っていたフライパンが吹っ飛んだ。
「うおっ!? なんだ!?」
「あんたたち、私を何だと思ってるの!? 便利な全自動家事ロボット!? それとも奴隷!?」
マシロは絶叫し、空中で地団駄を踏んだ(足はないが)。
「こっちはねぇ、この不潔なマッドサイエンティストが撒き散らす汚物の処理で、24時間働き詰めなのよ! 霊体だから疲れないと思ったら大間違いよ! 精神的疲労で魂が摩耗してんの!」
「お、おい落ち着け。カルシウム足りてねぇぞ」
「幽霊にカルシウムなんてあるわけないでしょ! ……もう限界。生理的に無理。キャパオーバーよ!」
マシロは両手を広げ、キッチンの入り口に立ちはだかった。
ゴゴゴゴゴ……と、周囲の家具が浮き上がり、彼女の背後に集結していく。
冷蔵庫、食器棚、テーブル、椅子。
それらが積み重なり、巨大なバリケード(城壁)を形成した。
「本日ただいまをもちまして! 私、マシロは! 一切の家事労働を放棄し、無期限の『ストライキ』に突入します!」
「はぁ!? ストライキだと!?」
「そうよ! このキッチンは私の独立国家です! 汚物の立ち入りを禁じます! コーヒーが飲みたきゃ、その泥水(ヤクモの薬品)でも啜ってなさい!」
ガシャン! ガガガッ!
バリケードが完成し、キッチンへの道が完全に封鎖された。
中から、マシロの勝ち誇ったような声が聞こえる。
「さあ、思い知るがいいわ! 家事という名の『見えない労働』のありがたみを!」
***
マシロのストライキ宣言から、6時間後。
センターは、崩壊の危機に瀕していた。
「……腹減った」
俺はソファの上で、干からびたミミズのようにのたうち回っていた。
昼時を過ぎても、飯が出てこない。
いつもなら、「ほら、餌よ」とマシロが定食を出してくれる時間だ。
だが、キッチンは封鎖され、冷蔵庫へのアクセス権も剥奪されている。
「ねえジン君。お腹が空いたなら、自炊すればいいじゃないか」
ヤクモが、実験の手を止めて言った。
こいつは平気そうだ。普段から何を食ってるか分からない奴だからな。
「自炊だァ? 俺を誰だと思ってる。最後に包丁を握ったのは5年前、ゴブリンの喉を掻っ切った時だぞ」
「野蛮だねぇ。……仕方ない、ボクが腕を振るってあげよう」
ヤクモが立ち上がり、カセットコンロ(バリケードの外にあった)を取り出した。
「実はボク、外科医になる前は料理人に憧れていてね。食材の『蘇生』には自信があるんだ」
「蘇生……? 調理じゃなくて?」
一抹の不安を覚える俺をよそに、ヤクモはどこからか取り出した「死んだ魚」をまな板に乗せた。
目は白く濁り、完全に死んでいる。
「ふふふ。見ていたまえ。ボクの特製スパイス(緑色の粉末)と、微弱電流を流せば……」
バチバチッ!
ヤクモが魚に電極を繋ぎ、謎の粉を振りかける。
ビクンッ!
死んだはずのアジが、激しく痙攣した。
「おおっ! 動いた!」
「素晴らしい生命力だ! さあ、スープの中で泳いでおくれ!」
ヤクモは痙攣する魚を、沸騰した鍋に放り込んだ。
普通なら、ここで煮えて美味しい出汁が出るはずだ。
だが。
バシャバシャバシャッ!!
「……おい。なんか鍋の中から、水音がするんだが」
俺がおそるおそる鍋の中を覗き込む。
そこには、煮えたぎるお湯の中で、身が崩れ落ち、骨だけになった魚が、元気に泳ぎ回っていた。
「ギョギョギョーッ!」(幻聴)
「ひぃぃぃッ!? 骨が泳いでる! アンデッドかよ!」
「おや、蘇生成功だね! 鮮度抜群だよジン君!」
「食えるかボケェッ!! 成仏させてやれよ!」
俺はデッキブラシ(代用品のモップ)で鍋を叩き、骨魚を撃退した。
ダメだ。こいつに飯を作らせちゃいけない。バイオハザードが加速するだけだ。
***
一方、洗濯事情も壊滅的だった。
「……服がねぇ」
俺は脱衣所で立ち尽くしていた。
着替えようと思ったら、洗濯カゴが山盛りになって溢れかえっている。
いつもはマシロが夜の間に洗濯・乾燥・畳みまで完璧にこなしてくれていたのだ。
「チッ、洗濯くらい俺にもできるわ。ボタン押すだけだろ」
俺は洗濯機に服を詰め込んだ。
洗剤を入れる。
……量はこれくらいか? いや、ヤクモの薬品汚れが酷いから、多めに入れとくか。
念には念を入れて、ボトル一本全部投入。
「スイッチ、オン」
ゴウン、ゴウン……。
洗濯機が回り始める。
俺は満足して、リビングに戻ろうとした。
数分後。
ボコッ。ボコボコボコッ。
脱衣所から、異様な音が聞こえてきた。
「ん?」
見に行くと、そこは「泡の国」になっていた。
「うわぁぁぁぁッ!? なんだこれ!」
洗濯機の蓋の隙間から、排水口から、ありとあらゆる穴から、濃密な白い泡が噴出し、脱衣所を埋め尽くしている。
泡は生き物のように増殖し、すでに俺の腰の高さまで達していた。
「洗剤入れすぎたか!? いや、これ爆発してねぇか!?」
俺は泡の海を泳いで洗濯機に近づこうとするが、足が滑って転倒。
ブクブクブク……。
泡に飲まれる。
視界が真っ白だ。そして目が痛い。
「ジン君、大丈夫かい? ……おや、メルヘンだねぇ」
ヤクモが顔を出すが、彼もまた泡に飲まれて消えた。
***
夕方。
リビングは、骨魚のスープと、脱衣所から溢れ出した泡と、飢えと疲労で満たされていた。
俺とヤクモは、バリケードの前で土下座していた。
「……すみませんでした。俺たちが悪かったです」
「ボクからも謝罪するよ。……この骨魚、どう処理すればいいのか分からないんだ」
俺たちの敗北宣言。
少しの間、沈黙があった。
やがて、バリケードの一部(椅子)が浮き上がり、隙間からマシロが顔を出した。
「……反省した?」
「しました。骨の髄まで」
「二度と『コーヒー淹れろ』なんて言わない?」
「言いません。自分で淹れます。豆から挽きます」
マシロは俺たちの惨状――泡まみれで、骨魚に指を噛まれている俺たち――を見て、深いため息をついた。
「はぁ……。本当に、手のかかる子供ね」
彼女が指を鳴らす。
バリケードが解除され、家具が元の位置に戻っていく。
そして、泡と骨魚が一瞬で窓の外へ排出(投棄)された。
「今回は許してあげる。……でも、分かったでしょ? 私一人じゃ、このゴミ屋敷とマッドサイエンティストの管理は不可能なのよ」
マシロは深刻な顔で、一枚の紙をテーブルに置いた。
「だから、決めたわ」
「……何をだ?」
「『手足』を雇うのよ」
マシロが置いた紙。
それは、手書きの「求人募集チラシ」だった。
『急募! ダンジョン遺失物管理センター・雑用係』
『業務内容: 掃除、洗濯、魔獣の死骸処理、爆発物の撤去、その他命に関わる雑務全般』
『応募資格: 人間以外も可。体力に自信があり、細かいことを気にしないバカ……もとい、おおらかな方』
『給与: 応相談(※現物支給の可能性あり)』
『備考: アットホームな職場です(幽霊と変態がいます)』
「……おい」
俺はチラシを手に取り、突っ込んだ。
「これ、誰が来るんだよ。『人間以外も可』ってなんだ。ゴブリンでも雇う気か?」
「猫の手でも借りたいのよ。あんたたちが働かないなら、物理的に動ける『肉体労働要員』が必要なの!」
マシロは譲らない。
彼女の目は本気だ。これ以上、自分の聖域(クリーンな環境)を汚されるくらいなら、悪魔とでも契約しかねない気迫だ。
「……ま、勝手にしろよ。どうせ来るのは、ロクでもない奴だけだろ」
俺はチラシを放り投げ、ようやくありついた(マシロが淹れてくれた)コーヒーを啜った。
苦い。でも、温かい。
やはり、プロ(マシロ)の仕事は違う。
チラシが風に乗って、窓の外へと飛んでいく。
ひらひらと舞うその紙切れが、まさかあんな「劇薬」を呼び寄せることになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
そう。
ロクでもない職場には、ロクでもない奴が集まる。
それが『類は友を呼ぶ』という、この世の真理なのだから。
(……あーあ。静かな日々は、もう戻ってこねぇな)
俺は遠い目をして、コーヒーの底に沈んだ砂糖の塊をスプーンで突っついた。




