第18話:泥の中の宝石
そこは、底のない泥の海だった。
上も下もない。
時間の感覚さえない。
あるのは、肌にまとわりつく不快な粘着質と、骨の髄まで凍らせるような絶対零度の孤独だけ。
「……あ、ぐ……」
息ができない。
いや、幽霊である私に呼吸なんて必要ないはずなのに、胸が苦しくて、肺が鉛で満たされたように重い。
口を開けば、ドロリとした黒い液体が流れ込んでくる。
それは、腐った水のような、鉄錆のような、そして誰かの涙のような味がした。
(……ここは、どこ?)
意識が朦朧とする。
自分の名前さえ、うまく思い出せない。
私は……誰?
私は、マシロ。……そう、マシロ。
でも、「マシロ」って誰?
記憶のない、空っぽの幽霊。
じゃあ、私の中身は何でできているの?
『……イタイ……』
『……カエシテ……』
『……ワタシヲ、ヒトリニシナイデ……』
頭の中に、ノイズが走る。
無数の声が、鼓膜ではなく脳漿に直接響いてくる。
それは言葉というよりも、感情の切れ端だった。
突如、視界に、知らない映像がフラッシュバックする。
――雨の降る路地裏。誰かを待っている少女の視点。約束の時間はとうに過ぎているのに、誰も来ない。冷たい雨が頬を濡らす感覚。
――崩れ落ちる天井。瓦礫の下で動けない足。遠ざかっていく仲間の背中。「ごめん」という誰かの声。置いていかれる絶望。
――病室の白い天井。ピー、という電子音。握り返してくれる手のない、冷たい掌。
「……や、やめて……!」
私は頭を振った。
違う。これは私の記憶じゃない。
知らない誰かの、人生の最期の瞬間の記憶。
それが、濁流のように私の中に流れ込んでくる。
『ミンナ……イッショ……』
『オマエモ……ココニイル……』
泥の海が、私を優しく、そして残酷に抱きしめる。
ここは「墓場」だ。
成仏できずにこのダンジョンに囚われた、何千、何万という魂の吹き溜まり。
彼らの「未練」が溶け合い、混ざり合い、巨大な一つの意思となって渦巻いている。
「嫌……混ざりたくない……!」
私は必死に手足をばたつかせた。
だが、泥は重く、私の輪郭を溶かしていく。
指先の感覚がなくなる。
足が泥と同化していく。
「個」としての私が削り取られ、「全」という名の虚無の一部へと塗り替えられていく恐怖。
(……ああ、楽になっちゃおうか)
ふと、甘美な誘惑が頭をよぎる。
抵抗するから苦しいのだ。
身を任せてしまえば、もう寒くはない。
だって、ここには「みんな」がいる。
もう二度と、一人ぼっちでゴミ捨て場で震える必要はない。
記憶のない不安に怯えることもない。
瞼が重くなる。
意識が、深い闇の底へと沈んでいく。
その時だった。
キラリ。
暗黒の泥の海の底で、何かが微かに光った。
「……え?」
私は、薄れゆく意識の中で、その光に目を凝らした。
それは、泥流に流されながらも、決して輝きを失わない、小さな星のような光の粒。
私は無意識に手を伸ばした。
重い泥をかき分け、その光を掌の中に包み込む。
それは、変哲もない、安っぽい銀色のロケットペンダントだった。
蓋は壊れかけ、泥にまみれている。
けれど、その中からは、確かに温かい「熱」が伝わってきた。
『……元気でね……』
『……愛してるよ……』
ロケットから伝わってくるのは、死の瞬間の恐怖ではない。
誰かが、誰かを想った、最期の祈り。
恐怖に震えながらも、残される家族や恋人の幸せを願った、純粋な愛の残滓。
「……そっか」
私は気づいた。
この黒い巨人を構成しているのは、ただの「悪意」だけじゃない。
誰かを強く想う気持ち。
強すぎる執着。
それが報われず、断ち切られ、行き場を失って腐敗した結果が、この泥なんだ。
「……悲しいね」
私はロケットを胸に抱いた。
すると、呼応するように、周囲の泥の中から次々と光が浮かび上がってきた。
錆びた指輪。
折れた剣の破片。
ボロボロのお守り。
それらはすべて、消化されずに残っていた「遺品」たちだった。
強い想いが込められた物は、どんなに強い呪いの中でも、その輝きを失わない。
まるで、泥の中に咲く蓮の花のように。
ドクンッ。
私の左手の薬指が、熱くなった。
見ると、あの無骨な黒い指輪が、赤く明滅している。
それは、周囲の「遺品」たちと共鳴し、私を守るように淡い結界を張り始めていた。
『……私は、まだ消えるわけにはいかない』
指輪が、そう言っている気がした。
あるいは、これは私自身の心の声か。
「……そうよ。私はまだ、あいつに文句の一つも言ってない」
脳裏に、不愛想な男の顔が浮かぶ。
ゴミ捨て場で私を拾った、目つきの悪い清掃員。
サボり魔で、口が悪くて、パチンコ狂いで、どうしようもないダメ人間。
でも。
私のために、怒ってくれた。
私のために、傷だらけになってくれた。
あいつの入れるコーヒーは甘すぎて不味いけど、あいつのいる事務所(ゴミ屋敷)は、不思議と寒くなかった。
「ジン……」
名前を呼んだ瞬間。
ズズズッ……と、世界が震えた。
『……ガ……ア……』
『……カエセ……』
泥の海が波打ち、私を異物として排斥しようと圧力を強めてくる。
バリアがきしむ。
私の自我が、再び押し流されそうになる。
その時。
『――俺のツレを、返せぇぇぇぇッ!!』
声が、聞こえた。
泥の壁を突き抜け、次元を超えて響いてくる、怒号。
それは耳で聞く音じゃない。魂を直接揺さぶる、荒々しい波動だ。
「……ジン!」
間違いない。あいつだ。
バカみたいに大声を出して、喉を枯らして叫んでいる。
ビリビリビリッ!
空間全体に、電流のような痛みが走った。
これは……あいつの痛みだ。
血管が切れ、筋肉が断裂するほどの負荷をかけて、あいつが戦っている証拠だ。
その痛みが、繋がったパス(経路)を通じて、私の中に流れ込んでくる。
「……っ、痛ぁ……!」
私は胸を押さえた。
焼けるように熱い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
この痛みは、あいつが私を諦めていない証拠だから。
冷たい泥の中で、この痛みだけが、鮮烈な「生」の実感を与えてくれる。
「……バカね、ほんとに」
私は涙を拭った(霊体だから涙なんて出ないはずなのに、頬が濡れていた)。
ボロボロじゃない。
私のために、また無茶して。
一人でカッコつけて、全部背負い込んで。
「……いいわよ。付き合ってあげる」
私は顔を上げた。
泥の海の底から、遥か上空――微かに光が差し込んでいる「外」を見上げる。
「痛いのは嫌いだけど……一人で痛い思いをするよりは、二人で半分こした方がマシでしょ!」
私は、泥を蹴った。
重力のない世界で、私は光の矢となって上昇する。
『マテ……ニガサナイ……』
無数の黒い手が、私の足首を掴もうと伸びてくる。
「行かないで」「置いていかないで」という怨嗟の声が、足かせとなって絡みつく。
「うるさいッ!!」
私は叫び、指輪をかざした。
「あんたたちの悲しみは分かった! 寂しいのも、悔しいのも、全部聞こえたわよ! でもね!」
私は、掌の中のロケットペンダントを――そして、周囲に浮かぶ無数の遺品たちの光を、自分の力として収束させた。
「過去に縛られて、今を生きてる人間の邪魔をするんじゃないわよ! あんたたちの『未練』は、私がまとめて届けてやるわ!」
カッッッ!!!!
指輪が、かつてないほどの輝きを放った。
その光は、黒い泥を浄化し、道を作り出す。
「ジン! 聞こえる!? 剣を掲げなさい!」
私は心の底から叫んだ。
あいつが持っている、あの錆びた剣。
あそこが、唯一の出口だ。
「私が……『パス』を通すッ!!」
私は光の道を駆け上がった。
泥の海を突き破り、絶望の殻を内側からぶち破るために。
***
「……ぐ、ぅぅぅ……ッ!」
現実世界。
ジンの意識は、限界を迎えていた。
片膝をつき、肩で息をする。
視界は血で真っ赤に染まり、握っている剣の重さが、山のように感じられる。
(……クソッ、ここまでか……)
巨人の再生速度に、破壊が追いつかない。
斬っても斬っても、傷口は塞がり、新たな影が湧き出してくる。
自分の血で滑る手で、必死に剣を支えているのがやっとだ。
『オワリ……』
『タベチャオウ……』
巨人が、トドメの一撃を振り上げる。
もう、避ける力も、防ぐ魔力も残っていない。
(……わりぃ、マシロ。……レオ、あとは頼ん……)
ジンが瞼を閉じかけた、その時だった。
『――起きなさいよ、バカ飼い主!!』
脳内に、罵声が響いた。
懐かしい、生意気で、カン高い、あいつの声。
「……あ?」
ジンが目を見開く。
彼の手の中で、死にかけていた錆びた剣が、突如として脈打った。
ドクンッ!!
「な……んだ……!?」
剣が、熱い。
火傷するほどの熱量を帯び、勝手に振動を始める。
そして、柄の部分から、眩い光の粒子が溢れ出した。
『お待たせ。……まったく、迎えに来るのが遅いのよ!』
光の中から、一人の少女の姿が浮かび上がる。
純白のドレスをなびかせ、透き通るような肌をした、美しい幽霊。
「マ……シロ……?」
ジンの声が震えた。
彼女は剣から上半身だけを実体化させ、ふわりと宙に浮いていた。
その姿は、まるで剣の精霊か、勝利の女神のようだったが――その表情だけは、いつもの不機嫌な「オカン」そのものだった。
「誰が迎えに来た。落とし物拾いに来ただけだ」
ジンは憎まれ口を叩こうとして、口元を緩めた。
安堵と、喜びと、そして力が戻ってくる感覚。
「……へっ。元気そうじゃねぇか」
「当たり前よ。あんたこそ、何よそのザマは。ボロボロじゃない」
マシロはジンの傷だらけの顔を見て、眉をひそめた。
そして、ふっと優しく微笑んだ。
「……もう、無理しなくていいわよ」
彼女は、ジンの手の上に、自分の半透明な手を重ねた。
冷たくて、でも温かい感触。
「私を使いなさい」
「……は?」
「あんたの身体じゃ、もう持たない。その『死者の共鳴』の負荷、私が肩代わりする」
マシロの瞳が、決意に輝く。
「『憑依合体』。……私がこの剣に憑依して、あんたの神経と直結する。そうすれば、痛みも、魔力も、全部半分こにできる」
「……おいおい。幽霊に守られる趣味はねぇが……」
ジンは苦笑し、血を吐き捨てた。
だが、その目には再び闘志の炎が宿っていた。
「背に腹は代えられねぇか。……頼むぜ、相棒」
「ええ。任せなさい!」
マシロの輪郭が溶け、光となって剣の中へと吸い込まれていく。
カァァァァァァッ!!
閃光。
錆びついていた剣が、形状を変える。
刀身はより長く、鋭く研ぎ澄まされ、その表面には幾何学的な紋様――マシロの指輪と同じ刻印――が白く浮かび上がった。
禍々しくも神々しい、白と黒の魔剣。
『――接続完了。同調率、120%』
ジンの脳内に、マシロの声がクリアに響く。
同時に、全身を苛んでいた激痛が、嘘のように軽くなった。
痛みが消えたわけではない。
誰かが、その痛みを半分背負ってくれているのだ。
「……軽ィな」
ジンは剣を振った。
空気が鳴く。
先ほどまでとは比べ物にならない、圧倒的な魔力の奔流。
「ああ。……これなら、いける」
ジンは巨人を睨みつけた。
巨人の動きが止まっている。
内側から脱出された衝撃と、目の前の存在の変質に、畏怖しているかのように。
『……ナニ……ソレ……』
『コワイ……』
「ビビってんじゃねぇよ。……さあ、延長戦だ」
ジンは剣を構えた。
その切っ先は、微塵もブレていなかった。
「ここからは、二人の時間だ」




