第16話:遺品の声、覚悟の共鳴
ドクン、と。
心臓が、肋骨の内側を強く叩いた。
戦場の轟音も、巨人の咆哮も、鼻をつく腐臭も、今の俺には遠い世界の出来事のようにしか感じられなかった。
俺の全感覚は、瓦礫の上に落ちている「それ」一点に吸い寄せられていた。
泥にまみれた、一枚のメモ用紙。
端が破れ、血と油で汚れているが、そこに書かれた文字だけは、奇跡的に判読できた。
幼い子供が、クレヨンで一生懸命に書いたであろう、たどたどしいひらがな。
『パパへ。おしごとがんばってね』
「……あ」
喉の奥から、空気が漏れた。
記憶の蓋が、こじ開けられる。
5年前。
ダンジョン攻略の最前線。
休憩中のテントの中で、いつも馬鹿みたいにニヤニヤしながら、この手紙を俺に見せびらかしていた男の顔が、フラッシュバックする。
『ようジン、見ろよこれ! 娘が書いてくれたんだ! へへっ、これがあるから俺は無敵だぜ』
『親バカかよ。……大事にしとけ』
『おうよ! 今回の遠征が終わったら、これ土産にして帰るんだ。娘の誕生日に、でかいケーキ買ってさ』
――ガードナー。
チームの盾役。
誰よりも家族思いで、誰よりも優しくて、そしてあの日、俺を瓦礫から突き飛ばして、自分は崩落の下敷きになった男。
『ジン、生きろ! お前だけでも……!』
最期の笑顔。
押し潰される音。
そして今、その彼の一部であった「遺品」が、巡り巡って俺の目の前にある。
「……なんで、だよ」
俺の視界が歪んだ。
涙じゃない。
脳内で、何かが焼き切れる音だ。
「なんで……今頃出てくんだよ。5年も待たせやがって……」
俺の手が、震えながら伸びる。
メモ用紙の横に転がっている、錆びついたロングソード。
柄の革はボロボロに朽ち、刀身は赤錆に覆われ、刃こぼれだらけの鉄屑。
リサイクルショップなら10円でも買い取らないだろう、ただのゴミだ。
だが。
俺の指先がその柄に触れた瞬間。
バチッ!!
静電気のような、いや、もっと熱く、重い「ナニカ」が、指先から神経を逆流して心臓に突き刺さった。
『……ジン……』
『……タノム……』
『……マモッ……テ……』
声が、聞こえる。
耳じゃない。魂に直接響く、あいつの声。
5年分の風化にも、ダンジョンの瘴気にも負けず、この錆びついた鉄の中にへばりついていた、執念の残留思念。
「……ああ。聞こえるぜ」
俺は、錆びた剣を握りしめた。
掌に食い込む腐食した革の感触。
ズシリと重い、命の重さ。
「ッ……ぐ、ぅぅぅ……ッ!!」
激痛が走る。
ただ剣を握っただけじゃない。
あいつの――ガードナーの「死の瞬間の苦痛」が、俺の肉体にフィードバックされる。
全身の骨が砕かれるような圧迫感。
焼けるような熱さ。
息ができない苦しさ。
これが、『代償』だ。
他人の人生を借り受けることの、対価だ。
だが、今の俺には、この痛みが心地よかった。
この痛みが、俺に教えてくれる。
俺はまだ生きていると。
そして、こいつらの想いもまだ、死んじゃいないと。
「……ジン?」
呆然と立ち尽くしていたレオが、俺の変化に気づいて声を上げた。
俺はゆっくりと立ち上がった。
足の震えは止まっていた。
恐怖も、迷いも、今はもうない。
あるのは、氷のように冷たく、マグマのように煮えたぎる殺意だけだ。
「……レオ」
俺は背中を向けたまま、低い声で言った。
「全員連れて、下がれ」
「な……何を言っている! 武器もない貴様が一人で……」
「『下がれ』と言ってるんだ。聞こえなかったか?」
俺は肩越しに振り返り、レオを睨んだ。
「ッ!?」
レオが息を呑み、一歩後ずさる。
俺がどんな顔をしていたのかは分からない。
だが、あのレオが――プライドの塊のような騎士団長が、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……分かっ、た」
レオは唇を噛み締め、カレンを抱え直した。
そして、震えるミナの手を引き、瓦礫の陰へと走る。
「死ぬなよ! ……友よ!」
「誰が友だ。バーカ」
俺は鼻で笑い、正面に向き直った。
そこには、巨大な絶望がそびえ立っている。
『悪意の集合体』。
マシロを飲み込み、さらに巨大化した黒い塔。
その表面に浮かぶ無数の顔が、俺を見てニヤニヤと笑っている。
『ヒトリ……?』
『サビシイネ……』
『オイデ……パパモ、ママモ、ココニイルヨ……』
精神汚染の囁き。
だが、今の俺には、それはただの雑音にしか聞こえない。
「……うるせぇな」
俺は錆びた剣を、だらりと下げたまま歩き出した。
一歩。また一歩。
泥を踏む音が、静寂な空間に響く。
「俺の連れを返してもらおうか。……そいつは俺の飼い猫だ。勝手に餌付けすんじゃねぇ」
『……ウマイ……』
『オマエモ……ウマイ……?』
巨人が腕を振り上げる。
丸太のような太さの触手が、俺を叩き潰そうと落下してくる。
5年前なら。
いや、数分前の俺なら、為す術もなくミンチになっていただろう。
だが。
「――『接続』」
俺は呟いた。
意識のスイッチを切り替える。
「黒鉄ジン」という個を捨て、剣に宿る「ガードナー」の魂と同期する。
ドクンッ!!
心臓が跳ね、血液が沸騰する。
筋肉繊維が悲鳴を上げ、脳のリミッターが外れる音がした。
視界が変わる。
スローモーションの世界。
落ちてくる触手の軌道が、空気の流れが、地面の凹凸が、全て手にとるように分かる。
そして、身体が勝手に動く。
俺の記憶にはない、しかし肉体が覚えている「達人の動き」が。
「『鉄壁』」
ガギィィィン!!
轟音と共に、地面が陥没した。
だが、俺は立っていた。
錆びた剣を片手で掲げ、あの巨大な触手の一撃を、真正面から受け止めていた。
「な……!?」
遠くで見ていたレオの驚愕の声が聞こえる。
「重いな……。随分と溜め込みやがって」
俺はニヤリと笑った。
腕の骨がきしむ。筋肉が断裂しそうだ。
だが、耐えられる。
この剣の持ち主は、かつて「鉄の城」と呼ばれた男だ。仲間を守るためなら、ドラゴンのブレスさえ盾一枚で防ぎきった伝説のタンクだ。
その彼が、最期に残したこの剣が、折れるはずがない。
「次はこっちの番だ」
俺は剣を弾き上げ、触手を押し返した。
巨人の体勢が崩れる。
「……出てこいよ、テツヤ。サクラ。ボブ。……みんな」
俺は虚空に呼びかけた。
このバッグの中には、ガードナーの剣だけじゃない。
他の仲間たちの遺品も、一緒に入っていたはずだ。
5年前、俺が回収しきれずに置いてきてしまった、彼らの生きた証が。
応えるように。
瓦礫の下から、泥の中から、淡い光の粒が立ち昇る。
一つ、また一つ。
折れた杖。穴の空いた手甲。ひしゃげたナイフ。
それらが、俺の呼び声に共鳴し、青白い燐光を放ち始める。
『……オウ……』
『……マッテタゼ、タイチョウ……』
『……オソイヨ、ジン……』
幻聴じゃない。
確かに聞こえる。あいつらの声が。
懐かしい、馬鹿騒ぎしていた頃の、あの声が。
「……わりぃ。寝坊した。……迎えに来たぞ」
俺の目から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
それは頬を伝い、錆びた剣の上に落ちる。
瞬間。
カッッッ!!!!
錆びついていた刀身が、眩い黄金色の光を放った。
赤錆がボロボロと剥がれ落ち、その下から現れたのは、鏡のように磨き上げられた白銀の刃。
遺品に込められた「想い」が、俺の魔力と反応し、物質としての全盛期を取り戻したのだ。
「――『死者の共鳴』・第一解放」
俺は剣を構えた。
掃除屋のデッキブラシじゃない。
冒険者の剣として。
「さあ、始めようか。……大掃除の時間だ」
俺の身体から立ち昇るオーラが、どす黒い漆黒へと変わっていく。
それは「掃除屋ジン」の気配ではない。
かつてダンジョン最深部で、魔王すら単独で狩り殺したと言われる、災厄の象徴。
『黒の剣聖』
5年の時を経て、最悪の怪物が、今ここに目を覚ました。
『……キ……サマ……?』
巨人の動きが止まる。
本能的な恐怖を感じたのか、無数の顔が一斉に引きつり、後ずさるような波動を見せる。
「逃がさねぇよ。……テメェらはゴミだ。俺の大事なツレ(マシロ)と、仲間たちの魂を食い散らかした、吐き気を催す生ゴミだ」
俺は地面を蹴った。
音はない。
一瞬で距離をゼロにする、縮地。
「『剣聖技・壱ノ型』――」
閃光。
ザンッッ!!
世界が、横にズレた。
巨人の胴体が、真ん中から綺麗に両断され、上下に分かれて滑り落ちる。
遅れてやってくる衝撃波が、周囲の岩壁を粉砕し、ダクトを塞いでいた瓦礫の山を吹き飛ばした。
「――『無塵』」
俺は剣を振るい、刀身についた黒い血糊を払った。
背後で、巨人の上半身がドサリと崩れ落ちる音を聞きながら、俺は冷めた目で見下ろした。
「……脆いな。掃除にもなりゃしねぇ」
だが、俺は知っている。
これだけじゃ終わらない。
こいつは「未練」の集合体だ。物理的に斬ったところで、核にある怨念を浄化しない限り、何度でも再生する。
ズズズ……。
案の定、斬られた断面から黒い触手が伸び、再びくっつこうと蠢き始める。
「……マシロ」
俺は空を見上げた。
このどす黒い巨体の中枢に、あいつがいる。
あいつを取り戻すには、この山のてっぺんまで登り、核を直接叩くしかない。
「痛いのは、俺だけでいい」
俺は剣を握り直した。
全身から血が噴き出すような激痛。
仲間の死の追体験。
それをねじ伏せ、俺は嗤った。
「行くぞ、野郎ども。……最後の宴だ」
俺は再び、黒い渦の中へと飛び込んだ。
たった一人で。
しかし、その背中には、目に見えない12人の影が、確かに寄り添っていた。




