第134話 重たいだけの鎧(プライド)は、時に立ち上がるための足枷になる
――チクタク、チクタク、チクタク、チクタク。
脳髄の最も柔らかい部分に直接へばりついた『死へのカウントダウン(懐中時計の秒針)』が、まるで最新鋭のドルビーアトモス音響で再生されているかのように、立体的かつ暴力的な爆音を鳴らし続けていた。
極限の恐怖と、致死量の百倍を下らない濃密な魔力が正面衝突した瞬間。
俺――黒鉄ジンの脳内CPUは、あまりの処理オーバーから自己防衛システムを強制起動させ、物理的な時間認識を「フリーズ」させた。
世界が、恐ろしいほどのスローモーションで引き伸ばされていく。
網膜に映るのは、ほんのコンマ数秒前まで「紅蓮騎士団の精鋭」という肩書きを持っていた肉塊の成れの果て――実験体キメラが振り下ろした、最大質量の触手。
それが、俺の『左手』と激突し、大気を拉げさせる瞬間だった。
ズ、ガ、ァ、ァ、ァ、ァ、ァ、ァ、ン、ッ……!!!!
音速の壁をぶち破った衝突エネルギーが、少し遅れて俺の鼓膜を物理的に粉砕しにかかる。
衝撃波が同心円状に広がり、足元の強固な岩盤が、まるで安物のクラッカーのように砕け散った。重力という概念が完全にログアウトし、無数の瓦礫が空中へと舞い上がっていく。
その飛び散る小石の一つ一つの表面の凹凸、空気を切り裂く土煙の粒子の軌跡、さらにはキメラの触手から飛び散る粘液の煌めきまでが、俺の眼球には4K画質・120fpsの異常な高解像度で克明に処理されていた。
(……あー、なるほど。これ、アニメ化したら原画マンが過労で三人は病院送りになる作画カロリーだな。円盤の売上で元が取れるのか? 製作委員会の胃の粘膜がマッハで溶けるぞ、これ)
極限状態に置かれた脳が、完全に現実逃避(脱線)を開始する。
作画班の労働環境や有給消化率を憂慮している場合ではない。最大の問題は、俺の肉体だ。
「…………ぁ、……っ?」
俺の背後でへたり込んでいるガレスの喉から、間の抜けた空気が漏れた。
彼の瞳孔は極限まで収縮し、心臓の不整脈が、静まり返った世界でドラムロールのように鳴り響いている。
無理もない。常識が、物理法則が、目の前の光景を全力で否定しているのだから。
俺の『右腕』は、もうとっくに死んでいる。
右肩の関節は脱臼という生易しいものではなく、強靭な靭帯ごと完全に引きちぎられ、皮一枚――いや、黒く変色した死肉の繊維一本で、辛うじて胴体にぶら下がっている状態だ。
皮膚は備長炭のように黒く炭化し、ひび割れた隙間からは、血の代わりにタールのような真っ黒な煤が、ボタボタと絶え間なく滴り落ちている。
ポタ、ポタ、と。
煤が地面に落ちるたび、ジュッ……と不快な音を立てて岩盤を溶かし、鼻腔を突く刺激臭(焦げたタンパク質と安い線香を混ぜたような匂い)を撒き散らしていた。
本来なら、痛みでショック死するか、発狂して脳髄がメルトダウンを起こすレベルの激痛だ。
(……痛い。いや、痛いなんてもんじゃない。虫歯の神経を麻酔なしでグリグリ削られながら、足の小指をタンスの角にマッハ3でぶつけ、さらに確定申告の領収書を紛失したことに気づいた時のような、肉体的・精神的の両面から攻めてくる言語化不能の絶望的疼痛……ッ! だが、ここで俺が倒れたら、尺が持たねェ!)
俺は奥歯を粉々に噛み砕きながら、アドレナリンと気合いの過剰インストールで、脳の痛覚野を強制シャットダウンした。
左手一本。それだけで、キメラの触手を強引に弾き飛ばす。
「……起きろ、三流騎士。掃除の邪魔だ」
俺は、肺に残った僅かな酸素を振り絞り、粗目のヤスリでガラスを削ったような低い声を出した。
同時に、へたり込むガレスの胸倉を乱暴に掴み上げ、強引に立たせる。
至近距離で交錯する視線。
ガレスは、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、俺の狂気に満ちた漆黒の瞳を覗き込んだ。
「お前が背負ってんのは、その薄っぺらい金ピカの鎧か? それとも、スポンサーのオッサンどもに媚び売って手に入れた『団長』って肩書きか?」
「な……にを……ッ」
ガレスの顔面から、スッと血の気が引いていくのがわかった。
彼の脳内で、走馬灯が逆再生されているのだろう。
総工費100億ルピアの無駄に重い黄金の鎧。肩に刻印されたエナジードリンクのスポンサーロゴ。配信の視聴率。株主への言い訳。
それら全てが、今のこの血と肉が飛び交う地獄においては、「ただの足枷(燃えないゴミ)」でしかないという残酷な真実。
「俺には、ただの重たい鉄屑にしか見えねェよ。そんなモン着込んで、見栄張って、数字ばかり気にしてるから……てめェ自身の足で立てなくなるんだよ、唐変木が」
俺の言葉が、見えない刃となってガレスの自尊心をズタズタに切り裂いた直後――。
「ギィィィィィィギャァァァァァァァァァァァッッッ!!!」
獲物を邪魔されたキメラが、空間そのものを震わせるような甲高い咆哮を上げた。
その周波数は、人間の三半規管を直接揺さぶり、胃袋の中身を強制的にリバースさせるほどの不快な振動を伴っている。
同時に、その巨大な肉塊が、冒涜的なまでの変容(エグい形態変化)を開始した。
――ボコッ、グチャァッ、メキメキメキィッ!
アニメの放送倫理・番組向上機構(BPO)が泡を吹いて倒れそうな、圧倒的グロテスク。
腫瘍がさらに別の腫瘍を生み出すように肉が異常膨張し、表面の皮膚が限界を迎えて裂け、中から黄色い胃酸と緑色の体液をスプリンクラーのように撒き散らしながら、無数の「黒い魔力腕」が、狂った百足のように四方八方へと射出された。
ズドォォォォン!! ドバァァァァン!! バキィィィィンッ!!!
全方位からの無差別な絨毯爆撃。
フラクタル構造で無限増殖する黒い腕の軌跡。
エフェクトレイヤーを何百枚重ねたのか分からない、3DCGでなければ絶対に作画崩壊を起こすであろう、視覚的暴力の極致。
俺は、武器すら持たない完全な丸腰の状態で、その弾幕の中へと身を投じた。
――メキィッ! バキボキィッ! ブツンッ!
俺が回避行動をとるたびに、サイレント・ブレイク――靭帯が切れ、筋肉の繊維が断裂し、骨が軋む、耳を塞ぎたくなるような不快な破断音が体内で響き渡る。
肉体の限界? そんなものは、第三巻の時点でとうに超えている。すでにマイナス残高だ。
今の俺を動かしているのは、「家族の居場所を守る」という、原始的で純粋な狂気だけだ。
「ハァッ……ハァッ……! クソが、的がデカすぎて掃除のしがいがねェ……!」
血と煤を吐き散らしながら、俺は紙一重で魔力腕を躱し続ける。
その血みどろで、痛々しく、それでいて決して倒れない後ろ姿を、ガレスはただ、瞳孔を限界まで開いて見つめていた。
(なぜだ……なぜ、こいつはここまでボロボロになって戦う?)
ガレスの心臓が、恐怖とは別の理由で激しく警鐘を鳴らす。
目の前の清掃員は、名誉も、地位も、立派な鎧も持っていない。世間から見れば、ダンジョンの底でゴミを拾うだけの底辺だ。
だが、その底辺は今、ボロ雑巾のように自らの命を擦り減らしながら、背後で震える自分を庇って戦っている。
それに引き換え、自分はどうだ? 黄金の鎧を着て、偉そうにふんぞり返り、挙句の果てに腰を抜かしている。
『――団長。どうして、助けてくれなかったんですか?』
ふと。
キメラの肉の表面に、吸収された部下たちの顔が、ドロドロに溶けかけた状態で浮かび上がった。
半分眼球が飛び出し、顎の骨が露出した状態の彼らが、ガレスを見つめて一斉に口を開く。
『スポンサーのロゴに傷がつくからですか?』
『今月の物販の売上が落ちるからですか?』
『俺たちの命より、その金ピカの鎧のほうが大事なんですかァァァァッ!?』
精神を直接削り取るような、悪辣極まりない走馬灯の強制投影。
ガレスの視界が歪み、呼吸が浅くなる。手足の先から急速に温度が奪われ、周囲の音がプツンと途切れた。心象風景の中で、彼は底なしの泥沼へと沈んでいく。
その決定的な隙を、キメラは見逃さなかった。
足手まといのガレスを完全に排除すべく、最も太く、最も禍々しい一撃が、直線的な軌道でガレスの頭上へと振り下ろされる。
回避不能。防御不能。
「――邪魔だ、すっこんでろッ!!」
凄まじい踏み込みと共に、俺がガレスの前に割り込んだ。
迫り来る死の質量から身を挺して庇う。
だが。
――ブチィッ。
まるで、張り詰めたベースの太い弦を巨大なペンチで切断したような、残酷な音が響いた。
度重なる無茶に耐えかね、俺の左足首のアキレス腱が、完全に断裂したのだ。
「あ、やべ。準備体操忘れてたわ」
この期に及んで、俺の口から死ぬほど間抜けでメタ的な声が漏れる。
一瞬、俺の体勢が大きく崩れる。
迫り来る巨大な触手。防御の姿勢は、間に合わない。俺の残機がゼロになる、その瞬間。
(……俺の、せいだ)
ガレスの中で、何かが完全に弾け飛んだ。
スポンサーの顔? 知るか。
世間の評価? 視聴率? 糞食らえだ。
俺は騎士だ。俺の部下を喰い物にした化け物に、これ以上好き勝手やらせてたまるか。
そして何より――こんな、今にも死にそうなボロボロの清掃員に背中を庇われて生き延びるほど、俺の騎士としての魂は腐っちゃいない!!
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉッッッ!!!」
ガレスの全身の筋肉が、人間の限界を超えて異常隆起する。
彼は地面に突き刺さっていた「折れた大剣」を力強く握りしめた。
足腰に食い込む黄金の重鎧の重量――総重量120キロを、怒りとアドレナリンだけで強引に振り切り、崩れ落ちようとする俺の背中を通り越して、迫り来る巨大な触手の正面へと立ち塞がった。
「俺の部下を……! 俺の誇りを……! これ以上、好きにはさせんッ!!」
血を吐くような、魂の底からの咆哮。
次の瞬間、キメラの触手と、ガレスの構えた折れた大剣が激突した。
ズガァァァァァァァァァァァァンッッッ!!!!!
爆心地から、竜巻のような衝撃波が吹き荒れる。
遥か上空の崖から見下ろしていたマシロとテツコが、思わず悲鳴を上げて顔を覆い、強風で吹き飛ばされそうになるほどの凄まじい爆発。
その衝撃の中心で、ガレスの身体を覆っていた「黄金の重鎧」が、限界を超えた負荷に耐えきれず、メキメキと音を立ててひび割れていく。
パァァァァァァンッ!!
そして、盛大な破砕音と共に、ガレスの虚飾の象徴であった重鎧は完全に粉砕され、キラキラと輝く黄金の破片となって空中に四散した。
右肩にあったエナジードリンクのロゴも、左胸にあった保険会社のロゴも、団長としての見栄も、総工費100億ルピアの負債も、すべてが物理的に吹き飛んだ瞬間だった。
画面いっぱいに広がる、SSR確定ガチャのような豪華絢爛な黄金のパーティクル・エフェクト。
ああ、またCG班が泣きながら辞表を書く幻覚が見える。すまない、アニメスタッフ。
もうもうと立ち込める土煙。
数秒の静寂が、クレーターを支配する。
やがて、冷たい地下の風が吹き抜け、視界を遮っていた粉塵をゆっくりと晴らしていった。
そこに立っていたのは――。
「…………」
見事なまでの、全裸の男だった。
いや、比喩ではない。決して「比喩的な意味で鎧を脱いだ」わけではないのだ。
ブーツすらない。兜もない。アンダーウェアすらない。布の面積、完全なるゼロ。
大自然のままに解き放たれた、正真正銘、生まれたままの姿である。
しかも、最悪なことに、地下空間の亀裂から差し込んだ一筋の神秘的な光が、あろうことかガレスの股間部分だけを神々しくライトアップ(自主規制)していた。
どんな奇跡的な確率だよ。カメラワークの悪意が天元突破してるぞ。照明スタッフは後で体育館裏に呼び出しだ。
だが、第5巻の泥沼で見せたような、顔を真っ赤にして股間を両手で隠す情けない姿は、そこには微塵もなかった。
ガレスは一切の羞恥心を見せず、冷たい地下の風にブラブラと『漢の証』を揺らしながら、傷だらけの屈強な肉体を晒したまま、堂々と両手で折れた大剣を構えていた。
その背中は、どんな分厚い鎧を着ていた時よりも、はるかに大きく、揺るぎない「真の騎士」のそれだった。
ガレスは振り返らずに、背後にいる俺に向かって不敵に笑う。
「……待たせたな、掃除屋。この重たい鉄屑を脱ぐのに、少々手間取った」
完璧なキメ台詞。
声のトーンも、横顔のシリアスさも、ハリウッド映画のクライマックスそのものだ。
ただ、下半身が放送コードを全力でぶっちぎり、PTAから抗議の電話が鳴りやまない状態であることを除けば、だが。
俺は、切れたアキレス腱を無理やり引きずって立ち上がりながら、血と煤まみれの顔でフッと口角を上げた。
「チッ……見苦しいモン見せやがって。眼球が腐りそうだ」
「安心しろ。お前の視界に入るのは、これから俺が切り刻む敵の死骸だけだ」
堂々と全裸でポーズを決めるオッサンの背中に向かって、俺は心の中で強烈なツッコミ(おいィィィ! BPOの審査員がアップを始めただろーが! せめて折れた剣で隠せ! 隠れてねぇけど!)を入れつつ、表面上は最高にクールな相棒の顔を作った。
常軌を逸した満身創痍の清掃員と、股間を隠すことをやめた全裸の騎士団長。
絶望的な状況のど真ん中で、虚飾を捨て去った「裸の矜持」が完成する。
反撃の狼煙は、最高に熱く、そして最低な絵面(コンプライアンス違反)と共に上がったのだった。




