第132話 最強の盾は黄金の鎧じゃない。血と泥に塗れた「ただの意地」だ
「……こんな悪趣味な生ゴミ(キメラ)と一緒に、お前らみたいな可燃ゴミを同じゴミ袋に突っ込むような分別な真似は……親父(俺のルール)に止められてるんでね」
その軽口が、空気を震わせた直後。
世界から、一切の「音」が消失した。
いや、物理的に音が消えたわけではない。俺――黒鉄ジンの極限状態に陥った脳髄が、生存本能のオーバークロックを引き起こし、周囲の時間感覚をゼリー状にドロドロに引き伸ばしたのだ。
いわゆる、究極の「時間凍結」。
視界の端で舞い上がる土埃の粒子が、まるで無重力空間に浮かぶスノードームのように、一粒一粒、その不規則な回転運動すらもハッキリと認識できる。
目の前で、俺のセリフを受け取ったキメラの顔のない頭部が、ブルッと極めて不快な痙攣を起こした。
自らの圧倒的な質量と絶望の権化としての絶対的な存在意義が、「ただの人間」の、しかも今にも折れそうな仮組みの清掃用具一本に防がれたことに対する、細胞レベルでの苛立ち。あるいは、通信機の向こう側で安全圏から高見の見物を決め込んでいる『あの方』からの、「さっさとその不快なゴミを処理しろ」という冷徹な業務命令を受信したのか。
ボコッ、ボコボコボコボコボコッ……!!
キメラを構成する黒い泥の表面が、巨大なマグマの釜のように沸騰し始めた。
表面張力を無視して膨れ上がった泥の泡が弾け、そこから新たな無数の「魔力腕」が、まるで深海で獲物を見つけた巨大なイソギンチャクの触手群のように、爆発的に生え揃う。
それは、一本一本が独立した意思を持っているかのように蠢き、俺の全身の急所――眼球、頸動脈、心臓、そして股間――を目掛けて、音を置き去りにする速度で襲い掛かってきた。
(……おいおいおい。作画カロリー高すぎだろ、これ)
俺の思考は、この凍りついたコンマ数秒の暗闇の中で、現実逃避のメタ発言へと盛大に脱線していた。
(どこの深夜アニメのクライマックスだよ。触手一本一本に影指定入れて、しかもそれぞれ違う軌道で動かすとか、これ担当してるアニメーター、今頃レッドブル何十本空けて血尿出してる? 放送スケジュール落として総集編(尺稼ぎ)挟むパターンのやつじゃねぇか。そもそもこのドス黒い魔力エフェクト、透過処理重ねすぎて編集のPCがフリーズするレベルだぞ……)
そんな、どうでもいい心配を脳内でフル回転させながら、俺は背後のガレスを庇うように立ち塞がり、両手でデッキブラシを旋風のごとく振り回した。
ガガガガガガガッ!! キィンッ! ズガァァァンッ!!
引き伸ばされた時間の中で、火花の一粒一粒が、まるで線香花火の終焉のように儚く、そして暴力的にクレーターの底を照らし出す。
全方位からの触手の刺突。それを、テツコが打った黒鋼コーティングの刃で弾き、逸らし、切り伏せる。
だが、俺の『死者の共鳴(未練の魔力)』とキメラの莫大な魔力が衝突するたび、武器の悲鳴が、俺の骨を伝わって直接脳髄を削り取ってきた。
ギギギギギギッ!
それは、黒板を巨大な爪で引っ掻いた音をメガホンで増幅させたような、あるいは自動車が急ブレーキをかけてアスファルトを削り取る断末魔のような、胃液が逆流するほど不快な金属音。
「バカジン!! もう限界よ!!」
崖の上、崩落の縁から身を乗り出した鋼テツコの声が、重力に逆らうように俺の鼓膜に届いた。
彼女の溶接マスクの奥にある瞳は、エンジニアとしての絶望と、家族としての悲痛な叫びで大きく見開かれているに違いない。声帯が震え、喉が千切れるほどの絶叫。
「次にアンタの魔力を乗せてそのバケモノと打ち合ったら、そのブラシは柄のコーティングごと粉微塵になるわよ!!」
「……チッ、クーリングオフの期間内だろ。後でキッチリ返品してやるよ、この不良品が」
俺は息もつかせぬ触手の猛攻を弾きながら、崖の上に向かって軽口を叩いた。
だが、俺の強がりとは裏腹に、テツコの警告は極めて正確な物理法則の事実だった。
限界を迎えているのは、武器だけではない。
ブチブチッ……。
俺の右腕の筋肉が、内側から崩壊する音。
すでに炭化の呪いが進行し、限界をとうの昔に超えていた俺の腕は、オーバーヒートして白煙を上げるポンコツエンジンのように悲鳴を上げていた。皮膚の下で、毛細血管が次々と弾け飛び、千切れた筋繊維が暴れ狂う。
内出血によるどす黒い斑点が、まるで呪いのタトゥーのように急速に広がり、右腕全体を死の染料で塗り潰していく。
(……休んでる暇はねぇな。これ以上受けに回れば、押し潰される)
俺は大きく息を吸い込んだ。
肺の中に溜まった、鉄錆と血の味が混ざった唾液を飲み込む。
心臓が、まるで肋骨を内側から叩き割ろうとするかのような、不整脈の乱打を刻んでいる。
防御を捨て、機動力を活かして死角から削り切る。それしか、この化け物を解体する方法はない。
シュバッ!
俺は地面の岩盤を砕き、残像すらも置き去りにするトップスピードで空間を跳躍した。
キメラの巨体の側面に回り込み、蜘蛛の節足のように蠢く下半身の関節へ、漆黒の未練の魔力を纏わせたデッキブラシを渾身の力で叩き込む。
ズバァァァァァァァンッ!!
黒い衝撃波が円形に迸り、太い触手と足の腱が次々とスライスされ、宙を舞う。
読者の目線から見れば、闇の中を黒い稲妻が駆け抜け、巨大な怪物をスタイリッシュに解体していく、息を呑むような高速戦闘のアニメーションに見えるだろう。
だが、その一歩を踏み込むたび、俺の肉体の内側では、人間が出してはいけない破滅的な異音が鳴り響いていた。
バキッ。メキメキッ。
右に極限のステップを踏み込んだ瞬間、足首の靭帯が耐えきれずに断裂し、骨が奇妙な角度にひん曲がる。
触手を切り払うために腕を無理やり振り抜いた瞬間、肩の筋肉が裂け、関節が外れかける。
普通の人間なら、ショック死するか、痛みで発狂して地面をのたうち回るレベルの激痛。
かつて、小学生の頃にタンスの角で小指をぶつけて三日間泣き叫んだあの痛みを、一万倍に濃縮して脳天に注射されたような、宇宙の法則が乱れるレベルの苦痛。
だが。
痛覚が完全に消失している俺にとっては、「ん? 今ちょっと靴紐が緩んで足首がグネったか?」程度の、ひどく間の抜けた認識でしかなかった。
痛みという「生命のストッパー」を失った人間の、あまりにも悍ましい自傷行為。
関節が外れようが、筋肉が千切れようが、俺はピクリとも顔色を変えず、ただ冷徹なマシーンのようにキメラの肉を削いでいく。
「……マジかよ。チート能力のインフレにも程があるだろ」
俺はステップを踏みながら、乾いた笑いを漏らした。
俺が命と肉体を削って切断したキメラの触手や足が、地面に落ちる前にドロドロの泥に変わり、瞬時に本体へと吸い込まれていく。
そして次のコンマ一秒後には、傷口から新しい部位がボコッと生え出し、完全に元通りに修復されていた。
規格外の無尽蔵の再生能力。RPGのラスボスでも、こんなクソみたいなリジェネ回復を持ってたらプレイヤーがコントローラーを叩き割るレベルだ。
おまけに、キメラは俺の精神を削り取る悪趣味なブラフまで混ぜてきやがる。
修復された触手の表面に、先ほど吸収された紅蓮騎士団員たちの顔がボコボコと浮かび上がった。
『痛い……痛いよォ……』
『たすけて、お母さん……熱いよォ……』
血の涙を流しながら泣き叫ぶ死者たちの声。
それは、周囲の音が遠のいた心象風景の中で、呪詛のように響き渡る。
俺の脳裏に、五年前の事故で死んでいった仲間たちの記憶――焼け焦げた匂い、血溜まり、届かなかった手――がフラッシュバックしそうになる。
(……今更そんな安いトラウマ刺激で、俺の足が止まると思ってんのか、三流が)
俺は奥歯を噛み砕くほどの力で過去の記憶を無理やり押さえつけ、ただひたすらにブラシを振るう。
物理的なダメージが一切通らず、悪趣味な精神攻撃だけが延々と繰り返される。こちらの体力と、武器の耐久値だけが一方的に削られていく、息も絶え絶えになる底なし沼のような消耗戦。
* * *
「なぜだ……」
クレーターの隅でうずくまったまま、ガレスは目の前の光景に完全に釘付けになっていた。
彼の瞳孔は極限まで開き、呼吸すら忘れたように、ジンとキメラの死闘を見つめている。
ガレスの心の中で、これまで自分が信じてきた価値観――地位、名誉、金――が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを、鮮明に感じていた。
スポンサーの莫大な資金で作られた最新鋭のスライムバズーカ。
総工費100億ルピアの重厚な要塞。
金に物を言わせて着飾った、自分の黄金の重鎧。
それらはすべて、あの怪物の前では、ただの紙屑と同然だった。一瞬でゴミにされ、部下たちは食われ、自分の薄っぺらいプライドは木っ端微塵に砕かれた。
なのに。
あの男はなんだ?
ボロボロの身体。右腕はドス黒く変色し、口からは黒い血を吐き、足首はありえない方向に曲がっている。
武器といえば、今にも折れそうな、柄の焦げた清掃用具が一本だけ。
金も、権力も、強力な防具もない。
ただの丸腰に等しい状態でありながら、なぜあの男は、あんな絶対的な絶望を前にして、一歩も退かずに立ち向かえるというのか。
「どうして……そこまでして……」
ガレスの震える唇から、呆然とした声が漏れる。
彼には理解できなかった。自分が持っていない「何か」を、あの男が持っていることだけは、心臓を鷲掴みにされるほど痛いほどわかった。
その時だった。
キメラが、ちょこまかと動き回るジンを完全に無視し、標的を再びガレスへと定めた。
ギィィィィンッ!!
キメラの巨体が大きく反り返る。そして、無数の触手が一本に束ねられ、まるで大型肉食恐竜の巨大な「顎」のような形状へと変化した。
全質量と、莫大な未練の魔力を乗せた、正真正銘の必殺の一撃。
それが、うずくまるガレスの頭上へと、重力を捻じ曲げながら隕石のように振り下ろされた。
「あ……」
ガレスが死を覚悟し、目を閉じた瞬間。
凄まじい風圧と共に、ガレスの目の前に真っ黒な背中が割り込んだ。
「……ったく、手間のかかる燃えないゴミだぜ」
ジンだった。
彼は両足を深く岩盤にめり込ませ、デッキブラシを横に構え、キメラの全質量を乗せた巨大な顎を、正面から受け止めた。
ズガアァァァァァァァァァァンッッ!!!!!
空間が、文字通り爆発した。
ジンの『未練』の魔力と、キメラの悪意が正面から激突し、クレーターの底に漆黒の太陽が生まれたかのような閃光が走る。
周囲の瓦礫が無重力のようにフワリと浮き上がり、時間が完全に停止した。
俺の腕の中で、極限まで圧縮された魔力が臨界点を突破する。
だが、その均衡は、ほんのコンマ一秒しか保たれなかった。
金属の分子結合が、原子レベルで崩壊していく。
――パキンッ。
凍りついた空間に、ガラス細工が割れるような、澄んだ、そしてあまりにも残酷な破断音が響いた。
テツコの打った鋼の刃。ジンが限界まで魔力を注ぎ込み続けた『仮組みデッキブラシ』の限界容量が、ついに突破されたのだ。
黒鋼のコーティングがひび割れ、刃が、柄が、無数の破片となって、スローモーションのように空中に散乱していく。
「ッ……!!」
命綱であった武器が砕け散った反動と、防ぎきれなかったキメラの圧倒的な質量が、ジンの無防備な肉体を直撃した。
ドゴォォォォンッ!!
「ジン!!」
崖の上で、マシロの鼓膜を劈くような悲鳴が響く。
ジンの身体は、巨大なダンプカーに撥ねられたかのように軽々と宙を舞い、地面を何度もボロ布のようにバウンドしながら、数十メートル先の岩壁に激突した。
ズシャァァァァァンッ!!
岩壁が蜘蛛の巣状にひび割れ、大量の瓦礫がジンの身体の上に崩れ落ちる。
舞い上がる土煙。
そして、訪れる完全な静寂。
岩壁に深くめり込んだジンは、ピクリとも動かなかった。
彼の顔はうつむき、前髪が表情を隠している。
唯一動いているのは、完全に脱臼し、だらりと力なく垂れ下がった右腕の指先から、ポタポタと黒い血が規則的なリズムで滴り落ちる光景だけだった。
武器は砕け散り、肉体は完全に活動限界を迎えた。
最大の危機。正真正銘の丸腰。
ズリッ……ズリッ……。
キメラが、まるで勝利を確信したかのように、不快な粘液の音を立てながら、動かないジンへとゆっくり歩み寄り始める。
「あ……ああ……」
その一部始終を目の当たりにしたガレスの脳裏に、これまでの自分の行いが、走馬灯のように強烈にフラッシュバックした。
スポンサーに媚びへつらい、見栄を張ってくだらない全裸トラップを作ったこと。
自分の保身のために、部下たちを「エサ」として死地に追いやったこと。
そして――敵であり、自分がゴミだと見下していた男に、二度も命を救われたこと。
(……俺は、何をやっているんだ……?)
自分の薄っぺらさ。空っぽな騎士道。
黄金の鎧で着飾っても、中身はただの臆病で浅ましい中年男でしかなかったという残酷な現実。
だが、今のガレスの心には、絶望や自己嫌悪とは違う、名状しがたい「熱」が生まれ始めていた。
あの男の、血と泥に塗れたボロボロの背中が、ガレスの胸の奥底に、消えることのない小さな火種を落としていたのだ。
ガクガクと震えるガレスの右手が、無意識のうちに動いた。
そして、土煙の舞う地面に落ちていた――部下が残した、刃の欠けた「大剣の柄」を、強く、血が滲むほど強く握りしめた。
ガレスのうつろだった瞳の奥で、消えかけていた騎士の誇りが、泥に塗れながらも微かに燻り始めた。




