第130話 昨日のスポンサーは今日の捕食者。世知辛いダンジョン食物連鎖
ギャグとシリアスの境界線が、物理的な「音」を立ててへし折れた。
ポキッ、ではない。バキボキグチャァッ、という、複雑骨折した部位をさらにダンプカーで轢き潰したような、極めて不快で取り返しのつかない破断音だ。
ズズズズズズズ……ッ。
B60F『関所エリア』の半壊した要塞跡地。
隕石が直撃したかのような巨大なクレーターの底で、濛々と立ち込めていた土煙が、ぬちゃり、という粘度の高い水音と共に風に流されていく。
このコンマ数秒。俺の体感時間は、極限の緊張状態によってゼリーのようにドロドロに引き伸ばされていた。
空中に舞う土埃の一粒一粒が、まるで無重力空間に浮かぶスノードームの雪のように、ゆっくりと、極めてゆっくりと網膜に焼き付いていく。
急激に、温度が下がった。
いや、気温という生易しいものではない。空間そのものが「熱」を奪われているような、絶対的な死の冷気。
クレーターの縁に生えていたダンジョン特有の極彩色のシダ植物が、まるで早送り映像を見ているかのように急速に色を失い、どす黒く変色して、パラパラと炭のようになって崩れ落ちていく。
(……おいおいおい。冗談キツいぜ)
俺――黒鉄ジンは、テツコ特製の重いデッキブラシを構えたまま、ひび割れた唇の端を引きつらせた。
それは、俺が命を削って使用する呪い、『死者の共鳴』が発動した時と全く同じ、生命力を根こそぎ奪い取る現象の可視化だった。
だが、そのスケールが桁違いすぎる。俺の呪いが「半径数メートルの生命力を吸う掃除機」だとしたら、目の前で起きているのは「空間ごと丸呑みするブラックホール」だ。
土煙の中から完全に姿を現した『それ(実験体)』は、俺たちの常識とダンジョンの生態系に対する、明確な中指の提示だった。
ベースとなっているのは、黒い泥のような高密度の瘴気。だが、その表面には、過去に俺たちがダンジョンで葬ってきたボスクラスの魔物たちのパーツが、無理やり太い黒いワイヤーで縫い合わされたように蠢いていた。
右半身を覆う巨大なドラゴンの鱗。左腕からドロドロと滴るスライムの粘液。下半身からは蜘蛛の節足が不規則なリズムで地面を削っている。
まるで、夏休みの工作で「とりあえず強そうなカブトムシとクワガタとカマキリの死骸を木工用ボンドでくっつけてみました!」みたいな、小学生のサイコパスみ溢れる発想を、数兆円規模の予算をかけて大真面目に具現化したような悪趣味さ。
深夜アニメなら「作画コスト高すぎだろ、これ動かすアニメーターが過労死するわ」とSNSで炎上しそうなレベルの、狂気のパッチワーク(キメラ)だ。
腐った卵と、大量の血と、ショートした配線が焦げるようなオゾンの匂いが混ざり合い、鼻腔を容赦なく犯してくる。
俺の味覚と痛覚はすでにイカれているはずなのに、脳髄が過去の記憶を引きずり出し、「あ、これ三日前に食いっぱなしで放置した夏場の納豆の匂いだ」と勝手に幻臭を補完してきやがる。やめろ、吐き気がマッハだ。
「な……んだ、これは……」
数秒前まで、「超高水圧・衣類溶解スライムバズーカ・ギガント」なる深夜枠の三話目あたりでしかお目にかかれないフザけた兵器を構え、俺たちを全裸にしてやろうと息巻いていた紅蓮騎士団・団長ガレスが、歯の根をガチガチと鳴らした。
見掛け倒しの黄金の重鎧が、ひどく滑稽な金属音を立てる。
ガレスの瞳孔は完全に開ききり、額からは滝のような冷や汗が噴き出している。心臓の鼓動が、俺の耳にまで『ドッドッドッドッ』と不整脈のビートを刻んで聞こえてきそうだ。
「……陣形を立て直せ! スライムバズーカを、い、一斉射撃だ!!」
ガレスが裏返った声で叫ぶ。
だが、遅い。圧倒的に遅すぎる。
捕食者というものは、エサが「自分が食われる側だ」と認識する前に、すでに牙を突き立てているものだ。
メチャッ……!
キメラの、顔が存在しないのっぺりとした頭部が、まるで熟れた無花果が弾けるように、縦にパカッと割れた。
その亀裂の奥から覗いたのは、歯車のように重なり合った無数の牙と、光すら逃れられない底なしの暗闇。
シュババババババッ!!
空気を引き裂く鋭い風切り音。
キメラの割れた頭部から、黒い泥のような魔力で構成された無数の「触手」が、爆発的な速度で放射された。
時間が、さらに引き伸ばされる。
最前列でスライムバズーカを構えていた騎士団員たちの顔が、ゆっくりと驚愕に染まっていくのが見える。
「え……?」という間抜けな五十音の最初の一文字が、彼らの唇から離れるよりも早く。
ズグチャッ!!
大量のトマトを壁に叩きつけたような、ひどく湿った、それでいて骨と内臓がミキサーにかけられたような破裂音が響いた。
騎士たちの胸の中心に、太い黒の触手が突き刺さっていた。
彼らの肺から空気が押し出され、悲鳴の代わりに大量の鮮血がゴボッと吐き出される。
次の瞬間、触手がシュルルッと巻き戻る。
串刺しにされた騎士たちは、そのまま抵抗する間もなくキメラの巨大な口(亀裂)の中へと引きずり込まれ、「ジュルンッ」という悍ましい音と共に、文字通り『吸収』されてしまった。
「ア、アアアァァッ!? 撃てェェェッ!!」
パニックに陥った残存の騎士たちが、半狂乱になってスライムバズーカや攻撃魔法を乱れ撃つ。
緑色の粘液弾と、炎や雷の魔法がクレーターの底に降り注ぐ。
だが。
シュウゥゥゥゥゥ……。
キメラの表面を覆う黒い瘴気が波打ち、すべての攻撃を着弾する前に「喰らった」。
魔法の光も、物理的な質量も、すべてが黒い泥の中に吸い込まれ、ただのエネルギーとして還元されていく。
「う、嘘だろ……効かない、だと……?」
ガレスが絶望に顔を歪める。
だが、真の地獄はここからだった。あの方の設計は、物理的な死よりも、精神的な死を好むほどに悪趣味にチューニングされている。
ボコッ、ボコボコッ……。
キメラの黒い泥の表面が、不自然に隆起し始めた。
泥を内側から押し退けるようにして浮かび上がってきたのは――つい数秒前までガレスの後ろで笑っていた、部下たちの『顔』だった。
『だ、だんちょう……』
『たすけ……て……熱い……溶ける……ッ』
『いやだ、いやだいやだいやだ……っ!』
彼らの顔はキメラの皮膚と同化しながら、信じられないほどの苦悶に歪み、血の涙を流しながらガレスに向かって口をパクパクと動かしている。
ただの捕食ではない。魂ごと閉じ込め、絶望を抽出する無間地獄のエンジン。
俺の脳裏に、B5Fで戦ったレギオン(スライム集合体)の記憶がフラッシュバックする。死者の未練を弄ぶ、俺が一番ヘドが出るやり方だ。
「あ……ああ……ッ」
ガレスの膝から、力が抜けた。
ガシャァン、と重い黄金の大剣が地面に落ちる。
誇り高き(自称)騎士団員が、ただの「エサ」として嬲られ、あまつさえ死ぬことも許されずにキメラの一部として泣き叫んでいる。
今まで金と権力で塗り固めてきた彼の薄っぺらい自尊心が、ペラペラと音を立てて剥がれ落ち、完全な精神崩壊へと至る音が聞こえた。
「やめろ……やめろぉぉぉッ!! 俺の部下だぞ……ッ! スポンサー殿ぉぉっ!! 話が違うじゃないか!!」
ガレスは虚空に向かって、血を吐くように叫んだ。
インカムを握りしめ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願する。
だが、耳元の通信機から返ってきたのは、ザァァ……というノイズに混じった、冷酷な電子音声の嘲笑だけだった。
『――クスクス。モルモットが、エサの分際で何か言っているね。残さず食べていいよ、実験体くん』
(……三流悪役のテンプレムーブかよ。尺稼ぎの回想シーンの合間に挟まる嫌味な上司のセリフみてぇだな)
俺は心の中で毒づきながら、動いた。
「あ……ぁ……」
ガレスの瞳から、完全に光が消えた。
その無防備な頭頂部へ向かって、キメラの丸太のような巨大な腕(ドラゴンの鱗とスライムの混合物)が、無慈悲に振り下ろされる。
風圧だけで、周囲の岩盤がひび割れるほどの質量。
ここでガレスを見殺しにすれば、少しは魔力の温存になる。そもそも俺の寿命はあと数ヶ月。こんなオッサンのために身を挺する義理はない。今日の夕飯、マシロが何を作って待ってるか、そんなことでも考えながら傍観していればいい。
だが。
カアァァァァァァァァァンッッ!!!
鼓膜を破るような金属の激突音が、クレーターの底に響き渡った。
ガレスの目の前に割り込んだ真っ黒な影。
テツコ製の『仮組みデッキブラシ』を両手で構え、キメラの巨大な腕を下から完璧な角度でカチ上げ、弾き飛ばした男。
「……てめぇの飯の食い方、行儀が悪すぎて反吐が出る」
俺の身体は、理屈よりも先に動いていた。
キメラの黒い瘴気と、俺のデッキブラシから溢れ出る漆黒の『未練』が激突し、空間そのものがバキバキとひび割れるような稲妻を撒き散らす。
だが、その代償は一瞬で俺の肉体に跳ね返ってきた。
バチバチバチッ!! ヂリヂリヂリ……ッ!!
激突した瞬間、デッキブラシを握る俺の右腕の血管が、不自然なほどドス黒く隆起した。
皮膚の下で何かが爆発したかのように筋肉が引き攣り、焼けた肉の匂い――バーベキューの鉄板に生肉を押し付けた時のような、ひどく不謹慎でグロテスクな匂いが立ち昇る。
本来なら、腕を切り落としたくなるほどの激痛が脳を焼くはずだ。親知らずを麻酔なしで四本同時にペンチで引っこ抜かれる痛みの、さらに十倍近い激痛。
だが、限界を超え、痛覚が完全に消失している俺の顔には、一滴の汗も浮かばない。ピクリとも表情を変えず、ただ静かな殺意だけをキメラの瞳孔のない眼窩に向けていた。
「バカジン!!」
クレーターの縁、崖の上からテツコの悲痛な叫び声が降ってきた。
「その仮組みの武器じゃ、アンタとそいつの規格外の魔力衝突に耐えられない! 柄より先に、アンタの腕と刃が木端微塵に砕けるわよ!!」
テツコの言う通りだった。
俺の右腕は、すでに炭化の呪いが進行し、内側から崩壊を始めている。
そして、俺の迎撃を「邪魔な異物」と認識したキメラが、不気味なノイズを響かせながら、体内に蓄積された莫大な数の怨念(魔力)を飽和状態を超えて一気に解放するモーションに入った。
(……来るッ!!)
俺はガレスの襟首を掴み、強引に後ろへ放り投げた。
ズドゴォォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!!!
音を置き去りにするほどの、漆黒の全方位衝撃波(咆哮)。
B60Fの要塞跡地そのものを、地図から消し飛ばすレベルの超質量エネルギーの爆発だった。
「ボス!!」
「ジン!!」
崖の上、アイアン・マザー号から飛び出してきたマシロとツムギの声が響く。
彼女たちが俺を援護しようと崖を蹴った瞬間、衝撃波によって要塞の地盤そのものが耐えきれずに大崩落を起こした。
ガラガラガラガシャァァァンッ!!
轟音と共に、大地が真っ二つに割れる。
マシロたちのいる「崖の上」の地盤が後方へとスライドし、俺とガレスのいる「クレーターの底」は、さらに数十メートル下へと陥没していく。
物理的な、絶対の分断。
「ジン――――ッ!!」
舞い上がる猛烈な粉塵と土煙の中、上空から降ってくるマシロの悲痛な叫び声が、ガラガラと崩れる岩の音に掻き消され、急速に遠ざかっていく。
スローモーションのように遠ざかる彼女の手に向かって、俺はただ黙って、届かない視線を送ることしかできなかった。
ズシン、と底が抜けたような衝撃の後。
クレーターの底には、恐ろしいほどの静寂が訪れた。
孤立無援の閉鎖空間。
俺の目の前には、今の爆発的な衝撃波を放ったにも関わらず、傷一つなく再生を終え、再びゆっくりと腕を振り上げる絶望のキメラ。
そして足元には、完全に心がへし折れ、うつろな目でうずくまる全裸一歩手前のガレス。
俺の右腕からは、チリチリと肉の焦げる音が、嫌なBGMのように鳴り続けている。
頭の中でチクタクと狂ったように鳴り続ける懐中時計の幻聴が、俺の寿命の終わりと、この最悪な盤面の完成を、大声で嘲笑っていた。




