第12話:音のない世界と、笑う影
ダクトの出口は、まるで巨大な怪物の食道のように湿り気を帯びていた。
錆びついた梯子を降り、最後の鉄格子を蹴り開ける。
本来なら、そこにはB5F特有の「むせ返るような湿気」と「腐葉土の臭い」、そして「カエルの合唱」が広がっているはずだった。
だが。
「……おいおい」
俺、黒鉄ジンは、梯子の最下段で足を止め、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
背後から降りてきたミナが、俺の背中にぶつかって小さな悲鳴を上げる。
「きゃっ……ご、ごめんなさいジンさん。急に止まって……」
「シッ。静かに」
俺はデッキブラシを横に薙ぎ、二人を制した。
懐中電灯の光束が、闇を切り裂く。
だが、その光が照らし出したのは、数日前に見たあの「極彩色の湿地帯」ではなかった。
「……色が、ない」
マシロが震える声で呟いた。
その言葉通りだった。
そこは、灰色の世界だった。
鬱蒼と茂っていたはずの巨大なシダ植物は、枯れ果てて石膏のように白く硬直し、触れれば粉になって崩れ落ちそうだ。
足元の泥水は、墨汁を流したように黒く濁り、粘度を増してドロリと淀んでいる。
天井の苔が放っていた幻想的な緑色の光は消え失せ、代わりに空間全体が、壊れた蛍光灯のような明滅を繰り返す薄い灰色に染まっていた。
そして何より、異常なのは――。
「……音が、しねぇ」
俺は耳を澄ませた。
本来なら聞こえるはずの、水滴の落ちる音、風の音、魔物の羽音。それら一切が遮断されている。
完全な無音。
自分の心臓の鼓動と、血流の音がうるさいほどに耳元で鳴り響く。
まるで、世界中の空気が真空パックされちまったみたいだ。
「これ……本当にB5Fですか……?」
ミナが俺のコートの裾を握りしめる。その指先が白くなっている。
彼女の知っている「冒険の場所」ではない。ここはもう、現世の理が通用しない「冥府」の入り口だ。
「……空間が変質してる。高濃度の『怨念』が、物理法則を上書きしてやがるんだ」
俺はデッキブラシの先端で、白く枯れた草を突いた。
パサッ。
乾いた音さえ響かず、草は灰となって崩れ去った。
「マシロ。センサーはどうだ?」
「……最悪よ。ノイズだらけで何も拾えない。まるで、砂嵐の中に放り込まれたみたい」
マシロは実体化した姿で、不安げに周囲を見渡している。
霊体である彼女にとって、この空間は「居心地が良すぎる」と同時に「吐き気がするほど濃い」のだろう。
彼女の輪郭が、時折テレビの受信障害のようにザザッと乱れる。
「……行くぞ。案内しろ、ミナ」
俺は声を張り上げることもせず、低く囁いた。
この静寂を破るのが、何かの「スイッチ」になりそうで怖かったからだ。
***
灰色の森を進む。
足元の泥は、歩くたびにネットリと靴底に絡みつくが、その音さえも「ヌチャ……」という湿った音ではなく、くぐもった重低音として足の骨に響くだけだ。
視界が悪い。
懐中電灯の光が、数メートル先で闇に吸い込まれて拡散してしまう。
『……ねえ、ジン』
突然、俺の脳内にマシロの声が響いた。
声を出さず、念話を使ったようだ。
『さっきから……視線を感じるの』
『ああ。俺もだ』
俺はデッキブラシを構えたまま、視線だけを巡らせた。
気配遮断? いや、違う。
これは「いない」んじゃない。「そこら中にいる」んだ。
枯れた木の陰。岩の隙間。濁った水面の下。
無数の目が、俺たちを値踏みするようにじっと見つめている。
「……ヒヒッ」
不意に。
耳元で、乾いた笑い声がした。
「!?」
ミナがビクリと肩を跳ねさせ、振り返る。
誰もいない。ただの枯れ木があるだけだ。
「……ケケケッ」
「……クスクス」
「……アソボ?」
声が増える。
前後左右、そして頭上から。
それは言葉というより、壊れたラジオが拾った混線ノイズのような、不快な周波数の集合体。
「来るぞ! 固まれ!」
俺が叫んだ瞬間。
ズズズズズッ!!
地面の影が、沸騰したように泡立った。
そこから、黒いタールのような人型の「ナニカ」が、次々と這い出してきた。
「ひっ……う、あぁ……!」
ミナが悲鳴を上げて腰を抜かす。
現れたのは、目も鼻も口もない、のっぺらぼうの黒い影。
だが、その頭部には、三日月型に裂けた「笑い顔」のような白い亀裂だけが走っていた。
「……シャドウ・ストーカーか。いや、もっとたちが悪いな」
俺は前に出て、ミナを庇う。
数は十体……いや、二十体。
奴らはユラユラと頼りなく揺れながら、しかし明確な殺意を持って包囲網を縮めてくる。
「『床掃除・戦闘モード』!」
俺はデッキブラシを旋回させ、先頭の一体に踏み込んだ。
「まずは挨拶代わりの一掃きだ! そこどけ、邪魔だ!」
ブンッ!!
フルスイング。
カーボン製の柄が空を切り、影の胴体を薙ぎ払う――はずだった。
スカッ。
「……は?」
俺の手には、何の感触も残らなかった。
ブラシは影の体を、まるで煙かホログラムのようにすり抜けた。
勢い余って俺の体勢が泳ぐ。
「ヒヒッ! アタラナイネェ!」
影が嗤った。
その直後、影の手――鋭利な黒い刃に変形した腕が、俺の首筋めがけて振り下ろされた。
「クソッ!」
俺は咄嗟に身を捻り、ブラシの柄でガードする。
ガギィィィン!!
重い。
こっちの攻撃はすり抜けるくせに、向こうの攻撃は物理的な質量を持って叩きつけてきやがる。理不尽な一方通行だ。
「物理無効(物理耐性100%)かよ! 一番嫌いな汚れだ! タチの悪い油膜かお前らは!」
俺は衝撃を利用してバックステップし、距離を取る。
掃除屋として、これほど腹立たしいことはない。
擦っても落ちない。削っても取れない。
こちらの干渉を拒絶するくせに、向こうからは汚泥を塗りつけてくる。
「ジン! 下がって!」
マシロが俺の前に飛び出した。
彼女の髪が逆立ち、白いオーラが全身から噴出する。
「同じ『幽霊』なら、触れるはずよ! ――『ポルターガイスト・ナックル』!」
マシロが見えない念動力の塊を拳状に固め、影に向かって叩きつけた。
ドゴォッ!!
「ギャッ!?」
今度は当たった。
影がくの字に折れ曲がり、後方へ吹き飛んで木に激突し、黒い霧となって四散した。
「効いた! さすが幽霊秘書!」
「ふふん! 伊達に死んでないわよ!」
マシロが得意げに振り返る。
だが、その余裕は一瞬で消え失せた。
ワラワラワラ……。
霧散したはずの影が、再び地面から湧き出し、元の形に戻っていく。
それどころか、周囲の闇からさらに新たな影が這い出し、その数は倍以上に膨れ上がっていた。
「うそ……増えてる?」
「分裂しやがったな。切っても切っても出てくる金太郎飴かよ」
俺たちは背中合わせになった。
足元の泥沼からも、手首だけの影が伸びてきて、俺のブーツを掴もうとする。
「キリがないわ! 私の魔力(MP)が持たない!」
「落ち着け。数は多いが、知能は低そうだ。一点突破で抜けるぞ!」
俺はポーチに手を突っ込んだ。
指先が触れたのは、ザラリとした粒子の感触。
業務用食塩(1キロ)。
「ミナ! 耳を塞いで伏せてろ!」
俺は叫び、塩の袋を空中に放り投げた。
そして、デッキブラシを一閃。
バシュッ!
袋が裂け、真っ白な塩の結晶が雪のように舞い散る。
「『除霊清掃』――塩分濃度300%散布!」
俺はブラシを高速回転させ、舞い散る塩を竜巻のように拡散させた。
塩。
古来より清めの儀式に使われるそれは、科学的に言えば「霊体の電磁的結合を阻害する絶縁体」だ。
ジュワワワワッ!!
「ギヤァァァァァッ!?」
「イタイ! シミル! カラァァァイ!」
塩を浴びた影たちが、ナメクジのように身をよじらせて絶叫する。
その輪郭が溶け出し、黒い煙が上がる。
「今だ! 走れッ!」
怯んだ隙に、俺はミナの手を引き、マシロを先導させて包囲網を突破した。
背後からはまだ、怨嗟の声が追いかけてくるが、構っている暇はない。
***
十分ほど全速力で走り続け、ようやく「笑い声」が遠ざかった頃。
俺たちは灰色の森の開けた場所に出た。
「はぁ……はぁ……! も、もう走れません……!」
ミナが膝をつき、肩で息をする。
彼女の体力は限界だ。恐怖と疲労で、顔面蒼白になっている。
「……ここ、見覚えあるか?」
俺は懐中電灯で周囲を照らした。
そこは、巨大な岩場だった。
かつては滝が流れていたと思われる崖があるが、今は水も涸れ、黒いシミのような跡が残っているだけだ。
「……あ、あそこ……!」
ミナが震える指で、岩場の窪みを指差した。
その窪みの奥。
瓦礫によって塞がれた狭い空間から、淡い、今にも消えそうな青白い光が漏れていた。
「『結界石』の光ね」
マシロが呟く。
「でも、あんなに弱い……。もう魔力が切れかかってる」
俺たちは瓦礫の隙間から中を覗き込んだ。
そこには、地獄のような光景があった。
五人の冒険者が、身を寄せ合うようにして倒れていた。
装備はボロボロで、全員が意識を失っているか、うわ言を呟いている。
中央に置かれた『結界石』は、ひび割れ、豆電球ほどの頼りない光を発しているだけだ。
そして。
その結界の外側には、無数の「影」がへばりついていた。
結界の光を嫌がって中には入れないようだが、ガラスに張り付くヤモリのように、影たちはじっと中の獲物を見つめ、囁き続けている。
「……ねぇ、開けて?」
「寒イヨ……」
「コッチニオイデ……」
それは、精神汚染だ。
物理的に殺すのではなく、心を壊して結界を内側から解かせるための、執拗な囁き。
「……カレン!」
ミナが叫ぼうとした口を、俺は手で塞いだ。
「大声を出すな。影が集まってくるぞ」
俺は視線で中を示した。
倒れている冒険者の一人、栗色の髪をした少女がカレンだろう。
彼女の足は不自然な方向に曲がっており、包帯からは黒い血が滲んでいる。
だが、一番危険なのは怪我じゃない。
彼女の腕。
そこが、すでに「黒く」変色し始めていた。
壊死ではない。
影と同化しかけているのだ。
「……手遅れ一歩手前だな」
俺はポーチから『銀粉スプレー』と『ニンニクアンプル』を取り出した。
「マシロ。あそこの影どもを剥がせるか?」
「やってみる。でも、あの子たち……もう精神が限界よ。私が干渉したショックで、魂が砕けちゃうかもしれない」
「優しく、かつ迅速にだ。お前の得意分野だろ? 部屋の埃を払うみたいにな」
俺はニヤリと笑ってみせたが、内心は冷や汗ものだった。
同化が進んだ人間を引き剥がすのは、癒着したガーゼを傷口から剥がすより難しい。失敗すれば、彼らは影の一部になって永遠にここを彷徨うことになる。
「ミナ。お前は声をかけ続けろ。あいつらの名前を呼んで、こっち側(生者)の世界に繋ぎ止めろ」
「は、はい……!」
「行くぞ。……強制退去の時間だ」
俺はデッキブラシを構え、影たちの群がる瓦礫へと踏み込んだ。
音のない世界。
そこで俺たちの「掃除」が、静かに、しかし激しく幕を開けた。




