第126話 全裸を懸けた聖戦に、乙女のハンマーが火を噴く
ポンッ、ポンッ、ポンッ!!
B60F『関所エリア』の澱んだ、酸素より瘴気の方が多いのではないかと錯覚するほど重苦しい空気を切り裂いて、気の抜けたような、しかし確かな殺意と狂気を孕んだ破裂音が三連続で鳴り響いた。
違法建築と悪趣味の極み、ダンジョンの景観保護条例を木っ端微塵に粉砕して建造された『紅蓮騎士団・第4層域前哨要塞』の極彩色の城壁から、無数の砲門が火を噴いたのだ。
俺の主観時間が、コンマ一秒の世界で完全に凍結する。
網膜が捉え、脳の視覚野が処理を開始したその映像は、常識を根底から覆すものだった。
黒煙を引いて飛来する、重量感のある鉄の砲弾。……ではない。
空中で空気抵抗を受け、プルプルと、いっそ卑猥なほどに不気味に波打つ、ドロドロの巨大な緑色のゼリー状物体。
大砲の筒から射出されたのは、火薬と鉄ではなく、悪意と執念と変態性を煮詰めた『特殊粘着スライム』の塊だった。
それが、美しい放物線を描いて俺たちの足元――アイアン・マザー号のフロントガラスの数メートル手前の地面へと着弾する。
ベチャァァァァァァァァァッ!!
極限まで引き伸ばされたスローモーションの視界の中で、緑色の粘液が弾け飛び、四方八方へと王冠のように散乱する。
その飛沫の一滴が、地面に生えていたダンジョン固有の夜光草と、不法投棄されていた誰かのボロ布の切れ端に、文字通り「同時」に降り注いだ。
直後、俺の脳内(CPU)が、その眼球の前で引き起こされた「異常な化学反応」を処理しきれずに、大音量の警鐘を鳴らし始めた。
夜光草は、何事もなかったかのように青白い光を放ち続けている。葉の一枚たりとも変色していない。ただの緑の液体を被っただけだ。
だが、その隣のボロ布だけが。
――ジュワァァァァァァァァッ!!
まるで、赤熱した鉄板の上に極薄の霜降り肉を落としたかのように、あるいはエイリアンの強酸性の血液を浴びた宇宙船の床板のように、悲鳴のような溶解音を上げてドロドロに融解し、一瞬にして黄色い有毒ガスを噴き上げて完全に消滅したのだ。
「……ウソだろ」
俺の喉が、極度の緊張と呆れ、そして理解を拒む現実によってカラカラに干からびる。唾液腺が砂漠化した。
俺の横で、白衣の闇医者ヤクモが、顔面を土気色に染め、瞳孔を限界まで収縮させて叫んだ。彼の声帯は恐怖で完全に裏返っていた。
「お、恐るべき執念だ……! いや、もはや狂気の沙汰だ! あれはただの酸性スライムではない。有機物である植物や肉体、あるいは無機物である金属や石には一切反応せず、人工的な『衣類の繊維』だけをピンポイントで分解・融解するように、分子レベルで極限まで成分調整された、超特化型の変異体だ! 食らえば物理的ダメージはゼロだが、コンマ五秒で布地を原子レベルに分解され、一瞬にして全裸にひん剥かれ、社会的に完全に死ぬぞォォォッ!!」
「んなアホなもん開発する暇と予算があったら、普通に物理で爆発する大砲作れよォォォッ!!」
俺の魂の底からのツッコミが、B60Fのネオン街(違法)に木霊した。
思考が、マッハの速度で脱線していく。
衣類だけを溶かすスライム? なんだその深夜のB級ファンタジーアニメの、三話目あたりでヒロインの服を溶かすためだけに都合よく登場する、薄い本みたいな設定のモンスターは。それを、このダンジョンの深層で、男ばかりのむさ苦しい紅蓮騎士団が、血の滲むような努力と、国家予算レベルの莫大な軍資金を注ぎ込んで開発したというのか?
狂っている。目的と手段のベクトルが完全にバグり散らかしている。
俺の脳裏に、昔、休日の深夜にカップラーメンを啜りながら見ていたお色気アニメのワンシーンが走馬灯のようにフラッシュバックする。ヒロインの悲鳴。溶ける布地。謎の光による自主規制。……いや、待て。今俺が直面しているのは、可愛いヒロインのハプニングではない。金メッキの鎧を着た三十路すぎの変態のおっさん(ガレス)による、完全なるセクハラ(物理)の脅威である。
こんなところで、こんな理由で社会的に殺されてたまるか! これ、小説家になろうの規約に引っかかってBANされる案件じゃないか!? 尺稼ぎのメタ発言をしてる場合じゃねぇ!
ヒュルルルルルッ……!
頭上から、空気を裂く風切り音。第二陣の粘着スライム砲弾が、今度は俺の脳天をピンポイントで狙って、巨大な緑色の雨粒となって降ってきた。
避けるのは容易い。俺の運動神経なら、あんなゼリーの塊、鼻歌交じりのムーンウォークで躱せる。
「おっと」
俺が、右手に握ったテツコ特製『仮初めの杖(激重のデッキブラシ)』を軽く構え、ステップを踏もうと足首の筋肉を収縮させた、まさにそのコンマ数秒の隙間だった。
「「「ボスの尊厳(と服)は、私たちが死守するゥゥゥゥゥゥッ!!」」」
鼓膜を物理的に破壊し、三半規管を揺るがすほどの絶叫と共に、俺の背後から三つの影が、ライフル弾のような速度で飛び出してきた。
爆弾魔のツムギ、ハッカーのネオン、そして白銀の騎士レオ。
彼らの眼球は毛細血管が破裂せんばかりに完全に血走り、全身の筋肉は「絶対防衛」という一つの目的のために限界までパンプアップしていた。心臓のBPMは200を超えているだろう。
これが、余命半年の俺を徹底的に過保護に扱うための作戦、すなわち『プランB(ボスの戦闘回避と接待)』の、致命的なまでの過剰作動である。
「食らいなさい! 対戦車用・対消滅爆薬『ハルマゲドン・キッス』ぅぅぅッ!!」
「軍事衛星レーダー照準、リンク完了。対象、緑色の変態ゼリー。高出力軌道レーザー、照射ァッ!」
「我が主の聖なる衣に、泥を塗る痴れ者どもに、神の裁きを! 聖剣『エクスカリバー』、リミッター全解除ォォォォッ!!」
――カッ!!
時間が、本当に停止した。
俺の視界が、色という概念を完全に喪失し、純白の閃光によって完璧にホワイトアウトする。
ツムギが投げつけた、普段ならボスクラスの巨大竜の巣を山ごと丸ごと消し飛ばすレベルの、特大の質量破壊爆薬。
ネオンがハッキングで宇宙空間から呼び寄せた、地殻を貫通しマントルまで到達する極太の熱線光柱。
そしてレオが、命を削る勢いで振り下ろした、地形そのものを書き換えるレベルの聖剣の超絶光波(物理)。
その三つの、『魔王討伐クラスの過剰火力』が。
ただの、「服を溶かすだけのゼリー」一個に向かって。
コンマ一ミリの狂いもなく、一点集中で叩き込まれたのだ。
ズドゴォォォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!!!
B60Fの空間そのものが、断末魔の悲鳴を上げた。
空気の層が圧縮され、猛烈な爆風がハリケーンとなって巻き起こり、周囲の違法伐採された切り株が根本から引っこ抜かれて宙を舞う。
俺は強風に煽られ、思わず左手で顔を覆い、前かがみになってその衝撃に耐えた。
鼓膜がキーンと鳴り続け、世界から音が消える。
永遠とも思える破壊の嵐が過ぎ去り、閃光が収まり、もうもうと立ち込める土煙が晴れた後。
そこには、スライム砲弾はおろか、それが発射された『城壁の右半分』が、極彩色のネオン管の装飾ごと、文字通り「原子レベルで跡形もなく蒸発」して、なだらかな巨大なクレーターに変わっていた。
「……やりすぎだろ、お前ら」
俺が呆然と呟くと、ツムギたちは肩で激しく息をしながら、親指を立てて満面のドヤ顔を向けてきた。いや、ドヤ顔してる場合じゃない。作画カロリーの無駄遣いにも程がある。地球が危ない。
「えっ? ……えっ?」
城壁の生き残った左半分の塔の上で、ガレスが手から拡声器をポロリと落とし、完全にドン引きした表情で彫像のように固まっていた。
彼の金メッキの鎧が、爆発の余波で少し煤けている。
「ち、ちょっと待って……なんで? 俺、ただお前らの服を溶かして、羞恥心で泣かせようとしただけなのに……なんでそんな、大陸が一つ滅ぶレベルのガチの殺意向けてくんの!? ギャグのテンションにシリアスな超火力で返してくるの、ジャンル的にルール違反じゃね!?」
ガレスの至極真っ当な(?)抗議が響き渡る。
無理もない。仕掛けた本人が一番ビビっている。彼の中では、ここは「お色気ドタバタハプニング」のラブコメ的ステージだったはずが、一瞬にして「最終決戦の焦土」へと変貌してしまったのだから。
彼の心の中のストップウォッチは、完全に壊れてしまったに違いない。
だが、俺たちの側の「理不尽」は、これだけでは終わらなかった。
「……ちょっと、どきなさいよ」
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
大地を直接叩き割るような、地鳴りのような重い足音と共に、アイアン・マザー号のピンク色の後部居住区(痛車部分)から、一つの巨大な影が姿を現した。
鋼テツコ。
身長190センチの筋肉ダルマの乙女は、身の丈ほどもある巨大な黒鋼のハンマーを引きずりながら、ゆっくりと最前線へと歩み出てきた。
だが、その顔面を覆う真っ黒な溶接マスクの奥から放たれるオーラは、先ほどまでの「恋する乙女」のピンク色のそれとは、決定的に異なっていた。
絶対零度の怒り。あるいは、灼熱の溶鉱炉の底の温度。
テツコの目は、城壁の上で震えているガレスの着ている、『黄金の重鎧』に完全に釘付けになっていた。
「……なにあれ」
地を這うような、重低音のバリトンボイス。
その声は、空気中の水分を凍らせるほどの冷気を帯びていた。
「強度の計算も、重心のバランスも、関節の可動域の確保も完全に無視して……ただ表面に、見栄えだけのために分厚く金メッキを塗りたくっただけの……『見栄っぱりのゴミ』じゃない……!」
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
テツコの巨体から、視覚化されそうなほどのどす黒い「職人の怒り」が陽炎のように立ち上る。
周囲の空気が、急激に熱を帯びていく。
彼女は、鍛冶師だ。鉄の命を削り、形を与え、魂を吹き込むプロフェッショナル。その彼女の目から見て、ガレスの成金趣味の金メッキ鎧は、鉄という素材に対する極限の冒涜以外の何物でもなかったのだ。
「鉄が泣いてる……あんな、ロマンの欠片もない金属に閉じ込められて……! アタシが、アタシが叩き直してやるわァァァァッ!!」
ダァァァァァァァンッ!!
テツコが大地を蹴り飛ばした。
その巨体が、物理法則と空気抵抗を完全に無視した超音速で、砲火の嵐を潜り抜け、単身で残された無傷の城門へと一直線に突撃する。
迎撃しようと慌てて銃口を向ける騎士団員たち。
だが、遅い。彼らの指が引き金に触れる前に、ピンク色の彗星が到達する。
「乙女の(職人の)純情、舐めんじゃないわよォォォッ!!」
テツコの極太の腕に血管がバキバキと浮き上がり、巨大なハンマーが、台風のような風圧を伴って城門に直撃した。
――メシャアァァァァァァァァンッ!!!
耳を塞ぎたくなるような、すさまじい金属の破砕音。
厚さ数十センチ、魔力コーティングまで施されていたはずの要塞の巨大な鉄の扉が、まるで湿った段ボールかティッシュペーパーのように、一撃でグシャグシャにひしゃげ、内側へと吹き飛ばされた。
蝶番が千切れ飛び、門の向こう側にいた騎士たちが、悲鳴を上げる暇もなくボウリングのピンのように空を舞う。
圧倒的な筋力と、質量の暴力。
「ヒィィィィッ!? なんだあの筋肉ダルマの女ァァァ!?」
ガレスが腰を抜かし、黄金の鎧をガチャガチャと鳴らしながら、無様に後ずさる。
仲間たちの過剰火力と、テツコの理不尽なまでの暴威。
たった一分足らずで、30億円の予算を投じた要塞は、完全に半壊状態に陥っていた。
だが。俺は「親父」だ。
子供たちや、押しかけ女房(仮)にばかり、良い格好をさせておくわけにはいかない。
俺がここで引けば、彼らの過保護な「プランB」がさらに加速し、俺の居場所はただの介護ベッドになってしまう。
「……チッ。派手に散らかしやがって。後の掃除の身にもなれってんだ」
俺は、微かにひび割れた唇に不敵な笑みを浮かべ、右手に握った『仮初めの杖』を肩から下ろした。
そして、崩れかけた城壁の残骸、その奥でまだ稼働しようとしている砲台施設に向けて、ゆっくりと歩み出る。
「俺の服を溶かしたきゃ、この『未練』ごと溶かしてみろ」
俺は深く息を吸い込み、自身の奥底に眠る『死者の共鳴』のバルブを、一気に解放した。
ズォォォォォォォッ!!
黒い、泥のような高密度の魔力が、俺の右手からデッキブラシの柄へと流れ込む。
これまでは、この出力に耐えきれず、柄がミシミシと悲鳴を上げていた。だが、今は違う。テツコが幾重にも施した黒鋼のコーティングが、俺の致死量の呪いを完全に包み込み、先端のブラシ部分へとロスなく伝導していく。
「消し飛べ」
俺は、極限まで圧縮された漆黒の刃を、無造作に一閃した。
――ズバアァァァァァァァンッ!!
音もなく、空間そのものが黒く塗り潰された。
放たれた漆黒の斬撃は、一直線に要塞の心臓部へと走り抜け、砲台施設と、その後ろの城壁ごと、斜めに真っ二つに両断した。
ズレる要塞。そして、数秒の遅れを伴って、大音響と共に崩落していく石と鉄の残骸。
「……へぇ」
俺は、砂煙の中でデッキブラシを軽く振り下ろした。
「悪くねぇじゃねぇか。このハンデ(体)でも、これだけスムーズに出力できるとはな」
俺が、テツコの仕事の完璧さに口角を上げた、その直後だった。
――チクタク、チクタク、チーンッ!!
俺の脳内で、常時鳴り続けている『ガードナーの懐中時計』の秒針が、突如としてBPM180の限界値を振り切り、狂ったような不協和音を奏で始めた。
心象風景の世界が、一瞬にして赤黒いノイズに支配される。周囲の音、ガレスの悲鳴、崩れる城壁の轟音、すべてが遠のき、静寂が訪れる。
俺の視界の中で、自分の右腕の皮膚が透け、その下を通る無数の神経の束が、工業用バーナーで直接炙られたように、ドロドロに溶け落ちていく光景が鮮明にフラッシュバックする。
五感の過剰インストール。
かつて引越し屋のバイトで冷蔵庫を持ち上げた時に味わった、あのぎっくり腰の地獄のような痛みを百倍に濃縮し、直接脳髄に注射器で打ち込まれたような、圧倒的な破滅の感覚。
ビキィィィィィッ!! ガタガタガタガタッ!!
俺の右手が、本人の意思とは無関係に、肘の関節から先がちぎれ飛ぶのではないかという勢いで激しく痙攣し始めた。
魔力を通した代償。
テツコの武器は完璧だった。だが、俺自身の肉体が、その呪いの出力に耐えきれず、細胞レベルで崩壊を起こしたのだ。
痛覚はない。だからこそ、腕が自分のものではない「別の生き物」に変わってしまったかのような、生理的な恐怖と嫌悪感が、胃液を逆流させる。心臓が不整脈を打ち、喉の奥が張り付く。
「……ッ」
俺は奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、痛覚がないため顔の筋肉は微塵も動かさず、完璧なポーカーフェイスを維持した。
そして、痙攣して言うことを聞かない右手を、誰にも悟られない速度で、力づくでズボンのポケットの奥深くへとねじ込んだ。
冷や汗が、背筋を滝のように流れ落ちる。
バレてはいけない。仲間たちに。この限界の兆候を。
「……派手な花火はこれで終わりだ。さっさと奥の掃除を終わらせるぞ」
俺は、強張る喉の奥から無理やり平坦な声を絞り出し、左手一本で重いデッキブラシを肩に担ぎ直した。
崩壊していく要塞の瓦礫を踏み越え、俺はガレスの待つ本丸へと歩みを進める。
ポケットの中で、俺の右手は、破滅のカウントダウンを刻むように、まだ無様に震え続けていた。




