第122話 恋する乙女のメジャーは、物理的にも精神的にも距離感がバグっている
視神経が、完全に職務放棄を申請していた。
脳内の処理能力(CPU)は使用率100%を振り切り、冷却ファンが悲鳴を上げているような幻聴すら聞こえる。
ここは、ダンジョンB51F『常闇の樹海』の最深部にそびえ立つ、不法投棄された鉄クズの山の頂上。
そこにポツンと建つトタン屋根のバラック小屋――『Sweet Atelier♡(すうぃ〜と・あとりえ)』の内部である。
外装が目に痛いほどのパステルピンクであった時点で、俺の生存本能は最大級の警鐘を鳴らしていた。だが、内装はその警鐘をハンマーで粉砕し、鼓膜に直接「絶望」という名のヘヴィメタルを大音量で流し込んでくるレベルの狂気を極めていた。
まず、視覚情報がバグっている。
壁紙は、吐き気を催すほどに甘ったるいイチゴ柄。よく見ると、赤い塗料ではなく、何らかの工業用防錆剤を自作のステンシルで無理やりイチゴの形に押し付けたものだ。
天井からは、キラキラと輝くファンシーなシャンデリアが吊るされているが、その光源は大量の車のヘッドライトとバイクのウインカーを強引に結線した集合体である。チカチカと不規則に点滅するオレンジ色の光が、俺の三半規管を確実に削りにきている。
部屋の四隅には、純白のフリル付きクッションが雪山のように積まれた巨大な天蓋付きベッドが鎮座しているが、その土台はどう見ても重機のキャタピラだった。
そして、そのメルヘンと産業廃棄物がミキサーにかけられたカオス空間のド真ん中に。
赤黒い炎を轟々と上げるガチの『工業用溶鉱炉』と、長年の酷使で血の匂いすら染み付いた、黒光りする巨大な『金床』が鎮座しているのだ。
ピンクと重機。フリルと鉄粉。ベビーパウダーの香りと重油の悪臭。
相反する二つの概念が、強大な暴力によって無理やり一つの空間に結合させられている。まるで、少女漫画の背景に「北斗の拳」のモヒカンが全裸で描き込まれているような、脳が理解を拒むバグ。
「んん〜〜〜っ♡ アナタのこの広背筋、たまらないわぁ……ッ! 硬くて、でもしなやかで……まるで百回打ち直した最高級のダマスカス鋼みたい……♡」
だが、今の俺にとって、部屋の狂ったインテリアなど、吹いて飛ぶような些事だった。
俺、黒鉄ジン。現在、上半身全裸。
拉致されて数分後、抵抗する間もなく、俺をグルグル巻きにしていた引越し用プチプチの分厚い層が、素手で「紙風船を割るように」引き裂かれた。そればかりか、俺が着ていた労働者の魂とも言える作業用シャツまで、「採寸の邪魔だから♡」という物理法則を無視した理不尽な理由で、縦に真っ二つに引き裂かれた結果である。
現在、俺の背中を、巨大なコンクリートブロックのような掌が、ねっとりと、まるでナメクジが這うような粘着質で撫で回していた。
「お、おい、採寸って……メジャー使えよ! なんで素手で測ってんだよ! しかもさっきから撫で回してるだけで一向にサイズを測る気配がねぇじゃねぇか!」
「やぁだぁ♡ テツコの『指先』はね、0.1ミリの狂いもなく対象の寸法を弾き出せる、魔法のハイテク・メジャーなのよぉ? ほぅら、大胸筋の張りもチェックしなきゃ……こねこね♡」
身長190センチ、推定体重100キロ超えの筋肉ダルマ(顔面は真っ黒な溶接マスク着用)が、丸太のような太い指先で俺の胸板を揉みしだく。
――ゾワァァァァァッ!!
その瞬間、俺の主観時間はコンマ一秒の世界で完全に凍結した。
時間が止まる。
俺は『死者の共鳴』という能力の代償により、すでに全身の痛覚をほぼ喪失している。刃物で刺されようが、炎で焼かれようが、本来なら顔色一つ変えないはずの肉体だ。
だが、この瞬間だけは違った。
細胞という細胞が、遺伝子レベルで警報を鳴り響かせている。物理的な痛みは一切ない。だが、精神的なダメージが、光の速さで致死量に達しようとしていた。
なんだこの触覚のバグは。
背中から胸へ、太い指が移動するたびに、俺の心臓は不整脈を起こし、喉の奥がカラカラに干からびていく。呼吸の仕方を忘れた肺が痙攣し、全身の毛穴から、生命の危機を知らせる冷や汗が一斉に噴き出した。
(……あ、これ、死ぬな)
極限状態に陥った俺の脳内(CPU)が、この耐え難い現実から逃避するため、勝手に思考を明後日の方向へと脱線させ始める。
いわゆる、走馬灯の強制起動だ。
思い出すのは、小学生の頃に受けたインフルエンザの予防接種。あの時の保健室の先生、注射が下手くそで無茶苦茶痛かったな。いや、待てよ。二十歳の時に引越し屋のバイトで冷蔵庫を持ち上げた時にやった『ぎっくり腰』。あれも地獄だった。息をするだけで腰椎に雷が落ちたような痛みが走って、三日間トイレに行けなかった。……そうだ、あの時の痛みに似ている! この精神的ダメージは、ぎっくり腰の再発だ!
……ていうか、俺はなんでこんな走馬灯を見ているんだ? ぎっくり腰関係ねぇだろ! そもそも今日の夕飯、マシロが「モヤシの卵炒め」にするって言ってたけど、俺は味覚がないから食感しか楽しめないんだよな。いや、そんなことどうでもいい! 尺稼ぎの内的独白長すぎだろ! 第四の壁を越えて読者がブラウザバックする音が聞こえるぞ!
「ちょっ、待て! お前、何しようとしてるッ!」
思考の海から現実へと引き戻された俺の視界の中で、再び時間が極限まで引き伸ばされた。スローモーションの世界。
背後に回ったテツコが、俺の背中――第4巻での『死者の共鳴』の暴走により、広範囲で炭化し、醜く焼け焦げた皮膚の跡――に、その巨顔をゆっくりと、隕石の落下のような絶望的な軌道で近づけてきたのだ。
カシャッ、と。
真っ黒な溶接マスクが上にスライドする。
その奥から現れたのは、極彩色の口紅が分厚く塗りたくられた、暴力的なまでのタラコ唇。それが、俺の背中の傷跡に向かって、ピンポイントで降下してくる。
「なんて痛々しい火傷跡……でも、テツコには分かるわ。これはアナタが、愛する人たちを守るために背負った、美しくて悲しい名誉の負傷なのね……偉いぞぉ……チュッ♡」
チュッ、じゃねぇぇぇぇぇ!!
「やめろォォォ!! 物理的な痛みはねぇが、精神的ダメージが限界突破して俺の魂が粉砕骨折するわ!! 俺の背中の傷はそんなロマンチックなもんじゃねぇ! ただの自業自得だ! 離れろ! 俺のパーソナルスペースから光年単位で離れろ!!」
俺は必死に身をよじり、テツコの顔面(凶器)から逃れようと暴れた。
だが、背後から羽交い絞めにされた丸太のような腕の力は、トラックのウインチ並みでピクリとも動かない。
その時だ。
――バンッ! バンッ! バンッ! バンッ! バンッ!
突然、背後の壁から、無数の亡者が這い上がってきて窓を叩くような、ホラー映画さながらのくぐもった破裂音が連続して響き渡った。
俺が首だけを捻って振り返ると、そこには目を疑う光景があった。
ピンク色のフリルカーテン越しに見える、分厚い窓ガラス(なぜか車のフロントガラスの流用)。
そこに、マシロとヤクモの顔が、まるで水族館の水槽に張り付くプレコ、あるいはゾンビ映画で生存者の籠城先に群がる感染者のように、鼻をひしゃげさせてべったりと押し付けられていたのだ。
『ボ、ボスゥゥゥ! ダメェェ! その巨女に押し倒されたら、今のボスの脆い骨格じゃ、腰椎が粉砕骨折して一生車椅子生活になっちゃうぅぅ! アタシたちのプランBがぁぁ!』
『ジン! 私のポルターガイストで窓を粉砕します! 破片ごと窓から飛んで逃げてください! 受け身は取らなくていいです、私が空中でキャッチしますから!!』
分厚い防音ガラスのせいで、二人の声は一切聞こえない。完全な無音。
しかし、ガラスに押し付けられて歪んだ顔の筋肉の動きと、血走った眼球の震え、そして完璧な読唇術によって、その過保護すぎる大パニックのセリフは、痛いほど俺の脳内に直接ダウンロードされていた。
おい、お前ら。助けに来るなら堂々とドアを蹴破って中に入れ。なんで窓の外で実況解説席に座ってんだ。俺の腰椎を心配する前に、俺の貞操と精神衛生の完全な死を心配しろ。お前らのせいで、この状況が完全に「一歩間違えればR指定のスプラッタ・コメディ」になってるじゃねぇか。
「あぁん♡ 外の虫(お仲間)たちがうるさいわねぇ。もうちょっと、二人きりのドロドロに甘ぁい時間を堪能したかったのにぃ……」
テツコが、心底残念そうに、そして少女のように頬を膨らませてため息を吐いた。
俺はその一瞬の隙を突き、死に物狂いで腕の拘束から抜け出すと、壁際まで無様に這って逃げた。自分の破れたシャツの残骸を胸に抱きしめながら、酸素を求めて金魚のように口をパクパクとさせる。
額からは冷や汗が滝のように流れ落ち、心臓の鼓動(BPM)は異常な数値を叩き出し、肺は千切れそうなほどに痛い。
「……た、頼む。もう許してくれ。金なら払う。だから、これ以上俺の尊厳を削るのはやめてくれ」
俺が本気で懇願した、その瞬間だった。
「……冗談はここまでよ。服、着なさいな」
――空気が、凍りついた。
いや、空間の質量そのものが、唐突に書き換えられたのだ。
先ほどまで部屋を満たしていた、甘ったるいベビーパウダーとピンク色の狂気がブレンドされたふざけた空気が、コンマ一秒で完全に霧散する。
代わりに部屋の四隅から湧き上がってきたのは、肌をチクチクと刺すような高密度の熱気と、鉄が焦げるような、血生臭くも鋭利な「職人」の匂いだった。
テツコの動きが変わる。
スローモーションで流れる時間の中、彼女はピンク色のフリルエプロンの紐を無造作に引きちぎり、その巨体から脱ぎ捨てた。
ドサッ、と。
ただの布切れが床に落ちただけのはずなのに、地響きのような重い音が脳髄を揺らす。
続けてテツコは、傍らのドラム缶の上に置かれていた分厚い『耐熱用の黒革エプロン』を身に纏い、先ほどまで上にスライドさせていた真っ黒な溶接マスクを、ガチャリと下ろした。
顔面が完全に暗闇のスリットに覆い隠される。
その立ち姿を見た瞬間、俺の肌が粟立った。
心象風景の中で、部屋の壁紙のイチゴ柄がドロドロと溶け落ち、すべてが赤錆色と黒のインクで塗り潰されていく。
そこにいるのは、ふざけた巨女の山賊ではない。恋する乙女でもない。
鉄の命を削り、形を与え、魂を吹き込む『一流の鍛冶師』の絶対的な気迫が、テツコの全身から陽炎のように立ち上っていた。
温度が跳ね上がる。気圧が急激に下がる。俺の生存本能が、目の前の生物を「変態」から「捕食者」へと認識を改め、全細胞に警戒レベルMAXの信号を発信する。
「……お前、」
俺が戸惑いの声を漏らすのを遮るように、テツコは作業台の上に置かれたジップロック――俺が持ち込んだ、5代目モップの残骸(ただの灰色の砂)――を、太い指でつまみ上げた。
「アナタの魔力……いや、あれは魔力なんていう、システム化された便利な代物じゃないわね。もっと重くて、ドロドロしてて、出口を求めて地獄の底で泣き叫んでいる『未練』の塊よ」
ビクッ。
俺の心臓が、先ほどのセクハラとは全く別の理由で大きく跳ねた。
無意識のマイクロジェスチャー。喉が急激に渇き、唾液を飲み込む音が、やけに巨大なノイズとなって鼓膜に響く。右手の指先が、微かに震え始める。
「アナタ、その『未練』っていう致死量の呪いを、無理やり物理エネルギーに変換して、ただの木切れや鉄パイプに流し込んでるでしょ? アホなの?」
テツコの言葉は、氷のように冷徹で、容赦がなかった。そして、俺の能力の核心を完璧に抉り出していた。
『死者の共鳴』。死者の念を触媒に流し込み、破壊力に変える俺の忌まわしい力。
「そんな使い方してたら、そりゃあ、ただの木や鉄じゃ耐えられるわけないわ。外側から壊れるんじゃない。内側から、細胞の隙間に呪いが入り込んで、材質そのものが腐って『砂』になるのよ。このゴミ(モップ)みたいにね」
ジップロックの中で、灰色の砂がサラサラと、死者の骨粉のような音を立てた。
俺は息を呑む。
この階層で初めて会ったばかりの、しかもつい数秒前まで俺の乳首をこねくり回していた変態が、俺の能力の代償を完全に言語化してのけたのだ。
「……アナタのその背中の炭化も、そう。武器が受け止めきれなかった呪いの『逆流』が、アナタ自身の肉体を焼き焦がしてる。……強がっても無駄よ。鉄の悲鳴を聞き分けるアタシの耳には、アナタの骨がミシミシと軋んで崩れ落ちる音が聞こえてる。……このままじゃ、あと半年も持たないわよ」
完全な静寂。
窓の外で騒いでいたマシロたちも、テツコの放った重すぎる言葉の弾丸に、水を打ったように静まり返っていた。
俺は、無意識のうちに右手で左腕を強く掴んでいた。
自分の命が削れていくスピード。余命半年という事実。それを、自分以外の他人の口から、しかも「材質の限界」という、完全に物理的で客観的な観点から突きつけられたことで、俺の神経の奥底が恐怖とは違う何かで微かに震えたのだ。
(……見抜かれた、か)
隠していたつもりだった。仲間たちにも、気丈に振る舞って。
だが、この鍛冶師の目は誤魔化せない。
「……へっ」
俺は、乾いた笑いを一つこぼし、破れたシャツを適当に羽織った。
「すげぇ眼力だな。ただのイカれた変態かと思ったら、とんだ名医(ヤブ医者よりマシな)がいたもんだ。お見それしたぜ」
「褒めても安くしないわよ。アタシは鉄の声は聞けるけど、人間の命までは直せないからね。アタシはただの鍛冶師。神様じゃない」
テツコは鼻で笑うと、背を向け、部屋の中央にある巨大な溶鉱炉に向かって歩き出した。
その足取りに、もはや内股の気配はない。大地を踏みしめ、重力を支配するような、重厚で確かな歩みだ。
――ゴォォォォォォォォッ!!!
テツコがバルブを捻った瞬間、炉の中に猛烈な勢いで赤黒い炎が吹き上がり、熱波が暴風となって部屋全体を暴力的に舐め回した。
一瞬にして俺の全身から汗が噴き出す。
網膜が焼けるような強烈な光の中で、テツコの巨体は、炎を操る古代の魔神のようだった。
「言っておくけど、今の私のアトリエ(ここ)にある手持ちの鉄クズじゃ、アナタのその『寿命の尽きるスピード(異常な出力)』に耐えうる、最後まで付き合える本気の武器は作れないわ。素材が圧倒的に追いつかない」
テツコは、巨大な火ばさみで、炉の中から真っ赤に熱せられた鉄の塊を引きずり出した。
そして、傍らの金床にそれを無造作に放り投げる。
「……でも」
テツコが、壁に立てかけられていた『身の丈ほどもある巨大なハンマー』を、片手で軽々と持ち上げた。
「とりあえず、この階層(B51F)を乗り切るための、『仮の杖』くらいなら。……その、みっともなくて悲しい覚悟に免じて、特別に打ってあげるわ」
テツコがハンマーを振りかぶる。
その構えは、あらゆる無駄が削ぎ落とされた、暴力的なまでに美しい軌道を描いていた。
筋肉の隆起、骨の軋み、重心の移動。そのすべてが、ただ「鉄を叩く」という一つの目的のためだけに最適化された、完成された職人の姿。
――カアァァァァァァァァンッ!!!
振り下ろされたハンマーが、赤熱した鉄を叩き潰す。
鼓膜を突き破るような爆音と、四方八方に飛び散る火花。
その火花のシャワーの中で、俺は自然と目を細めた。
痛覚のない俺の肌でさえ、その飛び散る火花の「熱さ」と、テツコの「本気」を感じ取っていた。
(……悪くねぇな)
俺は、震える右手をポケットの奥深くへと突っ込み、口元に微かな笑みを浮かべながら、その炎と鉄が織りなす圧倒的なダンスを静かに見つめ続けた。
ピンク色の悪夢は終わった。ここから先は、鉄と血の匂いが支配する、本当の戦いの準備だ。




