第121話:鉄クズの山で、筋肉ダルマはピンク色の夢を見るか?
漆黒。
ただ光が届かないという生易しいレベルではない。物理法則がバグを起こし、空間そのものが「黒」という重力を持って眼球を押し潰しにくるような、高密度の絶対暗黒。
ダンジョンB51F『常闇の樹海』。
この階層を満たしているのは、空気ではなく「底なし沼の泥」だ。いや、泥のほうがまだマシだ。泥にはミネラルがある。ここの大気は、液体窒素に漬け込んだ濡れタオルを顔面に押し付けられ、そのまま冷凍庫にブチ込まれたような、粘着質で暴力的なまでの冷気と瘴気のカクテルだった。
「……チッ。どこの悪徳業者が、こんなところに粗大ゴミ捨てやがった」
装甲車『アイアン・マザー号』の運転席から降り立った俺――黒鉄ジンは、ひび割れた唇から苛立ちの溜息を吐き出した。
吐き出した息は白くなる間もなく、周囲の闇に食い殺される。
俺の視界、すなわちヘッドライトが必死に切り裂いているわずかな光の先には、樹齢数百年はあろうかという巨大な倒木が、ルートを完全に塞ぐ形で横たわっていた。
炭化し、どす黒く変色したその木肌は、まるで巨大な竜の死骸のようだ。キャタピラで無理やり轢き潰せば、こちらのサスペンションが先にイカれるだろう。
「ジン、私が念動力でどかしましょうか?」
助手席の窓から、幽霊のマシロがひょっこりと顔を出した。その青白い発光体すら、この瘴気の中では豆電球のように頼りない。
「いや、いい。お前はさっきの戦闘で魔力使いすぎただろ。これくらい、俺がパパッと片付けて……」
言葉と同時に、俺は背中のホルダーから愛用の武器――『5代目モップ』を引き抜く。
ごく普通の、ホームセンターの清掃用品コーナーで1,980円(税別)で売られている業務用モップ。
だが、この時。
俺の脳髄の奥底で、何かが「警鐘」を鳴らしていた。
チクタク、チクタク。
胸元に提げた『ガードナーの懐中時計』の秒針の音が、鼓膜の裏側でやけに大きく響く。
右手のひらに、わずかな、しかし確かな「痺れ」が走った。痛覚はない。だが、皮膚の下で神経の束が焼け焦げ、ミクロの単位で断線していくような、生理的な嫌悪感。
俺の能力、『死者の共鳴』。
それは、武器という触媒を通して死者の未練(魔力)を物理的な破壊力に変換する呪い。だが、前階層での連戦と、余命半年を切った俺の肉体の崩壊が、すでに限界値を突破していた。
俺は、無意識のうちに奥歯を噛み締め、その「痺れ」を力でねじ伏せるようにモップの柄を握り直した。
「ま、ただの木材相手なら余裕だろ。ふっ!」
右腕の筋肉が収縮する。
広背筋から三角筋、そして前腕へと運動エネルギーが伝達され、モップが空気を切り裂いて倒木へと振り下ろされる。
本来なら。
ここでモップの先端に圧縮された黒い魔力が炸裂し、音速を超えた衝撃波が倒木を木っ端微塵に粉砕するはずだった。
――パキィン。
その瞬間。
俺の主観時間は、コンマ数秒の世界で完全に凍結した。
甲高い、まるで薄氷を針の先で突いたような、致命的に儚い破裂音。
スローモーションで進行する視界の中で、俺の手を離れたモップの柄の中央に、ミリ単位の亀裂が走るのが見えた。
亀裂は蜘蛛の巣のように瞬く間に広がり、木製の繊維が内側から膨張し、限界を迎える。
それは、過剰な魔力負荷に物理的な材質が耐えきれなくなった瞬間だった。
(……あ、これ、やばいな)
時間が止結した世界で、俺の脳内だけがフル回転を始める。
『どうでもいいこと』への思考の脱線。いわゆる走馬灯というやつだ。
思い出すのは、この5代目モップを買った日のこと。特売日で、ポイントが2倍だった。レジのおばちゃんが「お掃除ご苦労様ねぇ」と飴ちゃんをくれた。あの飴、まだ車のダッシュボードに入ったままだ。溶けてベタベタになってるだろうな。捨てなきゃ。ていうか、なんで俺はこんな極限状態で飴ちゃんの心配をしてるんだ? 現実逃避乙。尺稼ぎの回想シーン入れてる場合じゃねぇ! 武器が! 俺の1,980円が!!
ザザザザァァァァ……ッ!!
凍結していた時間が一気に動き出す。
折れた断面から、モップ全体が灰色の粒子となって、まるで砂時計の砂が落ちるように崩壊し始めた。
指の間からサラサラと零れ落ちる、かつて武器だったものの削りカス。
時間にして、わずか三秒。
俺の右手には、空気を握りしめた虚無だけが残された。
「…………」
「…………」
俺とマシロは、暗闇に溶けていくモップの灰を、ただ無言で見つめた。
丸腰。
清掃員から清掃用具を奪ったら、ただの中年一歩手前のフリーターである。
「あ」
俺が間抜けな声を漏らした、そのコンマ一秒後。
「緊急事態!! ボスの武器がロストしたわ!! 前衛能力ゼロ! 繰り返す、ボスの戦闘力は現在ミジンコ以下よッ!!」
装甲車のルーフハッチを蹴り開け、ハッカーのネオンがメガホン片手に鼓膜を破壊する音量で絶叫した。
その声は、眠れる獅子(過保護なバカども)を叩き起こす最悪の目覚まし時計だった。
「プランB・緊急防衛フェーズへ移行ッ!! ボスを無菌室(絶対防衛ライン)へ隔離しろォォォッ!!」
血走った目をした爆弾魔のツムギが、後部座席のドアを吹き飛ばす勢いで飛び出してきた。
その手には、なぜか大量の「引越し用プチプチ(緩衝材のロール巻)」が握られている。
「ちょ、お前ら何す……ぶぐッ!?」
反論する間などなかった。
俺の視界が、透明なビニールの気泡で覆いつくされる。
ツムギが俺の周囲を高速回転しながら、プチプチを何重にも、何十重にも巻き付けていく。
プチプチプチプチプチッ!
気泡が弾ける無数の破裂音が耳元で狂い鳴く。俺はミノムシのごとく全身を拘束され、視界は歪んだビニール越しの乱反射でモザイク状態だ。
「丸腰のボスを外気に触れさせるなど言語道断! B51Fの破傷風菌は致死率1000%だ! はい、抗生物質と痛み止め注射を三本打っておくぞ!」
白衣を翻した闇医者のヤクモが、どこから取り出したのか、馬用の巨大なシリンジ(注射器)を片手に迫ってくる。
「痛覚ねぇっつってんだろヤブ医者! っていうかプチプチの上から注射針刺すな! 分厚すぎて皮膚まで届いてねぇよ! なんで俺の周りだけスプラッタ・コメディのノリなんだよ!」
「我が主! 私の聖剣『エクスカリバー』をお使いください! さあ、この柄を! 遠慮なく!」
「眩しすぎるんだよお前の剣は! 夜道でそんなピカピカ光るもん振り回したら、光に集まる蛾が無限湧きするだろ! 俺を虫取りアミ代わりにする気か!」
ミシュランマン状態の俺は、プチプチの拘束の中で芋虫のように身をよじりながら怒鳴り散らした。
息苦しい。ビニールの密閉空間で自分の吐息が熱となり、汗腺という汗腺から冷や汗が吹き出す。
だが、この過剰なまでのドタバタ劇の裏で、俺は彼らの必死さを理解していた。
「ジン、強がらないでください。あなたの能力(死者の共鳴)は、触媒となる武器がないと、自身の肉体へのフィードバック(ダメージ)がダイレクトに跳ね上がるじゃないですか」
マシロが、俺の強がりを冷酷な正論で切り捨ててくる。
図星だ。
さっきの「痺れ」。もしモップという逃げ道なしに俺が直接魔力をブッ放していれば、モップの代わりに俺の右腕が砂になって崩れ落ちていたかもしれない。
俺の肉体は、すでにそれほど限界に近付いている。
「……チッ。分かったよ。とりあえず、代わりの武器を調達するのが先決だな。ネオン、この辺りに武器屋なんてねぇよな?」
「待って。周辺の地形データをスキャンする……あった。前方3キロの地点に、巨大な『金属反応の密集地帯』があるわ。ただ……」
「ただ?」
「データベースには存在しない、未登録の建造物みたい。気をつけて、ボス」
プチプチ巻きのまま助手席に押し込まれ(シートベルトが閉まらなくてツムギが泣きそうになっていた)、俺たちはネオンのナビを頼りに森の奥へと進んだ。
やがて、ヘッドライトが木々を抜け、ぽっかりと開けた空間を照らし出した。
「なんだここは……夢の島か?」
そこに広がっていたのは、深い森の景観を完全に破壊する、暴力的なまでの「不法投棄の山」だった。
赤錆びた廃車、扉の外れた冷蔵庫、折れた剣、ひしゃげた甲冑、そして用途不明の歯車群。
何十年、何百年という時間をかけて積み上げられたであろう、鉄クズの墓場。
むせ返るような酸化鉄の匂いと、誰にも使われなくなったモノたちの忘れ去られた夢の残骸が、巨大な山脈を形成している。
だが、俺たちの脳の処理能力(CPU)をバグらせたのは、そのゴミの山自体ではなかった。
鉄クズの山の、頂上。
周囲の絶望的でダークなファンタジー感を、根本からへし折るような異物がそこに建っていた。
トタン屋根の、バラック小屋。
それ自体はいい。スラム街にはよくある風景だ。
だが問題は、その小屋が『目に痛いほどのパステルピンク』に全面塗装されていることだ。
窓にはヒラヒラとした白いフリルのレースカーテン。
煙突からは、なぜかハート型の煙(どういう流体力学だ?)がポッポッと規則正しく上がっている。
極めつけは、ドアに掛けられた木製の看板。
そこには、丸文字の狂気じみたファンシー・フォントでこう書かれていた。
――『Sweet Atelier♡(すうぃ〜と・あとりえ)』
「…………」
「…………」
装甲車から降りた俺たち全員の主観時間が、再び停止した。
何かの幻覚か? B51Fの瘴気による集団精神異常か?
こんな、原宿のクレープ屋がバイオハザードの世界に迷い込んで増築を繰り返したような狂気、常人には生み出せない。
「と、とりあえず、武器の修理か調達ができればいいんです! アトリエって書いてあるくらいですから、鍛冶屋さんかもしれませんよ!」
マシロが震える声で、無理やりポジティブな解釈をひねり出す。
俺はプチプチのまま、タイヤを積んだだけの不安定な階段を登り、ピンク色のドアの前に立った。
心臓が嫌なリズムを刻んでいる。未知の恐怖に対する防衛本能だ。
コンコン。
「すんませーん。武器の修理、頼めるか……」
ドバァァァァァァァンッ!!
ノックした俺の指関節が離れるより早く。
ピンク色のドアが、内側からのすさまじい爆発的圧力によって、蝶番ごと弾け飛んだ。
俺の視界の中で、再び時間が極限まで引き伸ばされる。
吹き飛ぶ木片の軌道。宙を舞うピンク色の塗料の破片。
そして、もうもうと舞い上がる粉塵――なぜかむせ返るようなベビーパウダーの匂いがした――の中から、巨大なシルエットが姿を現す。
「はぁ〜〜〜〜〜い♡♡♡ どなたかしらぁん?」
網膜に焼き付いたのは、矛盾の集合体だった。
見上げるほどの巨体。推定身長190センチ。
丸太のように太い腕には、血管が鋼のワイヤーのようにバキバキに浮き上がり、はち切れんばかりの大胸筋と上腕二頭筋が脈打っている。
服装は、油と煤にまみれた分厚い革のエプロン。
そして極めつけは、その顔面を完全に覆い隠す、真っ黒な『工業用の溶接マスク』だった。
どう見ても、モヒカン頭でバギーに乗り、「ヒャッハー!」と叫びながら略奪をしている世紀末の山賊の親玉である。
だが、その山賊(仮)は、巨体をモジモジと内股に捻りながら、丸太のような両手で頬(溶接マスク)を押さえ、うっとりとしたソプラノボイスを上げたのだ。
「まぁ……! まぁぁぁぁッ! こんな辺境の森に、運命の王子様(お客様)が来てくれるなんてぇ♡ 私、テツコ、感激しちゃおぅ♡」
「王子様じゃねぇよ山賊の親玉だろォォォォォ!!!」
俺の魂の底からのツッコミが、B51Fの森に木霊した。
喉が渇く。声帯が引き攣る。
「情報量が! 情報量が多すぎて私のツッコミ処理能力(CPU)が完全にフリーズしました!! 筋肉なのか乙女なのか溶接工なのか、せめてどれか一つに絞ってください!! キャラ属性の過積載で車軸が折れてます!!」
マシロが頭を抱えてパニックを起こしている。
後ろを振り返ると、先ほどまで「絶対防衛」と喚いていたレオやツムギたちが、完全に顔面蒼白になり、無言で装甲車の陰に後ずさりしていた。
おい、お前ら。親父をこんな化け物の前に一人(しかもプチプチ巻き)で放置する気か。第四の壁を越えて、読者からの好感度がダダ下がりだぞ。
「あのねぇ♡ テツコ、ずっと待ってたのぉ。この硬くて冷たい鉄の山で、私の燃えるようなハートをドロドロに溶かしてくれる、素敵な殿方を……♡」
ドスッ、ドスッ、ドスッ!
一歩踏み出すたびに地鳴りが響く。テツコ(自称)が、乙女チックなステップで接近してくる。
そのたびに、俺の生存本能が「逃げろ」「死ぬぞ」と最大級のアラートを鳴らす。
「あ、いや、えっと、俺はただの客で……武器の修理を……頼みたくて……」
俺は冷や汗を滝のように流しながら、プチプチの隙間から、ジップロックに入れた『モップの砂(残骸)』と、背中に刺していた『予備のデッキブラシ』を恐る恐る差し出した。
「これ……直せるか?」
もう、ツッコミを入れる気力も、恐怖に抗う気力も失せていた。
早く用件を済ませて、この狂気のテーマパークからログアウトしたい。その一心だった。
だが。
俺が差し出したジップロックの中身(ただの灰色の砂)を見た瞬間。
ピタッ、と。
テツコの奇妙なくねくねとした動きが、映像がフリーズしたように完全に停止した。
「…………」
空気が、変わった。
いや、空気が「重力」を持った。
先ほどまでのピンク色のふざけた波動が霧散し、重く、鋭く、研ぎ澄まされた「職人」の気迫が、その巨体から立ち上る。
溶接マスクの奥。真っ暗なスリットの奥にある「眼」が、ジップロックの中の砂を、そして俺の全身をレントゲン検査のように射抜いていた。
「……これ、あなたが使っていたの?」
声のトーンが、数オクターブ急降下した。
鼓膜を直接叩くような、地を這う重低音のバリトンボイス。
「あ、ああ。まあ、ちょっと無茶させちまってな」
「……なんて、悲しくて……ロマンチックな金属疲労なの……ッ!!」
ブワァァァァァッ!!
次の瞬間、テツコの溶接マスクの隙間から、蒸気機関車のような尋常ではない量の白煙(鼻息?)が噴き出した。
再び内股に戻り、今度は両手を固く握りしめて、全身をガクガクと震わせている。
「分かるわ! テツコには痛いほど分かる! この武器がどれほどの呪い(重圧)に耐え、そして……あなたがどれだけの痛みを隠して、その震える右手でこれを振るってきたのかがッ!」
ビクッ。
俺の心臓が、不整脈を起こしたように大きく跳ねた。
こいつ。
ギャグみたいなナリをしているが、眼は本物だ。
ただの砂になったモップの残骸から、俺の『死者の共鳴』の過負荷の痕跡と、俺自身が仲間たちに隠し通している「肉体の限界(右手の震え)」を一瞬で見抜きやがったのだ。
図星を突かれた動揺が、俺の表情筋を強張らせる。
「こんな……こんな悲壮な覚悟を背負った殿方、テツコ、絶対に放っておけないわぁぁぁぁッ!!」
「は? いや、ちょっ、待て」
「私が直してあげる! 武器も! そして、あなたのその強がりなハートの傷跡もねっ♡」
ガシィッ!
回避する暇など、コンマ一秒すら与えられなかった。
身長190センチの筋肉ダルマの丸太のような太腕が、俺のプチプチ巻きの体を、まるでティッシュペーパーの箱か何かのように軽々と持ち上げたのだ。
「うおォォォォッ!? お、下ろせ! 抱きかかえるな! 物理的に俺の骨盤が軋む嫌な音がしてるから!」
俺の悲痛な抗議など、暴走特急と化した乙女の耳には全く届かない。
テツコは俺を完璧な「お姫様抱っこ」の体勢に収めると、ズンズンとピンク色のアトリエの中へ歩き出した。
重力が反転する感覚。筋力の暴力に為す術がない。
「マシロ! お前ら! 見てねぇで助けろ!! オィィィィィィッ!! 嘘だろお前ら!?」
俺が首だけを捻って助けを求めて叫ぶが。
「あ、あはは……ジン、お幸せに……。保険金の手続きは私がやっておきますから……」
「ボス……! アタシたち、ボスの雄姿、一生忘れないッス! 敬礼ッ!」
マシロは完全に引きつった笑顔で遠くから手を振り、ツムギに至ってはなぜか夕陽(地下だから無いが)に向かって涙ぐみながら敬礼している。
見捨てやがった。あいつら、俺という親父を、このピンクの魔境に生贄として捧げやがった。
走馬灯のように、あいつらと過ごした馬鹿みたいな日常の記憶がフラッシュバックする。俺の終活は、こんな鉄クズの山で終わるのか?
「さあ、まずは二人きりで、あっつぅ〜い『打ち合わせ(ヒアリング)』から始めましょうかぁ♡ ベッド(作業台)はもう温まってるわよぉ♡」
バタンッ!!
ピンク色のドアが、情け容赦なく、そして永遠の別れを告げるように閉ざされた。
ドアの表に掛けられた看板がクルリと裏返り、『ただいま情熱のセッション中♡(立ち入り禁止)』という文字に変わったのを、俺は薄れゆく意識の中で、絶望と共にただ見届けるしかなかったのだった。




