第119話『夜明けの境界線、あるいはゴミ拾いたちの凱歌』
天井の岩盤に走る巨大なクレバスの奥底から、疑似的な「朝日」がゆっくりと、ひどく重々しい質量を伴って漏れ出してきた。
その光の軌跡を、俺の網膜はまるで毎秒一万フレームのハイスピードカメラで撮影したかのように、コンマ一秒のコマ送りで捉えていた。
ダンジョンB50Fへのゲート前に広がる、途方もなく広大な岩の広場。
本来、地下数十キロの深層に太陽光など届くはずもない。それはダンジョンというシステムが、冒険者の精神を崩壊させないために用意した、プラシーボ効果としての光学迷彩に過ぎない。
だが、今朝の光はいつもと違っていた。
いつもの、量販店で売っている安物の白熱電球のような人工光ではない。
どこかセピア色を帯びた、古いフィルム映画のワンシーンのような、ノスタルジックで息苦しい光。光の粒子が、埃と共にゆっくりと宙を舞い、俺たちの肌にまとわりついてくる。
お盆に田舎の祖父母の家で嗅ぐ、仏壇の線香と古い畳の匂い。あるいは、小学生の夏の夕暮れ、遊び疲れて帰る道すがら、遠くから聞こえてきた豆腐屋のラッパの音。
そんな「過去」という名の暴力的なノスタルジーを視覚化したような光線が、荒涼とした岩肌を舐めるように照らし出している。
『(……なんだこの光。ブラウン管テレビの端子を黄・白・赤で繋いで、黄色が接触不良起こしてる時みたいな色味じゃねえか)』
俺の脳内で、どうでもいい昭和の家電あるあるがフラッシュバックする。
現実逃避だ。
わかっている。この光は、明確な警告だ。
ここから先は、現代の物理法則や常識が通用する「浅瀬」ではない。数多の冒険者たちが未練を残して散っていった、濃密な「死者の記憶」が堆積する、過去という名の深淵なのだという、世界からの通告。
キュルルルルッ……ドゥルン、ドゥルルルルルッ!!
空気を震わせる静寂を切り裂いて、野太い排気音が広場に轟いた。
音の発生源は、俺たち『アンラッキー・サーティーン』の移動拠点であり、実家であり、棺桶でもある装甲トラック『アイアン・マザー号』のエンジンだ。
その爆発音は、ピストンがシリンダー内で混合気を圧縮し、スパークプラグが火花を散らした瞬間の、物理的なエネルギーの解放。
ブルルルルッ! という振動が、タイヤからサスペンション、そして俺が座る助手席のクッション材を貫通して、尾てい骨から背骨へとダイレクトに伝わってくる。
その巨体を太陽の光の下で改めて見ると、まあ、なんというか、控えめに言って「世紀末の違法建築」だった。
前階層での、あの馬鹿げた強行突破のツケだ。
フロントガラスはクモの巣状に砕け散り、視界を確保するために半分ほどぶち抜かれている。その隙間を、なぜか「ミカン」と書かれた古びたダンボールと、銀色のダクトテープが幾重にもバツ印で補修している。ボンネットはどこかの巨大モンスターの爪痕でえぐられ、塗装は剥げ、装甲板はベコベコに凹んでいる。
車検に出したら、検査員が泡を吹いて卒倒し、即座に陸運局から抹消登録されるレベルの満身創痍。
だが、不思議と「みすぼらしさ」は感じない。
むしろ、歴戦の猛者の顔に刻まれた刀傷のような、異様な凄みと矜持を放っていた。
「……ッ、痛ゥ……」
俺、黒鉄ジンは、助手席という名の特等席(指定席)に深く腰を沈めながら、ポケットから取り出した最後の一錠――ヤクモ特製の、致死量スレスレの劇薬(痛み止め)――を、水も飲まずに奥歯でガリッと噛み砕いた。
粉砕された錠剤の欠片が、舌の乳頭を刺激する。
直後、舌の上が完全に麻痺するような、化学物質特有の強烈な苦味が爆発した。
ザラザラとした粉末が、焼け焦げた喉を通って食道へと落ちていく。その軌跡が、内臓の粘膜を通してはっきりと知覚できるほどの劇薬。
ズキッ、バチバチバチッ!
背中では、広範囲にわたって炭化した皮膚と筋肉が、見えない業火に焼かれ続けている。
痛い。
ひたすらに、痛い。
『(……あー、クソ。この痛み、昔、深夜のテレビショッピングで買った「絶対に痩せる腹筋ベルト」を最強設定のまま三時間寝落ちした時のあの痙攣に似てるな。起きたら腹筋が八つに割れるどころか、内臓がシャッフルされてたあの絶望感。いや、それの五千倍は痛えけど)』
思考の脱線。走馬灯のバーゲンセール。
脳内でどうでもいい過去のトラウマを引き出し、痛みのベクトルをずらすことで、俺は意識を強制的に現実世界(こちら側)に繋ぎ止めていた。そうでもしないと、痛みのあまり魂が肉体を置いてログアウトしてしまいそうだったからだ。
カチ、カチ、カチ、カチ……。
脳髄のど真ん中、松果体のあたりで、狂ったBPMの秒針が鳴り響いている。
俺の心臓の鼓動と、呪い(死者の共鳴)が立てる、寿命のカウントダウン。
だが、昨夜までの、あの神経をヤスリで削られるような不快感はない。
アイアン・マザー号のアイドリング音、オイルの匂い、そして背中の激痛と混ざり合い、それはもう、ただのBGM(作業用BGM)と化していた。
ガチャンッ、チャキッ。
背後の荷台から、金属がぶつかり合う冷たい音が聞こえてくる。
振り返らなくてもわかる。
バカどもが、無言で武器の最終点検を行っている音だ。
弾倉に弾を込める乾いた音。剣の刃こぼれを砥石で撫でる摩擦音。魔法陣の基板を調整する電子音。
そこに、いつものような「誰の弁当の唐揚げが大きいか」という低レベルな言い争いや、無駄口は一切ない。
コンマ数秒の世界。
俺の網膜には、張り詰めた空気の粒子が、冷たい火花を散らして衝突しているのが見えるような錯覚すらあった。
全員の呼吸が、脈拍が、一つの巨大な生き物のように同調していく。
「おいクソガキども! おもらしの準備はいいかい!?」
その氷のように冷たい静寂を、運転席のドロシー婆さんのしわがれた怒声が、ハンマーで薄氷を叩き割るように粉砕した。
彼女は、シガーソケットから火をつけた安葉巻を咥え、ギラギラとした肉食獣のような目をバックミラーに向けて叫んだ。
その声帯から放たれた音波が、車内の空気をビリビリと振動させ、俺の鼓膜を物理的に殴りつける。
「ここから先は、トイレなんて上等なモンはないよ! ウォシュレットも、温熱便座も、消臭スプレーもない! トイレットペーパーの代わりになるのは、せいぜい毒のある葉っぱくらいさ! 催したらその場で垂れ流しだ! 覚悟しな!」
『(……おいィィィ! どんな凄惨な訓示だよ! なんで第5巻のエピローグ、このエモい空気の入り口で最初のセリフが排泄事情なんだよ! 少年漫画なら「命を懸けろ!」とか「絆を信じろ!」とかそういうのだろ! 作者、尺稼ぎの話題選び間違えてねえか!?)』
俺の脳内のツッコミメーターがレッドゾーンを振り切るが、声帯がストライキを起こしているため、口には出さない。
「最悪の訓示ね! でも私の肌のコンディションは完璧よ!」
荷台から、ピコの甲高い声が飛んできた。
「昨日の夜、ワンが作った泥パックみたいな謎のスープのおかげかしら! トイレに行く前に、毛穴の汚れが全部流れ出た気分よ!」
「……フン。腹が減ったら言え」
ワン・チャンの低い声が続く。
「お前らみたいな味覚音痴のために、非常食(カロリーメイト的な何か)なら山ほど作ってやった。水がなくても唾液だけで飲み込める、砂漠戦仕様だ」
「我が剣は主のために! いざ、地獄の底まで……あっ、ちょ、待て! 包帯が解けて前が見えぬ! 誰か、誰か結び直してくれ! 俺の視界がダークネス!」
「うるさいですよ、レオさん。そのまま暗闇で素振りでもしててください」
ワーワー、ギャーギャー。
瞬く間に、アイアン・マザー号の車内は、いつもの動物園……いや、知能指数の低い幼稚園の昼休みのような騒ぎになった。
だが。
俺の目は誤魔化せない。
ピコの指先は、杖を握りしめすぎて白く鬱血している。
ワン・チャンの声は、平坦を装っているが、語尾がほんのわずかに震えている。
レオは、包帯が解けたと騒ぎながらも、その足は一切のブレなく、いざという時に俺の前に飛び出せる完璧なポジション(盾の位置)をキープしている。
悲壮感はない。
だが、こいつらは知っている。湿っぽい空気を出すことが、死にかけのリーダー(俺)への、一番の裏切りだと。
だからこそ、いつも以上に声を張り上げ、馬鹿をやり、過剰な演技で笑い飛ばすのだ。
『ジンの盾となり、剣となる』。
その覚悟は、言葉ではなく、この馬鹿騒ぎの「密度」と、無意識のマイクロジェスチャーにこそ現れていた。
『(……たく、どいつもこいつも、三流役者みたいな大根演技しやがって。……嫌いじゃねえけどな)』
俺はサングラスの奥で、小さく息を吐いた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!!
不意に、大地が激しく揺れた。
広場の最奥。岩壁と同化していた巨大な石の扉が、何世紀もの眠りから目覚めるように、重々しい地響きを立てて開き始めたのだ。
石と石が擦れ合う、鼓膜を破らんばかりの摩擦音。
『(アニメのクライマックスで、ラスボスの居城の門が開くシーン。まさにアレだ。効果音に「ズズズ……」という太字のテロップを入れたくなる。いや、作画カロリー高すぎてアニメーターが過労死するレベルの重厚感だぞこれ)』
「…………ッ!!」
扉がわずかに開いた瞬間、俺の全身の毛穴が、一斉に恐怖で閉じた。
心臓が不整脈を起こし、一瞬、ドクンと嫌な跳ね方をする。
隙間から溢れ出してきたのは、風ではない。
濃密な「死の気配」の塊だった。
鼻を突くのは、何千年分もの落ち葉が腐り、発酵したような、強烈な腐葉土の匂い。
湿気。苔。そして、動物や虫といった「生き物」の気配が一切しない、完璧なまでの深い森の静寂。
B51Fから始まる『常闇の樹海』への入り口。
ここから先は、空気の密度そのものが劇的に変わる。酸素濃度ではなく、「未練」の濃度が、致死量に達しているのだ。
「……ぐ、ッ……!」
そのねっとりとした、冷たい空気に触れた瞬間だった。
背中の「炭化」が、ガソリンをぶっかけられた炎のように激しく疼き上がった。
バチバチバチッ! と、肉が焦げる音が脳内でサラウンド再生される。
視界が、一瞬にして真っ赤に染まった。
世界から色彩が失われ、赤と黒のノイズに支配される。
開かれた扉の向こう、深緑の闇の中から、無数の黒い手が生え、俺の体を過去へ、死の淵へと引きずり込もうと手招きしている幻覚が見える。
『おいで』
『休もう』
『もう、楽になれ』
千の亡者の囁きが、鼓膜を直接震わせる。
呼吸が止まる。
意識が、プツンと途切れそうになる。
重力に負け、体がシートからずり落ちそうになった――その永遠とも思えるコンマ一秒の静止時間の中。
ひんやりとした、小さな手が、俺の右手にそっと重なった。
「…………」
熱暴走を起こしていた俺の回路(脳)に、一滴の澄んだ冷水が落ちたような感覚。
視界の赤みが引き、幻覚の亡者たちがチリとなって霧散していく。
隣を見る。
助手席と運転席の間の狭いスペース。そこにふわりと浮遊しているのは、長い黒髪を揺らすマシロだった。
彼女の透き通るような幽霊の手が、俺の震える手をしっかりと握りしめている。
物理的な体温はない。
だが、その冷たさこそが、今の俺にとっては、魂を現世に繋ぎ止める唯一の命綱だった。
彼女の瞳に、俺の死にかけの顔がはっきりと映っている。
「……行けますか? 相棒」
マシロは、不安を微塵も感じさせない、真っ直ぐな瞳で俺を見た。
拾ったの頃の、何かに怯えていた少女の面影は、もうない。
地獄の底まで付き合うと決めた、共犯者の顔だ。
助手席(隣)は、私の指定席だ。そう無言で主張している。
「……ふっ」
俺は、自然と笑みをこぼしていた。
喉が焼け爛れていて、声はガラガラだ。口の中に血の味が広がる。
それでも俺は、震える右手でズレたサングラスを中指でクイッと押し上げ、開かれたゲートの先、圧倒的な闇へと向かって、震える指をビシッと突きつけた。
「……あぁ。行こうぜ」
俺の嗄れた声が、アイアン・マザー号の車内に響く。
荷台の馬鹿騒ぎが、ピタリと止んだ。
全員の視線が、俺の背中に集中しているのがわかる。
「観光旅行はここまでだ。ここからが、俺たちの『本業(ゴミ拾い)』だ」
肺の底に残った最後の空気を振り絞り、俺は叫んだ。
「――野郎ども、アクセル踏み抜けェェェ!!」
「アイアイサァァァァァ!! 地獄のドライブ、シートベルトはしっかりお締めェェ!!」
ドロシー婆さんが、狂ったような哄笑と共に、アクセルペダルを床板が抜けるほどの勢いでベタ踏みした。
ブォォォォォォォォォォンッ!!
マフラーから規格外の黒煙が噴き出し、アイアン・マザー号の巨体が、後輪を激しく空転させながら猛烈なダッシュを開始する。
凄まじいG(重力)が体をシートに叩きつける。
飛び散る泥。砕ける岩盤。舞い上がる粉塵。
俺たちは、巨大なゲートの向こう側、光すら飲み込む深い深い緑の闇(樹海)へと、文字通りダイブしていった。
――時計の針は止まっている。
だが、俺たちの時間は、ここから加速する。
背負った未練ごと、死の運命を置き去りにして。
死ぬまで走り抜ける、長い長いラストランの始まりだ。




