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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
第五章:泥沼の運び屋と、壊れた味覚

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第118話 『止まった時計と、うるさい秒針』

パチッ……、と。


 白く灰になりかけた薪が、最期の力を振り絞るように小さな火の粉を跳ね上げた。

 その光の軌跡を、俺の網膜はまるでハイスピードカメラのようにコンマ一秒のコマ送りで捉えていた。

 オレンジ色の熱の粒子が、重力に逆らって中空へと舞い上がり、冷たい夜の空気に触れて徐々に赤銅色へと変色し、やがて完全に熱を失ってただの黒いすすとなり、俺の作業着の膝に落ちるまでの一連のプロセス。

 普段なら絶対に見逃すような、どうでもいいミクロの自然現象。

 それがやけに鮮明に、高解像度で見える。


 ダンジョンB49FとB50Fの境界エリア。

 そこは、どこまでも続く荒涼とした岩肌と、その先に巨大なあぎとを開ける奈落への入り口を繋ぐ、中州のような安全地帯セーフエリアだった。

 時刻は深夜。いや、太陽という概念が存在しないこの地下ダンジョンにおいて、時間感覚などとうの昔に初期化フォーマットされている。だが、狂い始めた生体時計と、吐く息を白く染める空気の底冷えが、嫌がらせのように「午前二時の草木も眠る丑三つ時」であることを主張していた。


 静かだ。

 あまりにも、静かすぎる。

 遠く――おそらくB50Fの奥底――で、名も知らぬ巨大な怪異が「ヴォォォォン……」と腹の底に響くような咆哮を上げているが、それすらも今の俺にとっては、環境音アンビエントのBGMに過ぎない。

 すぐ背後にあるテントからは、ワン・チャンの「グガァァァァ……スゥゥゥゥ……ピィィィ……」という大型バイクのアイドリングのような重低音いびきと、ドロシー婆さんの「フガッ、フンガーッ、カッ!」という、時折痰が絡む謎の破裂音が交互に響き、見事な不協和音オーケストラを奏でている。

 前回の階層での、あの馬鹿げた全力疾走。

 俺の体力を温存させるため、奴らは「プランB」と称して、立ちはだかる全ての障害とモンスターを力技で粉砕し、強行突破してきた。その反動で、今は泥のように……いや、泥そのものになって眠りこけている。

 『頼りになる仲間たちの寝顔を見守るリーダー』。

 字面だけ見れば、深夜アニメのCパートでよくあるエモいシーンだ。

 だが、現実はそんな生易しいものじゃない。


「…………ゥ」


 ズキッ。

 背中を、焼けた鉄串で乱暴に抉られるような激痛が走った。

 第四巻の終盤、ガレスの野郎との死闘で暴走した『死者の共鳴』の代償。俺の背中の皮膚と筋肉は、今もなお広範囲で炭化し、見えない業火に焼かれ続けている。

 例えるならそう、真夏の炎天下で日焼け止めを塗らずに海で泳ぎまくり、真っ赤に腫れ上がった背中を、サウナ上がりの屈強なロシア人に白樺のヴィヒタでフルスイングでシバかれているような痛みだ。

 いや、そんなチャラい痛みじゃない。

 歯医者で麻酔なしで神経を抜かれるあの絶望感と、冬の朝にタンスの角で小指をぶつけた時の宇宙的悲しみを足して二で割らないまま、背中に直接ダイブさせたような……。

 要するに、めちゃくちゃ痛い。


 ヤクモから処方された痛み止めは、とうの昔に致死量スレスレまで摂取している。もはやフリスク程度の清涼感しか感じない。

 だが、俺から睡眠を奪っている最大の原因は、背中の幻痛でも、喉の奥にへばりつく焼け焦げたような渇きでもなかった。


「……チッ、耳鳴りが止まらねえな」


 俺は右手の小指を耳の穴に突っ込み、グリグリと乱暴にほじくった。

 物理的な耳垢が詰まっているわけではない。綿棒で解決する問題なら、こんなに苦労はしない。

 頭蓋骨の奥底、脳みそのど真ん中、松果体のあたりから、そいつは直接鳴り響いているのだ。


 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……!!


 時計の秒針の音。

 だが、そのテンポが決定的に狂っている。

 BPM(1分間の拍数)で言えば、180は軽く超えているだろう。

 クラブの巨大スピーカーの真ん前に縛り付けられ、重低音強めのハードコア・テクノを延々と聞かされている気分だ。

 あるいは、小学校の運動会。徒競走のBGMで流れる『天国と地獄』のクライマックス部分を、さらに1.5倍速で再生しているような、異常な切迫感。


「(……隣の部屋で、ヤバいクスリ決めたウサギがタップダンスでも踊ってんのか? それとも俺の脳内に小さなオジサンが住み着いて、メトロノームで嫌がらせのバイトでもしてんのか?)」


 目を閉じても、耳を塞いでも、その音は決して鳴り止まない。

 カチカチカチカチカチカチカチカチッ! と、俺の神経細胞を一本ずつヤスリで削り取るように、無限に加速していく。


「……うるせえな、本当に」


 俺は深いため息をつき、作業着の胸ポケットに手を入れた。

 指先が触れたのは、ひんやりとした金属の感触。

 取り出したのは、赤茶けた錆に覆われた古い銀時計だ。

 『ガードナーの懐中時計(No.001)』。

 五年前に死んだ親友の遺品であり、俺がこのふざけた仕事(墓守)を始めるきっかけとなった、呪いのような最初の未練。

 分厚いガラスの風防には、蜘蛛の巣のようなヒビが斜めに入っている。


 俺は親指の腹で、そのヒビの感触をなぞった。

 その瞬間、脳裏にフラッシュバックするガードナーの顔。

 『よぉ、ジン。今日の昼飯、カップ麺でいいか?』

 ……ちがう、もっとマシな思い出はないのか。なぜ俺のハードディスクは、死に際の走馬灯に備えて、こんな日常のどうでもいいキャッシュデータを優先的に引き出してくるんだ。


 俺は思考の脱線を強制終了させ、文字盤を凝視した。

 ローマ数字を指し示す黒い針は、五年前のあの日、あの崩落事故の時刻――午後三時四十二分――で完全に停止している。

 ピクリとも動いていない。

 ゼンマイを巻いても、振っても、その針が再び時を刻むことはなかった。


「おい、サボってんじゃねえぞ」


 俺は手のひらに乗せた時計に向かって、説教を垂れ始めた。深夜の異常なテンションと、極度の睡眠不足が生み出した、哀しき一人芝居モノローグだ。


「音だけ一丁前に鳴らしやがって。お前の針はニートか? 実家ポケットに引きこもってねえで、たまには働けよ。お前がストライキ起こしてるせいで、こっちは深刻な寝不足なんだよ。労基に駆け込むぞコラ」


 もちろん、返事はない。

 俺は時計を耳元にぴったりと近づけた。

 ……無音。

 物理的な音は何も鳴っていない。

 チクタクという可愛らしい音はおろか、金属の軋みすら聞こえない。


「よし、日本の伝統的かつ不可逆的な修理法ソリューションを試すか」


 コンッ、コンッ。

 俺は時計の側面を、そこら辺に転がっていた手頃な石で軽く叩いた。

 昭和のテレビは斜め45度からチョップすれば直る。ファミコンのソフトは端子に息を吹きかければ起動する。ばあちゃんが言っていたから間違いない。これは民間療法における真理だ。


 シャカシャカシャカッ!

 今度はカクテルを作るバーテンダーのように、いや、マラカスを振る陽気なメキシコ人のように、耳元で激しく振ってみる。


「どうだ? 目ぇ覚めたか? 歯車の一つや二つ、噛み合っただろ。ほら、動け。動けって言ってんだよ……!」


 だが、現実は非情だった。

 物理的に叩けば叩くほど、振れば振るほど、脳内に響く『カチカチ音』は大きく、鋭く、そして暴力的になっていくのだ。


 ガチンッ!!


「いっ……つぅ……!」


 一瞬、耳の奥……いや、脳髄に直接、巨大な金属の杭を打ち込まれたような鋭い痛みが走り、俺は思わず時計を落としそうになった。

 額から、脂汗がドッと噴き出す。

 視界が、古いブラウン管テレビのように砂嵐ノイズに塗れて歪む。


 心臓が、その時計の異常なリズムに合わせようとして、狂ったように不整脈を起こしている。

 ドクン、ドドクン、ドクンッ!!

 呼吸が浅い。ヒュー、ヒューと、破れたふいごのような情けない音が喉から漏れる。

 世界から色彩が失われ、全てが青白いモノクロームに沈んでいく錯覚。

 アニメなら、背景が真っ暗になり、俺の心臓の鼓動に合わせて赤い波紋だけが広がるような、そんな過剰な演出エフェクトが入る場面だ。

 『(……回想シーンか心理描写に尺を使いすぎだろ。これじゃあ5000文字あっても話が進まねえぞ)』

 俺の冷静な左脳が、状況を俯瞰してメタなツッコミを入れるが、右脳は完全にパニックに陥っていた。


「……ハァ、ハァ……。壊れてんのは時計か、俺の頭か。……どっちだ?」


 自嘲気味に笑おうとしたが、頬の筋肉は痙攣ひきつったまま、うまく動かなかった。



「……ジン? 寝ないんですか?」



 不意に、背後から鈴を転がすような、涼やかな声がした。

 振り返らなくてもわかる。

 幽霊特有の、ふわりとした冷気。そして、なぜかほんのり香るフローラル系のシャンプーの匂い。

 『(幽霊のくせにシャンプーの匂いってなんだよ。どんな最新式の霊体コーティングしてんだよ)』という野暮なツッコミは、今は飲み込む。

 マシロだった。


 彼女は重力を完全に無視して宙を滑るように近づき、俺の隣にふわりと腰を下ろした。

 長い黒髪が、焚き火の淡い光を反射して艶やかに揺れる。

 透き通るような白い肌。だが、第1巻の頃のような「いつ消えてもおかしくない儚さ」はない。彼女の魂の輪郭は、俺との憑依契約バディによって、妙に生々しく、確かな存在感を持っていた。


「……お前こそ。幽霊の分際で夜更かしとは、感心しねえな。お肌のゴールデンタイムが泣くぞ」

「幽霊に肌荒れはありません。それに、ジンから伝わってくる痛みが……その、強くて。私も目が覚めてしまいました」


 マシロは、申し訳なさそうに視線を落とした。

 憑依バディである俺たちは、痛覚をある程度共有している。俺が激痛を我慢して強がれば強がるほど、彼女の魂にもそのノイズが伝染してしまうのだ。


「……悪かったな。安眠妨害しちまって」

「いいえ。……ジンが苦しんでいるのに、私だけ暢気に寝ているわけにはいきませんから」


 マシロの言葉に、俺の荒れていた心拍数が少しだけ落ち着きを取り戻した。

 だが、同時に残酷な事実を突きつけられた気分でもあった。

 俺は右手の懐中時計を、マシロの目の前に差し出した。

 その動作は、まるで爆発寸前の時限爆弾のコードを切るように、ゆっくりと、慎重だった。


「なあ、マシロ。こいつがうるさくてな。……お前、この音聞こえるか?」


 俺の真剣な――おそらく、死人のように蒼白な顔色での――声色に、マシロは不思議そうに小首を傾げた。

 そして、時計に顔を近づけ、静かに目を閉じて耳を澄ます。


 数秒の沈黙。

 永遠にも似た、コンマ数秒の緊迫感。

 周囲の音が、異様に大きく聞こえる。

 パチッ、と爆ぜる焚き火の音。テントからのいびき。風が荒野の砂を撫でる音。

 マシロの長いまつ毛が、微かに揺れる。


 やがて、彼女はゆっくりと目を開け、俺の顔を真っ直ぐに見つめ返した。


「……いいえ。何も聞こえません。針も……あの時のまま、止まっています」


「…………」


 俺は、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。

 ……そうか。

 やっぱ、俺の頭のネジが飛んでるだけか。


 いや。

 俺は気づいていた。とうの昔に。

 気づかないふりをして、現実逃避の言い訳を探していただけだ。


 この『カチカチ』という異常な音は、時計の音ではない。

 俺の心臓の鼓動と、背中で燻り続ける『呪い』が、この深く暗いダンジョンの深度――過去へ、死者の国へと近づくにつれて、共鳴して立てている音だ。


 ――寿命の足音。


 ヤクモの野郎は「余命半年」とか偉そうに抜かしていたが、あのヤブ医者め。全然計算が合ってねえじゃねえか。医療ミスで訴えてやる。

 この狂ったテンポ。この加速具合。

 半年なんてもたない。

 あと三ヶ月? いや、一ヶ月?

 下手をすれば、このB50Fを下り切る前に、俺の体は完全に炭の塊になって崩れ落ちるかもしれない。

 細胞が悲鳴を上げ、魂の燃えカスがパラパラと崩れ落ちていく幻覚が見える。


『(……焦るな。だが、急げ)』


 俺は心の中で自分に言い聞かせた。

 喉の奥からせり上がってくる、黒いタールのようなドロドロとした恐怖を、無理やり唾と一緒に飲み込む。


 俺は時計を、壊れるんじゃないかというほど強く握りしめた。

 ゴツゴツとした金属の感触が、手のひらの皮膚に食い込む。その鋭い痛みが、俺の意識をかろうじて現実に繋ぎ止めるアンカーになった。


「……いいぜ。好きなだけ鳴らせ」


 俺は、虚空に向かって、あるいは自分自身に向かって、地を這うような低い声で呟いた。

 うるさい秒針。狂ったテンポ。

 上等だ。


「俺がくたばるまでの、メトロノーム代わりにしてやるよ。このビートにノって、地獄の底まで踊り狂ってやる」


 それは、死への恐怖をねじ伏せるための、俺なりの精一杯の虚勢だった。

 自己暗示。

 ノイズを、リズムとして受け入れる覚悟。

 俺は一人じゃない。このボロボロの背中には、うるさい家族バカどもの命が乗っている。こんなところで立ち止まって、自分語りをして同情を買っている暇はないのだ。


 ふと、東の空――といっても、ダンジョンの天井の岩盤の隙間だが――が、白み始めているのに気づいた。

 疑似的な朝。

 通常の太陽光とは違う、どこかセピア色を帯びた、古い写真のような光が、荒野の岩肌をゆっくりと舐めるように照らし出していく。

 過去への入り口を象徴するような、ノスタルジックで残酷な光。


「……んあ……朝か……? 腹減った……」


 背後のテントから、ワン・チャンの寝ぼけた声が聞こえた。

 続いて、布の擦れる音や、ドロシー婆さんの豪快な欠伸の声。

 どうやら、馬鹿どもが現実世界クソゲーにログインし直したようだ。


 俺は懐中時計をポケットの奥深くにしまい込み、よっこらせ、と立ち上がった。

 膝の軟骨が悲鳴を上げ、背中に走る激痛が「もう休め」と脳細胞に直接警告してくる。重力が普段の三倍くらいに感じられる。

 だが、俺は背筋を伸ばした。

 痛みを隠すためのいつもの猫背ではなく、まっすぐに、天を突くように。


 マシロが下から見上げる俺の背中は、きっと昨日よりも少しだけ小さく、ボロボロに見えるだろう。

 だが、同時に鋼のように硬く、絶対に折れない大黒柱のように見えていればいい。いや、見せなければならない。

 それが、リーダー(親父)の意地だ。


「……さて、行くか」


 俺はれた声で呟き、前方を見据えた。

 そこには、B50Fへと続く巨大なゲートが、深淵のように真っ暗なあぎとを開けて待っている。

 俺の命を削る、新たな地獄の入り口。


「時計の針は動かねえが、俺たちの足は動く。……遅れんなよ、マシロ」


「はいっ。どこまでも、お供します」


 マシロの透き通る声が、背中を力強く押した気がした。

 俺の脳内では、相変わらずBPM180の狂った秒針が鳴り響いている。

 カチカチカチカチッ!


 だが、もううるさくはない。

 これは、俺たちが前へ進むための、最高の行進曲マーチだ。


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