第117話 優しさという名の速度違反(スピード違反)
カチッ……カチッ……カチッ……。
その音は、もはや幻聴という生易しいものではなかった。
俺の胸ポケットに収められた、かつての相棒の遺品である懐中時計『No.001』。
物理的にはとうの昔に壊れ、秒針など一ミリも動いていないはずのその時計が、俺の頭蓋骨の内側で、直接ハンマーを振り下ろすようにビートを刻んでいる。
速い。
明らかに、昨日よりもテンポが上がっている。
まるで、夏休みの宿題を最終日まで放置した小学生が、八月三十一日の深夜三時に聞く時計の音だ。焦燥感と、不可逆な終わりへのカウントダウン。
ダンジョンB30F『迷わずの樹海』の朝。
俺、黒鉄ジンは、テントの結露した布地が頬に触れる不快感で目を覚ました。
いや、「不快感」と呼べるほどの鋭敏な感覚は、とうに失われている。視覚情報として「顔の横に濡れた布がある」と脳が処理し、過去の経験則から「これは冷たくて不快なはずだ」と自己暗示をかけているに過ぎない。
「……あー、クソ。腰が重ぇ。誰だ、俺の脊髄に生コンクリート流し込んだ奴は」
口を開いて声を出そうとした瞬間、喉の奥からヤスリで粘膜を削り取るような摩擦音が漏れた。
ガラガラに枯れ果てた、錆びたチェーンを引きずるような声。
俺は、軋む関節に無理やり「動け」と命令を下し、テントのジッパーを押し下げた。
外に出れば、いつもの光景が広がっているはずだ。
いびきをかいて寝坊するドロシー、寝起きのすっぴんを隠すために暴れるピコ、そして朝から奇行に走るネオン。それを「起きろニートども! 朝飯抜きにするぞ!」と怒鳴り散らして叩き起こすのが、俺の朝のルーティン(存在意義)だ。
だが。
テントの外に広がっていたのは、俺の矮小な常識を打ち砕く、異常な光景だった。
カッッッ!!!!(脳内集中線)
スローモーション。
俺の網膜に焼き付いたのは、朝日に照らされ、軍隊並みの完璧な規律で整列した『アンラッキー・サーティーン』の面々だった。
すでに巨大トラック『アイアン・マザー号』は暖気運転を終え、マフラーから規則正しい排気音を奏でている。
全員の装備は完璧に磨き上げられ、靴紐の結び目一つ狂っていない。
「(……尺稼ぎの回想シーンか? いや、違う。俺の脳がバグって、別のアニメのワンシーンを受信してんのか? ジャンル変わった? これミリタリー物だっけ?)」
俺の思考が、現実逃避の海を全力でバタフライし始める。
メタ的なツッコミを脳内で連打していると、俺の困惑を察知したドロシー婆さんが、わざとらしく鼻の穴を膨らませて一歩前に出た。
「何言ってんだい! のろのろしてるんじゃないよ、この万年寝不足のポンコツ男! 次の目的地はB50F! そこには『伝説の秘湯(混浴)』があるんだよ!」
「……は?」
「アタシの肌年齢を、江戸時代くらいまで巻き戻す絶好のチャンスなんだ! 一秒でも早く、あのトロットロの美容液みたいな湯に、この干物みたいな体を浸けたいんだよ! わかるかい!? 女の執念だよ!」
ドロシーの背後に、阿修羅の幻影が見えた。
それに呼応するように、ピコが自撮り棒を振り回しながら叫ぶ。
「そうよ! 美肌効果! エステ! 女子力! アンチエイジング! 温泉上がりにフルーツ牛乳! 邪魔する敵は全員消毒、一匹残らずスクラップよ! 私の動画配信のキラーコンテンツになるんだから!」
「混浴……。……ゴクリ」
ワン・チャンが、タバコをくわえたまま、信じられないほどわざとらしい生唾を飲み込んだ。
さらには、全身包帯グルグル巻きで、ミイラ男のようになったレオまでもが、震える拳を天に突き上げている。
「我が騎士道、混浴の秩序を守るために……いや、ジンの休息のために……失礼、温泉の平和のために! この命、今ここで燃やし尽くす所存!」
「(……今、思いっきり本音漏れなかったか、甲冑野郎)」
俺はため息をつき、後頭部を掻いた。
馬鹿馬鹿しい。
B50Fに温泉があるなんて噂は聞いたことがあるが、命を懸けて突っ走る理由が「混浴」と「アンチエイジング」だと?
俺の脳裏に、かつて同棲していた元カノが、限定コスメを買うために台風の中で俺をパシリに使った記憶が走馬灯のように蘇る。女の欲望は、時に天災をも凌駕する。
「……くだらねえ理由で動きやがって。まあいい、先を急ぐのは賛成だ。乗れ」
俺は呆れたように吐き捨て、トラックの助手席へと乗り込んだ。
気づいていなかった。
その「下世話な欲望」という大根芝居の下で、仲間たちが必死に奥歯を噛み締め、俺の顔(特に土気色の肌と、焦点の合わない目)を直視しないようにしている理由に。
彼らは、俺が自分で動こうとする隙を、一秒たりとも与えないつもりだったのだ。
◆
キィィィィィィン!!(空力加熱音)
マザー号が、物理法則と燃費を無視した爆走を開始した。
B31FからB40F。
本来なら、一歩進むごとに緻密な探索と、罠の解除、そして泥臭い戦闘が必要な階層だ。
だが、今の『アンラッキー・サーティーン』の辞書に「探索」という文字はない。あるのは「蹂躙」と「直進」だけだ。
荒野のど真ん中、行く手を阻むようにオークの群れが出現した。
「グゲゲェ! 人間ダ! 殺セ!」
汚物と腐肉の臭いを撒き散らす緑色の巨漢たちが、武器を振り上げる。
「(……チッ、数が多いな。俺が片付け――)」
俺の生存本能が、錆びついた神経回路に「戦闘態勢」の信号を送る。
アドレナリンが分泌され、心臓が不整脈を起こしながらも血液を送り出す。
右手が、足元に置いたスクイージーの柄を握ろうとピクンと動いた。
その、コンマ一秒の出来事。
俺の筋肉が収縮を終えるよりも早く、世界が爆発した。
ドォォォォン!!(CGI予算の限界を突破した爆裂エフェクト)
「温泉〜! 温泉〜! 私の美肌を邪魔する奴は、一族郎党ミトコンドリアレベルまで爆破〜!」
ツムギが、走行中のマザー号の窓から上半身を完全に乗り出し、特製の40mm連装グレネードランチャーを乱射していた。
スローモーション。
ランチャーの砲口から噴き出すオレンジ色のマズルフラッシュ。
放物線を描いて飛翔する榴弾が、オークの群れの中心に着弾する。
爆風が巻き起こり、オークたちの顔が、驚愕から絶望へ、そして哲学的な諦観へと変わる瞬間が、コマ送りで俺の網膜に映り込む。
熟れたトマトのように弾け飛ぶ肉片。
「ルート上の障害物を、120%の過剰火力で排除。到着予想時刻を、さらに15分短縮します」
ネオンが、トラックの屋根の上でキーボードをターンッ! と叩く。
ダンジョンの防衛システムをハッキングし、疑似的な衛星レーザーを座標爆撃として落とす。
空から降り注ぐ青白い光の柱が、逃げ惑う魔物たちを蒸発させ、地面をガラス状に変えていく。
「ふはははは! 温泉への道は、我が聖剣が切り開く!」
さらに、包帯だらけのレオが、風圧で包帯を千切れさせながら屋根から跳躍。
空中で放たれた聖剣の一閃が、巨大な斬撃の波となって、生き残ったオークを真っ二つに両断する。
それはもはや「戦闘」ではなく、巨大なミキサーに食材を放り込むような、一方的な「作業」だった。
「……おいおい、張り切りすぎだろ。これじゃ俺の仕事がねえじゃねえか。っていうか、お前ら序盤の雑魚スライムに超究極武神覇斬使ってるようなもんだぞ。MP配分バカになってんのか?」
助手席で、俺は呆然と窓の外を眺めていた。
本来なら、俺が、俺だけが体を張って道を切り開くべき場所だ。
少しの寂しさと、自分の存在意義が奪われたような喪失感が胸を突く。
だが。
今の俺の身体にとって、その「寂しさ」は、あまりにも甘美で、抗いがたい麻薬(休息)だった。
肺の奥が、常に焼けた鉄板を押し付けられているように熱い。
座っているだけで、視界の端にノイズが走り、重力が三倍になったように体が重い。
俺は、無意識のうちに深く安堵の息を吐き、座席の背もたれに体重を預けていた。
仲間の背中が、世界の何よりも頼もしく見えた。
◆
ブレーキの壊れた家族たちの暴走は止まらない。
通常なら昼休憩を取る時間。だが、マザー号は速度を落とさない。
「止まってる暇はねえ! 走りながら食え! 特製・高栄養流動食ドリンクだ! 胃に負担をかけず、3秒で1000キロカロリーを摂取できるぜ!」
運転席と助手席の間から、ワンが銀色のパウチを俺の顔面に押し付けてきた。
宇宙食かよ。
俺はそれを受け取り、ストローをくわえる。
「(……味気ねえな。まあ、今の俺には、高級ステーキも、エイリアンの体液も、ただの『質量』でしかねえから同じか)」
自嘲的な思考。
俺は無意識に、パウチの中身を喉へと流し込む。
ズズズ……。
それは、驚くほど冷たく、何の抵抗もなく喉を通った。
味は分からない。だが、それが干からびた細胞の一つ一つに染み渡っていくような、奇妙な熱感だけがあった。
まるで、小学生の頃に川遊びをしていて、誤って泥水を飲み込んだ時の、あの胸の奥がギュッと縮み上がるような感覚。
過去の記憶が、現在の喪失感を強引に補完しようとしている。
B45F付近。
不意に、上空の気流が変わった。
鼓膜への気圧変化。
空から巨大な影が、音もなく高速で接近してくる。
階層中ボス、『蒼天のワイバーン』だ。
トラックの死角、真上からの急降下。
カマキリのような鋭い鉤爪が、トラックの助手席側のルーフを切り裂こうとした、その瞬間。
「危ねえ!」
俺の生存本能が、錆びついた回路に無理やり高圧電流を流し込んだ。
心臓が「ドッ!!」と爆発的な鼓動を打ち、血圧が急上昇する。
俺は反射的に身を乗り出し、座席の横のスクイージーを掴もうとした。
筋肉が強張り、炭化した背中の皮膚が、メリメリと音を立てて引きつる。激痛。
だが、俺の動きよりも速く。
「ダメェェェェ!!」
鼓膜を破るような絶叫。
それは、いつも冷静なマシロが発したとは思えない、悲鳴に近い制止の声だった。
助手席の空間に実体化したマシロが、全力で俺の胸元に飛び込んできた。
ドンッ!
彼女の両手が、俺の肩を座席に縫い止める。
幽霊であるはずの彼女の体が、今は恐ろしいほどの質量と熱を持って、俺を押し潰していた。
スローモーション。
マシロの顔が目の前にある。
彼女の瞳孔が開き、眦には涙が浮かんでいる。
その顔は、「敵への恐怖」ではなく、「俺が動くことへの絶対的な恐怖」に歪んでいた。
「アンタは座ってなさいって言っただろうが!」
同時に、運転席のドロシーが、ステアリングを粉砕するほどの握力でハンドルを極限まで切った。
十トンを超えるマザー号が、慣性の法則に中指を立てるような角度でドリフトする。
タイヤがゴムの焦げる臭いを撒き散らし、車体そのものが巨大な鉄の質量兵器となって、空中のワイバーンに側面から激突した。
ガガガガガッ!!(骨と鉄が軋み合う暴力的な轟音)
巨大な竜が、トラックの装甲に弾き飛ばされ、悲鳴を上げて崖下へと落ちていく。
「年寄りの冷や水って言うだろうが! 若いモンが暴れてんだ、アンタは大人しく緑茶でも啜ってな!」
ドロシーの怒鳴り声が車内に響く。
床に転がり、マシロに押し付けられたまま、俺は天井を見上げた。
心臓の鼓動が、うるさい。
ドクン、ドクン、ドクン。
不整脈の連続。呼吸が浅い。
「(……過保護すぎねえか? まるで、俺が『落としたら即爆発するニトログリセリン』か『国宝級の割れ物』みたいじゃねえか)」
その疑念が、脳裏をよぎる。
いや、疑念ではない。確信だ。
こいつらは、知っているのだ。俺の体が、もう限界をとうに超えていることを。
温泉なんてのは、三流の言い訳だ。
だが。
ハンドルを握るドロシーの、血管が浮き出た手の震えを。
俺の胸を押さえつけるマシロの、今にも消えてしまいそうなほど必死な体温を。
それを突き返して「俺はやれる」と強がるのは、彼女たちの「優しい嘘(優しさという名の速度違反)」を正面から踏みにじる行為だ。
「……ケッ。混浴温泉への情熱ってのは、恐ろしいもんだな。俺の出番は一生なさそうだ」
俺は、頬の筋肉を無理やり引き上げ、強がりのニヒルな笑みを浮かべるのが精一杯だった。
◆
信じられないスピードで、B49Fを突破。
目の前には、B50Fへと続く巨大な光のゲートが、静かにそびえ立っていた。
夜。
ゲート前のキャンプ地。
俺は、信じられないほど疲れ果てていた。
ただ助手席に座っていただけだ。武器も振っていない。
なのに、心臓を動かし、肺で呼吸をし、ただ「存在している」という行為そのものが、魂をサンドペーパーで削られているかのように苦しい。
俺は夕食(パウチの流動食)も半分残し、泥のように這いずるようにしてテントの寝袋へと潜り込んだ。
瞼が、鉛のように重い。
意識が、深い海の底へと沈んでいく。
スー……スー……。
浅く、速い、病人の寝息。
ジンの意識が完全に闇に落ちたのを確認して、ワン・チャンがそっとテントへ歩み寄った。
彼は、ジンの痩せ細った肩に、分厚い毛布をかけ直す。
その手は、料理人の手引きとは思えないほど、小刻みに震えていた。
テントの外。
焚き火を囲むメンバーたち。
温泉の話など、誰の口からも出てこない。
そこにあるのは、通夜のような静寂と、研ぎ澄まされた、悲痛なまでの殺意だけだ。
「……あの方の『呼吸音』が変わった。肺が、限界に近い。……いや、限界を超えている。気力という名の見えない接着剤だけで、崩壊を防いでいる状態だ」
レオが兜を脱ぎ、苦渋に満ちた顔で告げた。
その瞳に、焚き火の炎が赤く揺れる。
「ああ。……ここから先、B50Fは『過去の幻影』が出るエリアだ。精神的にも、肉体的にも、あいつはさらに削られるぞ」
ワンが、短くなったタバコを地面に押し付け、親指で強く揉み消した。
「プランBへ完全移行します。戦闘は全て私たちが引き受けます。マスターには、ただ座って、指揮を執っているフリをさせる。……彼が、彼のままでいられるように。彼に、自分がもう戦えないのだと絶望させないために」
ネオンの冷徹な言葉に、全員が無言で深く頷いた。
「行こう。あいつのエンジンが完全に焼き切れる前に、B100Fに叩き込む。たとえアタシらの手足がもげようが、心臓が止まろうがね」
ドロシーが、低く、重い声で宣言した。
カチ、カチ、カチ……。
テントの中、ジンの懐から時計の音が響く。
それは以前よりも早く、大きく、そして乱暴に。
まるで、止まっていた時間が、ジンの命を燃料にして、猛スピードで逆転し始めたかのように、夜の静寂に吸い込まれていった。




