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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
第五章:泥沼の運び屋と、壊れた味覚

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第116話 『優しい嘘は、泥の味がする』


 パチッ……。


 その音は、世界の終わりのカウントダウンのように聞こえた。

 あるいは、誰かの理性が焼き切れる音だったのかもしれない。


 ダンジョンB30F『迷わずの樹海』。

 先ほどまで、阿鼻叫喚の地獄絵図(主に味覚的な意味で)が繰り広げられていたキャンプサイトは、今は嵐が過ぎ去った後のような、重苦しい静寂に包まれている。

 焚き火の炎が弱まり、赤熱した炭が時折、崩れ落ちる音だけが響く。


 カメラスクロール、右へ。

 テーブルの上には、手つかずの料理(と呼ぶのもおこがましい汚物)が散乱し、地面には嘔吐したまま気絶しているツムギと、OSの再起動画面が表示されたまま硬直しているネオンが転がっている。

 まるで、B級パニックホラー映画の惨殺現場だ。殺人鬼はどこだ? ああ、厨房に立っているあの男だ。


「…………」

「…………」


 沈黙。

 だが、その沈黙は長くは続かなかった。

 耐えきれなくなったピコが、鋭い視線をワン・チャンに向けた。

 その瞳孔が開いている。ストレス値が限界突破している証拠だ。


「……ちょっと、ワン」


 その声は低く、震えていた。怒りではない。理解できない恐怖への拒絶反応だ。

 彼女の手元では、スマホの録画ボタンが押されたままだが、レンズは地面を向いている。


「あんた、何なの? どういうつもり? ジンにあんな……あんな放射性廃棄物みたいな泥を食わせて、『感想』を言わせるなんて。イジメ? それとも新しいパワハラ? 『上司の料理を残すと死刑』っていう社内規定でも作ったの?」


「そうだよワンちゃん! いくらなんでも悪趣味すぎるよ! 私の胃袋はまだ産業革命に対応してないんだよ! ジンさんだって病人でしょ!? 味覚がおかしくなってるってわかってるなら、もっと優しくしてあげなよ! おかゆとか、うどんとか、離乳食とかあるでしょ!」


 ツムギも、口元を拭いながら涙目で抗議する。

 ドロシー婆さんも、腕を組んでワンを睨みつけていた。その表情は、不良債権を掴まされた銀行員のように険しい。


「料理人としての矜持はどうしたんだい? 客の舌が壊れているからって、泥水を出すのがあんたの流儀かい? ……見損なったよ。あんたの店には二度と行かないからね。そもそも店がないけどね」


 非難の嵐。

 当然だ。彼女たちにとって、ワンの行動は常軌を逸した「悪意」にしか見えない。

 だが、ワンは動じない。

 彼は中華鍋の横で、地面に腰を下ろし、震える手でタバコに火をつけていた。

 ジッポーのホイールを回す音が、やけに大きく響く。

 シュボッ。

 紫煙が、夜の闇に溶けていく。


「……悪ふざけ? イジメ? ……ハッ、違げえよ」


 ワンは、吐き捨てるように言った。

 その横顔には、悪役の笑みではなく、迷子になった子供が強がっているような、痛々しい歪みがあった。


「あれは、『確認』だ」


 彼は立ち上がり、テーブルに残された寸胴鍋を、無造作に蹴り倒した。


 スローモーション。

 ワンの足が鍋の側面にヒットする。

 金属が凹む音。

 鍋が傾き、重力に従って横倒しになる。

 中から、ドロリとした粘度の高い液体が、まるで生き物のように溢れ出す。

 ベチャァァァ……。

 地面に広がっていく灰色。

 そこから立ち昇るのは、雨上がりの泥の臭いと、焦げた骨の異臭、そしてトリカブト特有の鼻を刺す刺激臭だけだ。


「見ろよ。これが現実だ」


 ワンは、その泥溜まりを指差した。


「あれは、ただの泥と、トリカブト・モドキと、魔物の骨だ。旨味成分なんて1ミリグラムも入ってねえ。ネズミ一匹殺せる毒スープだ。……『優しい味』? 『お袋の味』? そんなもん、するわけがねえんだよ」


 ワンの声が、夜の森に虚しく響く。

 風が止まった。


「あいつは嘘をついたんじゃねえ。……『幻覚』を食ってたんだ」


 ◆


 ザワッ……。

 全員の背筋に、氷柱をねじ込まれたような悪寒が走った。

 心臓が早鐘を打つ。ドクン、ドクン。

 血液が逆流するような感覚。


「え……? でも、ジンさん、美味いって……温かいって……」


 ツムギが混乱して呟く。脳が理解を拒否している。

 その横で、再起動を終えたネオンが、淡々とした機械音声で補足説明(答え合わせ)を開始した。

 その瞳には、残酷なまでの分析結果が、マトリックスのコードのように高速で流れている。


「……肯定。推論プロセス終了。マスターの味覚受容体からの信号入力はゼロ、もしくはノイズのみでした。脳は『味』という情報が欠落したことにパニックを起こし、自己防衛本能により、過去のデータベースから『状況的に最も近い記憶データ(母親の粥)』を検索。それを現在の知覚情報として強制的に上書き(オーバーライド)しました」


 ネオンは、首を少しだけ傾げた。それは、彼女なりの「悲しみ」の表現だった。


「つまり、マスターは泥を食べながら、現実の味ではなく、脳内で再生された過去の記憶を味わっていたのです。……壊れたラジオが、放送終了後の砂嵐の中で、昔のヒット曲を勝手に流し続けるように」


 壊れたラジオ。

 その比喩が、あまりにも的確で、あまりにも残酷だった。

 ピコの手から、握りしめていたスプーンが滑り落ちる。

 カラン……。

 乾いた音が、世界の均衡を崩した。


 全員が理解してしまった。

 ジンは、「不味いけれど、気を使って美味しいと言った」のではない。

 そんな生易しいレベルの話ではない。

 「本当に味がわからず、泥を思い出の味だと錯覚するほど、感覚の回路が焼き切れている」のだと。


 幻覚を見るほどの、機能不全。

 あの強くて、適当で、いつもヘラヘラ笑って俺たちを守ってくれていた「親父」の背中。

 それが急速に、小さく、脆く、そして遠いものに見えてくる。

 彼は今、同じ場所にいながら、俺たちとは違う世界(感覚のない世界)に生きている。

 透明なガラスの壁。

 呼んでも、叫んでも、こちらの声が届かない場所へ、彼一人が歩いていってしまったような孤独感。


 ◆


 信じられない。信じたくない。

 嘘だと言ってほしい。

 そんな思いが、彼女たちの足を動かした。

 ピコ、ドロシー、ツムギ、そしてネオン。

 四人は、吸い寄せられるようにジンのテントへと近づいた。

 足音を忍ばせ、息を殺して。

 心臓の音がうるさい。自分の呼吸音が、嵐のように聞こえる。

 テントの入り口の隙間から、中を覗き見る。

 そこで見たものは、安らかに眠る病人の姿ではなかった。


 カメラ、ズームイン。

 テントの隙間を抜け、薄暗い内部へ。

 狭いテントの中、ジンは寝袋の上であぐらをかき、背中を丸めていた。

 その背中は、枯れ木のように痩せて見える。

 Tシャツから覗く首筋には、黒い血管のような紋様が浮き出ている。


「……ゴホッ、ガハッ……オエッ……」


 湿った咳。

 ジンは口元をティッシュで押さえている。

 彼が手を離すと、そのティッシュは真っ黒に染まっていた。

 血ではない。

 肺に溜まったススだ。

 彼の体内で進行する炭化が、呼吸器まで達している証拠だ。内側から焼けているのだ。

 ジンはそれを、汚いものを見るような目で見つめ、無造作に丸めてゴミ袋に放り込んだ。

 日常動作。慣れきった手つき。それが余計に恐ろしい。


 そして。

 彼は震える手で、胸ポケットからハイライトを取り出した。

 最後の一本だ。箱を振っても音はしない。

 口にくわえ、オイルライターを手に取る。

 カチン。

 火がついた。

 ここまでは、いつものハードボイルドなジンの仕草だ。

 だが。


 カチン、ジュッ。


 彼の手元が狂った。

 微細な痙攣。

 ライターの火ではなく、火のついたタバコの先端が、あろうことか彼の人差し指の腹に押し付けられたのだ。


「あっ!」


 覗き見ていたピコが、小さな悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の口を塞ぐ。

 普通なら、飛び上がるほどの熱さだ。

 反射的に手を引っ込め、指を耳たぶに当てて冷やすはずだ。

 だが。


 ジンの時間は、止まっていた。

 

 一秒。

 タバコの火種が皮膚に触れている。

 二秒。

 皮膚が焼け、白煙が上がる。

 三秒。

 肉が焦げる嫌な臭い――髪の毛を燃やした時のような、鼻の奥にこびりつくタンパク質の変性臭が、狭いテント内に充満し始める。

 それでも、彼は動かない。

 まばたき一つしない。

 まるで、自分の指が他人のものであるかのように。

 あるいは、その程度の熱刺激では、脳まで信号が届かないかのように。

 回線切断タイムアウト


「……あ?」


 四秒後。

 ようやくジンが気づいた。

 痛みで気づいたのではない。「焦げる臭い」と「視覚情報」で気づいたのだ。


「……あー、クソ。またやったか」


 ジンは、独り言を漏らした。

 その声には、痛みへの恐怖も、自分への怒りもない。

 ただ、「またコップを倒してしまった」程度の、日常の些細な失敗に対する苛立ちだけがあった。

 彼は顔色一つ変えず、焦げて黒くなった指先の皮膚を、まるでズボンについた泥汚れでも払うかのように、ゴシゴシとデニムの生地で擦り落とした。


 ベリッ。

 焼けた皮膚が剥がれる音が、鼓膜にへばりつく。

 赤い肉が見えているのに、血さえ滲んでこない。血管が焼けて塞がっているのか。


「……熱いのはわかってるが、反応が遅せぇな。神経まで錆びついてきやがったか。……ポンコツが」


 ジンは自分の左手を睨みつけ、吐き捨てた。

 痛みはあるはずだ。指先は赤く腫れ上がり、水ぶくれができ始めている。

 だが、それを「危険信号」として脳が処理できていない。

 あるいは、背中の常時続く激痛(炭化)が強力なノイズキャンセリングのように働いて、指の火傷程度の信号はかき消されているのかもしれない。


 人間としての生存本能の欠落。

 それは完全な「死」ではない。

 だが、それはもっと恐ろしい、生きたまま部品がすり減っていく**「摩耗」**だった。

 彼という人間を構成するネジが、一本、また一本と抜け落ちていく音が聞こえた気がした。


 ◆


 ガサッ。

 ドロシーが、限界に達したピコとツムギの襟首を掴み、強引にテントから引き剥がした。

 全員が森の陰、焚き火の明かりが届かない場所まで後退する。

 そこまで来てようやく、ツムギが堰を切ったように泣き出した。


「うっ……うぐっ……嫌だよ……。ジンさん、死んじゃうの……? あんなの、生きてる人間の反応じゃないよ……! ロボットみたいだったよ……! 痛いのに、痛くないフリしてるんじゃない……本当に、壊れちゃってるんだ……!」

「……ツムギ」

「嫌だ嫌だ! 置いていかないでよ! 一緒に地上に戻るんでしょ!? 美味しいものいっぱい食べるんでしょ!? 私の爆弾で、ドカンと解決できないの!?」


 ツムギの声が夜に響く。

 ピコも、口元を押さえたまま、肩を激しく震わせていた。アイライナーが涙で滲み、黒い筋を作っている。

 あの光景は、トラウマだ。

 ゾンビ映画よりも恐ろしい、「親しい人が壊れていく」という現実。

 日常が崩壊する音がした。


「……泣くんじゃないよ」


 ドロシー婆さんが、低い声で言った。

 彼女は、ツムギの頭を乱暴に、しかし力強く撫でた。その手は、ゴツゴツとして温かかった。


「あいつの前で泣くんじゃない。……あいつはね、自分が壊れていることを誰より知っていて、それでも『親父』の仮面を被り続けようとしてるんだ。あたしらに心配かけまいとして、必死に演技してるんだよ。……その大根役者の舞台に、客がケチつけちゃおしまいだろ」


 ドロシーの声もまた、微かに震えていた。

 だが、彼女の瞳には、迷いではなく、老兵の覚悟が宿っていた。


「そんな男の前で、あたしらがメソメソ泣いてみろ。あいつの『男のプライド』はどうなる? あいつの最後の頑張りを、あたしらが踏みにじってどうするんだい」


 その言葉に、ツムギが唇を噛み締め、必死に嗚咽を飲み込む。

 そこへ、ワン・チャンが歩み寄ってきた。

 彼は、新しいタバコに火をつけ、深く、深く紫煙を吐き出した。

 その横顔は、もう「ただの料理人」ではなかった。

 戦場に立つ戦士の顔だった。


「……ドロシーの言う通りだ」


 ワンは、中華鍋の取っ手を、ギリギリと音がするほど強く握りしめた。

 その拳には、迷いはない。


「あいつは、最後まで『親父』でいようとしてる。なら、俺たちは騙されたフリをしてやるのが仁義だ」

「ワン……」

「その代わり、もう休憩は終わりだ。……死ぬ気で走るぞ」


 ワンの瞳に、焚き火の炎が映り込み、揺らめく。

 それは怒りの炎であり、命の炎だった。


「あいつのエンジンが焼き切れる前に、ゴール(B100F)に叩き込む。たとえ手足がもげようが、心臓が止まろうが、あいつを生きたまま地上に送り返す。……それが、不味いスープを『美味い』と言ってくれた馬鹿野郎への、俺たちなりの落とし前だ」


 その言葉に、全員が顔を上げた。

 マシロが、静かに頷く。彼女は最初から、その覚悟を決めていたのだ。

 ネオンが、再起動完了の電子音を鳴らす。

 ピコが、涙を袖で乱暴に拭い、化粧の落ちた顔で不敵に笑う。


「……上等じゃない。やってやろうじゃないの。私の美貌が台無しだけど、今回だけは特別サービスよ」

「……ですね。泣いてる暇があったら、一メートルでも前に進みましょう。爆破して道を切り開きます」


 引きのカメラワーク。

 夜明け前。

 空の向こうが、薄紫色に白み始めている。

 もう、誰も寝ていない。

 全員が、無言で武器の手入れをし、荷物を整理し、靴紐を固く結び直している。

 その目は赤く腫れているが、もう涙はない。


 キュルルル……ドゥン!!

 トラック『アイアン・マザー号』のエンジンがかかる。

 壊れかけたトラックと、壊れかけた運転手。

 そして、それを支える12人の家族たち。

 マフラーから吐き出される黒煙が、朝霧を切り裂いていく。

 静かな、しかし鬼気迫る「ラストラン」の予感を残して、物語は加速する。

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