第115話 『優しくて、残酷な、泥の味』
「……いただきます」
その言葉が、地獄への片道切符だとは、まだ誰も知らなかった。
いや、薄々は感づいていたかもしれない。
目の前に置かれた「それ」が発するオーラは、明らかに食品衛生法だけでなく、ジュネーヴ条約にも違反していたからだ。
ダンジョンB30F『迷わずの樹海』のキャンプ地。
焚き火の爆ぜる音だけが響く静寂の中、俺たち『アンラッキー・サーティーン』の面々は、戦慄と共にスプーンを握りしめていた。
ワン・チャン特製、『特製・再生スープ』。
その名称は、あまりにも欺瞞に満ちている。
器の中で淀んでいるのは、ドブ川の底を三日間さらい続けて煮詰めたような、粘度の高い灰色の液体。
具材は見えない。ただ、時折ブクブクとあぶくが立ち、破裂すると同時に、雨上がりのグラウンドの泥と、焼却炉の底の灰を混ぜたような、鼻腔を物理的に殴打する異臭が立ち昇る。
視覚的インパクト:ゼロ(むしろマイナス)。
嗅覚的インパクト:致死量。
食欲:家出して行方不明。
「い、いただきまーす……」
最初に口火を切ったのは、食いしん坊のツムギだった。
彼女は「ワンちゃんの料理にハズレなし!」という過去の栄光を信仰し、震える手でスプーン一杯の泥を口に放り込んだ。
瞬間。
世界から色が消えた。
カッッッ!!!!(謎の集中線)
ツムギの動きが停止する。
コマ送り。
彼女の瞳孔が開き、白目が剥き出しになり、魂が口から半透明のエクトプラズムとなって抜け出していくのが見えた。
カラン……。
手からスプーンが滑り落ちる音が、永遠のように長く響く。
「……あ、お花畑が見える。……菜の花が一面に咲いてるよ……。あ、おばあちゃんだ。おばあちゃんが川の向こうで手招きしてる……。なんだ、おばあちゃん、その川の水、なんで灰色なの? 三途の川も汚染されてるの? 環境問題なの?」
臨死体験。
一口で彼岸へのツーリングに出かけた彼女は、そのまま白目を剥いて背後へ倒れた。
ドサッ。
ビクン、ビクンと痙攣している。
「ツムギィィィ!! しっかりしろ! 戻ってこい! そこはまだ早い! まだ連載の途中だぞ! 打ち切りエンドみたいな死に方すんな!」
ピコが絶叫し、そのショックで自分のスープを誤って飲み込んでしまった。
「ブフォッ!!」
盛大なる噴射。
霧状になった灰色の液体が、向かいに座っていたドロシー婆さんの顔面に直撃する。
スプラトゥーンのような惨劇。
「んぎゃああああ! 何これェェェ! 産業廃棄物!? 舌が! 私の舌が! 痺れて感覚がない! これ料理じゃないわよ! 生コンクリートよ! 私の舌が舗装工事されてる! 国道一号線が開通しちゃったわよ!」
「ぐえぇぇ! 何すんだこのアマ! ……って、ペッペッ! にっが! 何この味!? これ、オイル交換した後の廃油に古タイヤを漬け込んだ味がするよ! こんなもん食ったらエンジンがいかれちまう! 排ガス規制に引っかかるよ!」
ドロシーが顔を拭いながら悶絶する。
その横で、ネオンが静かにスプーンを置き、機械的な声で告げた。
その瞳には、高速で流れるエラーログが映し出されている。
「警告。警告。生体への深刻なクリティカルエラー発生。味覚受容体が自壊しました。胃袋がフォーマットを要求しています。……システム、ダウン。再起動……できません……。さようなら、世界……」
プツン。
ネオンの瞳からハイライトが消え、彼女は物理的にフリーズした(比喩ではなく、本当に関節が固定された)。
背景にはWindowsのブルースクリーンが見えるようだ。
阿鼻叫喚。
地獄絵図。
ここはダンジョンのキャンプ地ではない。処刑場だ。
だが、その惨劇の中心で、ただ一人、沈黙を守っている男がいた。
この毒物の創造主、ワン・チャンだ。
彼は、周囲のブーイングや、泡を吹いて倒れる仲間たちを完全に無視していた。
BGMが消える。
彼の視線は、ただ一点。
俺、黒鉄ジンだけに注がれている。
彼の手にはお玉が握りしめられているが、その拳は白くなるほど強く握られ、血管が切れそうなほど脈打っている。
その目は、祈るようでもあり、同時に、断頭台の露と消える囚人を見つめる執行人のようでもあった。
◆
「(……おいおい、大袈裟だな。ワンの料理だぞ?)」
俺は、周囲の惨状を見て、心の中で苦笑した。
確かに見た目は最悪だ。匂いもキツイかもしれない。
だが、ワンは言っていた。「体にいい薬草」を使ったと。
良薬口に苦し、という言葉がある。
多少苦くても、作った本人の前で「不味い」と言ってのけるのは、男の流儀に反する。
昭和の男たるもの、出されたものは黙って食うのが美学だ。たとえそれが泥でもな。
俺はスプーンを手に取り、その灰色の泥沼を掬い上げた。
ズブリ。
重い。
スプーンから垂れる粘液が、糸を引いている。
スローモーション。
俺の手が、ゆっくりと口元へ近づいてくる。
ワンの視線が痛いほど突き刺さる。
分かってるよ、ワン。俺のためを思って作ってくれたんだろ?
俺は、躊躇なくそれを口へと放り込んだ。
パクッ。
……口の中に広がる世界。
それを表現する言葉を、俺は持っていなかった。
なぜなら、何も感じないからだ。
(……おい、どうなってる?)
本来なら、ここで吐き気を催すほどの土臭さと、舌が麻痺するほどの強烈な苦味が襲ってくるはずだ。
ピコたちがのたうち回っているのだから、相当な破壊力のはずだ。
だが、俺の脳に届く信号は、あまりにも希薄で、断片的だった。
『温度:ぬるい(38度)』……生ぬるい不快感。
『粘度:高い(半固形)』……口の中にへばりつく悪意。
『異物感:あり(ジャリジャリする)』……砂利? 骨?
それだけだ。
味覚センサーは沈黙したまま、何のデータも返してこない。
完全なる沈黙。
俺は、その泥のような物体を、顎を動かして咀嚼する。
ジャリ、ジャリ。
砂を噛む音が、頭蓋骨を伝導して直接鼓膜を揺らす。
その音だけが、今の俺にとっての「食事」の実感だ。
俺は、それを喉の奥へと流し込む。
ゴクリ。
炭化した声帯に、泥が張り付く感覚。
少し痛い。
まるで、傷口に粗塩を擦り込まれたような、熱を持った痛み。
だが、その痛みさえも、今の俺には「生」の実感として愛おしい。
痛覚があるということは、まだ生きているということだ。
俺は、空になったスプーンを見つめ、思考を巡らせる。
味は分からない。
だが、感想を言わなければならない。
ワンが俺を見て待っている。
俺のために作ってくれた、このスープの感想を。
(……なんて言えばいい? 『味がしねえ』なんて言ったら、ワンが悲しむだろ?)
俺の脳内検索エンジンがフル回転する。
CPU使用率100%。冷却ファンが唸りを上げる。
過去の記憶データベースへアクセス。
検索ワード:『ドロドロした食べ物』『温かい』『ワンの料理』。
検索中……。
検索中……。
ヒットなし。
「該当するファイルが見つかりません」のエラーメッセージ。
クソッ、もっと広げろ! 連想ゲームだ!
このぬるさ。この口当たり。
……ああ、そうだ。
思い出した。
走馬灯のように蘇る、セピア色の記憶。
三十年前。俺がまだガキだった頃。
熱を出して寝込んだ時に、お袋が作ってくれた粥。
あれも、こんな風にドロドロしていて、味気なくて、でも温かかった。
そうだ、あれだ。
あれは「優しい味」だったはずだ。
よし、これだ。
俺は、その記憶の中の美化された味を、現在の空っぽの感覚に上書き保存する。
脳内で味をレンダリングしろ。
テクスチャ貼り付け完了。
出力開始。
◆
俺はスプーンを置き、顔を上げてワンを見た。
そして、ニヤリと笑った。
頬の筋肉が引きつり、老婆のようなシワが寄る。
枯れ果てた喉を震わせて、俺は言った。
「……ん。悪くない」
その声は、錆びついた扉が無理やり開けられるような、不快な金属音だった。
「……昔、お袋が風邪の時に作ってくれた粥みてぇだ。……優しい味がするよ」
ピタッ。
世界が静止した。
その一言で、その場の空気が絶対零度まで凍りついた。
風の音も、焚き火の音も消えた。
泡を吹いて倒れていたツムギが、ピクリとも動くのをやめた。
悶絶していたピコやドロシーも、動きを止めて、スローモーションで俺の方へ顔を向ける。
その視線は、「は? 何言ってんのコイツ?」という困惑と、そして底知れぬ恐怖に染まっていた。
「(……優しい味? これのどこが? 正気か?)」
「(……味蕾が死滅してんのか? それとも脳が腐ってんのか? これ、産業廃棄物よ?)」
全員の心の声が、テレパシーのように聞こえてくるようだ。
無理もない。彼女たちにとって、これは劇薬であり、汚泥だ。
それを「優しい味」と評した俺は、味覚音痴を通り越して、もはや人間の形をした別の何か(モンスター)に見えているだろう。
だが。
ワンだけは違った。
ガタンッ!
ワンが、後ずさりして調理台に背中をぶつけた。
中華鍋が落ちて、ガランガランという乾いた金属音が虚しく響く。
彼の顔色は、青ざめるを通り越して、土気色になっていた。
その瞳孔が、極限まで収縮している。
絶望。
決定的な敗北。
そして、心の底からの慟哭。
ワンは知っている。
このスープの中身が、泥と、毒草と、骨であることを。
そこに「優しさ」など一ミリも入っていないことを。
これは悪意の塊だ。挑戦状だ。俺のプライドを懸けた毒だ。
それを「優しい味」と言った。
つまりジンは、味を感じていないどころか、**「記憶の中の味」を完全に捏造して、目の前の現実に無理やり当てはめている**のだ。
現実(泥の味)と、認識(お袋の味)の乖離。
そのあまりに巨大な、グランドキャニオンよりも深いギャップ。
それがワンに突きつけた事実は一つ。
『コイツはもう、壊れている』
ジンは気を使って嘘をついているつもりなのだろう。
「美味い」と言えば、俺が喜ぶと思って。
だが、その不器用すぎる嘘が、あまりにも下手くそで、あまりにも現実とかけ離れすぎているために、逆に「味覚が完全に死んでいること」を、残酷なまでに証明してしまった。
「(……嘘つき野郎が)」
ワンの唇が震える。
怒りではない。
ただただ、悲しかった。
自分の料理で、友の舌を試そうとした自分への嫌悪。
そして、そこまでして自分たちに心配をかけまいとする、この馬鹿で、不器用で、愛すべき男への哀れみで、胸が張り裂けそうだった。
心臓が雑巾のように絞られる痛みが走る。
◆
俺は、周囲の静けさを「俺の食いっぷりに感心している」とポジティブに解釈した。
よし、いける。バレてない。
俺は器を持ち上げ、残りのスープを一気に飲み干すことにした。
「ゴクッ……ゴクッ……」
喉仏が動く。
泥が食道を流れ落ちていく音が、気味悪いほど鮮明に聞こえる。
痛い。熱い。苦しい。
だが、俺は止まらない。
最後の一滴まで、砂利ごと飲み干し、器をテーブルに置いた。
カラン、という虚しい音が、夜の森に吸い込まれていく。
「……ぷはっ。ごちそうさん」
俺は、袖口で口元を拭った。
泥が付着して、口の周りが黒く汚れている。まるでピエロの化粧だ。
「……お代わり、あるか?」
俺は、ワンに向かって器を差し出した。
最高の賛辞のつもりだった。
これ以上ない友情の証のつもりだった。
だが、ワンは俯いたまま、動かない。
前髪が目に掛かり、表情が見えない。
ただ、肩が小刻みに震えているのが見えた。
「……おい、ワン?」
「……ねえよ」
小さな声だった。
蚊の鳴くような、掠れた声。
「……品切れだ。もう、ねえよ」
その声は、泣いているようにも聞こえた。
これ以上、あんな泥を仲間に食わせるわけにはいかない。
そして何より、それを「美味い」と言わせてしまう、この残酷で滑稽な道化芝居(茶番)を続けられない。
ワンの心が、ポキリと音を立てて折れた瞬間だった。
「……そうか。ちぇっ、ケチだな」
俺は肩をすくめ、笑って見せた。
そして、立ち上がり、テントへと戻ろうとする。
その背中を見送る仲間たちの目には、もう「呆れ」はない。
あるのは、正体不明の「不安」と、ワンの異様な様子への「戸惑い」だけ。
誰も言葉を発せない。
この空間に漂う、重苦しい「何か」の正体を、誰も直視したくないからだ。
マシロがそっと、ワンの肩に手を置いた。
彼女だけは、全てを知っている。
その手が「もう十分ですよ」と語りかけているようだった。
ワンは何も言わず、残ったスープの入った寸胴鍋を、思い切り蹴り飛ばした。
ガシャァァァン!!
激しい金属音が夜を切り裂く。
鍋が転がり、灰色の泥が地面にぶちまけられる。
それはまるで、俺たちの嘘と真実が混ざり合った、汚れた感情そのもののように見えた。
泥は地面に染み込み、決して消えないシミを残した。




