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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
第五章:泥沼の運び屋と、壊れた味覚

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第114話 『料理人の嘘と、泥水のフルコース』



 パチッ……。


 爆ぜる薪の音が、鼓膜を震わせる。

 その音は、0.1秒ほどの時間をかけて森の木々に反響し、さらに0.2秒かけて俺の壊れかけの聴覚神経に到達し、脳内で「焚き火の音」として処理される。

 遅い。

 何もかもが遅い。

 世界がまるで、処理落ちしたオンラインゲームのようにラグい。


 ダンジョンB30F『迷わずの樹海』。

 極彩色の殺人光線が飛び交うB11F『水晶渓谷』を抜け、緑豊かなこのセーフエリアに辿り着いた俺たち『アンラッキー・サーティーン』は、久方ぶりの安息の中にいた。

 ……はずだった。


「…………」

「…………」


 キャンプサイトを支配しているのは、マイナスイオン溢れる癒やしの静寂ではない。

 地雷原の真ん中でピクニックをしているような、胃の腑がねじ切れる緊張感だ。

 その発生源は、焚き火のそばで体育座りをしている俺、黒鉄ジンだ。


「……ゴホッ。……カハッ……」


 俺が咳をする。

 たったそれだけの動作が、周囲の空気を凍てつかせる。

 俺の喉の奥から漏れるのは、人間の咳というよりは、廃車寸前のトラックが最後の力を振り絞ってエンジンを点火しようとして失敗した時のような、乾いた金属音に近い。

 ヒュルルル……という吸気音。

 ガガガッ……という排気音。

 俺の声帯は今、炭化した粘膜と、再生しかけた肉芽が複雑に絡み合い、前衛芸術のような状態になっている(と、ヤクモなら興奮して診断するだろう)。


「(……痛えな、チクショウ)」


 痛覚はないはずなのに、脳が勝手に「ここは痛い場所だ」とエラーを吐き出している。

 俺は首を巡らせた。

 視界の端で、マシュマロを焼いていたピコが、俺の咳を聞いた瞬間にビクッ! と肩を跳ねさせ、マシュマロを焚き火の中に落とす瞬間が見えた。

 スローモーション。

 白いマシュマロが重力に従って落下し、赤い炭火に接触し、ジュワッと音を立てて焦げていく様が、やけに鮮明に見える。


「……ひっ! 今の音、マジで心臓に悪いわよ! 黒板を爪で引っ掻いた音をアンプで増幅させたみたいだったわ! 私のSAN値がゴリゴリ削れていく音がする!」

「ピコ、静かに。ジンは今、変声期なんです。ハードボイルドな男になるための脱皮中なんです。ほら、蝶がサナギから出る時って、こういう音がするじゃないですか」


 マシロが俺の背中をさすりながら、必死にフォローを入れる。

 だが、その手は震えている。

 背中越しに伝わる微振動。

 それは彼女の恐怖か、それとも俺の体が震えているのか。

 境界線が曖昧だ。俺と世界を隔てる膜が、どんどん薄く、脆くなっていく。


「……腹、減ったナ」


 俺は独り言のように呟いた。

 その声は、自分でも引くほど終わっていた。

 砂利をミキサーにかけ、そこに老婆の怨念とデスボイスをトッピングして、さらにノイズキャンセリング機能が故障したスピーカーから出力したような、不協和音の塊。

 もはや日本語として認識されるのが奇跡だ。


 そんな俺たちの様子を、少し離れた場所に設営された簡易テント――『厨房』の中から、じっと見つめる男がいた。

 ワン・チャンだ。


 いつもなら、「オラァ! 餌の時間だ豚ども! 食いねェ豚はただの豚だ、さっさと並びやがれ!」と中華鍋をお玉でガンガン叩いて威嚇射撃をしてくる彼が、今日は不気味なほど静かだ。

 ズームイン。

 カメラがテントの中へ入る。

 ワンは、巨大な寸胴鍋の前に立ち尽くしている。

 その背中から立ち昇るオーラは、料理人のそれではない。爆弾処理班のそれに近い。

 鍋の中にあるのは、豚骨でも鶏ガラでもない。

 彼がこのB30Fの湿地帯で、全身泥だらけになりながら集めてきた、**『高密度のシルト』**と、舐めただけで舌が壊死すると噂される**『地獄の解毒草ヘル・デトックス』**、そして正体不明の魔物の**『焦げた骨』**だ。


 ボフッ……ボフッ……。

 鍋の中身は、およそ料理とは呼べない、ドブ川の底のような灰色をしている。

 粘度が高く、泡が割れるたびに、周囲に緑色の飛沫が飛ぶ。

 その飛沫が地面に落ちると、ジュッといって草が枯れる。

 もはや料理ではない。化学兵器の製造工程だ。


「(……客が味を分からねえなら、何を出しても同じか?)」


 ワンの独白。

 彼は、お玉でその灰色の液体を掬い上げ、ぽたりと落とす。

 糸を引く粘液。

 その瞳が揺れる。網膜に映るのは、自身の料理人としてのプライドが崩壊していく幻影だ。

 こんなものを客に出すなど、万死に値する。

 だが。


「(……いや、違う。分からないなら、分かるまでぶん殴るのが俺の流儀だ)」


 カッ!

 ワンの瞳孔が開く。集中線が走る。

 彼は奥歯を噛み締めた。ギリリ、とエナメル質が悲鳴を上げる音が脳内に響く。

 あいつは嘘をついている。

 「美味い」と笑って、何も感じていない舌で、砂を噛むように俺の料理を食っている。

 それが許せない。

 不味いなら不味いと言え。味がしないなら、味がしないと泣き喚け。

 その「気遣い」という名の嘘が、料理人である俺を一番傷つけるんだよ、クソ野郎。


 ワンは、鍋の中にさらに一掴みの『苦味草』を放り込んだ。

 涙が出そうになるのを堪え、彼は「最高の毒」を練り上げる。

 これは料理じゃない。

 ジンという男の仮面を、物理的に剥ぎ取るための「凶器」だ。


 ◆


「へい、お待ち。まずは前菜だ」


 ワンが厨房から出てきた。

 その手には、大皿に盛られた串焼きが乗っている。

 香ばしい匂い。脂が炭火に落ちて煙となる、あの暴力的なまでの食欲をそそる香り。

 ……まあ、俺にはその「香り」すらも、遠い記憶の中のデータでしかないのだが。


「わーい! 肉だー! タンパク質だー! 筋肉が喜んでるわァ! 咀嚼筋がアップを始めました!」

「いただきまーす! ワンちゃんの串焼き、久しぶりね! この照り! この焦げ目! ルーブル美術館に飾れるわ!」


 ドロシー婆さんとツムギが、飢えたピラニアのように串焼きに飛びつく。

 ネオンも「栄養補給プロセスを開始。咀嚼回数設定、三〇回」と呟きながら、無表情で串を二本同時に口に突っ込んでいる。

 その光景は、いつもの『アンラッキー・サーティーン』の食卓だ。平和そのものだ。


「……ジン、あんたも食え」


 ワンが、俺の目の前に皿を置いた。

 そこには、こんがりと焼き目のついた鶏肉の串焼きが一本。

 見た目は完璧だ。

 俺は震える手で串を手に取る。


 ここから、俺の体感時間は通常の百倍に引き伸ばされる。

 俺の指先が串に触れる。

 本来なら「熱い」と感じるはずだ。

 だが、俺の指先にある受容体は完全に沈黙している。

 まるで、分厚いゴム手袋越しに触れているような、隔靴掻痒の感覚。

 俺は、それを口元へ運ぶ。

 串が近づくにつれ、鼻孔を刺激するはずの「炭火の香り」を探すが、見つからない。

 どこだ? 匂いはどこに行った?

 脳内の検索バーがグルグルと回る。

 『該当するファイルが見つかりません』

 クソッ、またこれか。


 俺は大きく口を開け、肉を一切れ噛みちぎった。

 スローモーション。

 歯が肉の繊維を断ち切る感触だけが、頭蓋骨を伝って響く。

 グチャリ。

 口の中に広がるのは、肉汁の旨味……ではない。

 ゴムを噛んでいるような弾力。

 そして、圧倒的な「無」。

 塩味も、甘みも、苦味もない。

 ただ、温かい固形物が、唾液と混ざり合って粉砕されていく物理現象だけが、口の中で起きている。

 まるで、消しゴムを噛んでいるようだ。いや、消しゴムの方がまだマシかもしれない。ゴム臭さがある分、現実味がある。

 今の俺の口の中は、真空の宇宙空間だ。


 (……おい、味覚中枢! 仕事しろ! 給料分働け! ストライキか!?)


 俺は脳内で罵倒するが、返事はない。

 美味いのか? 不味いのか?

 分からない。

 だが、ここで「味がしねえ」なんて言えるわけがない。

 ワンが作ったんだ。美味いに決まっている。

 俺の脳内コンピュータが、過去のデータベースを高速検索する。

 走馬灯のように駆け巡る、過去の食事の記憶。

 検索ワード:『ワン・チャンの串焼き』『味の傾向』『前回の感想』。

 検索結果ヒット:『絶妙な塩加減』『ブラックペッパーの刺激』『溢れる肉汁』。


 よし、これだ。

 俺はその検索結果を、現在の感覚として強引に上書き保存する。

 脳内で味を捏造レンダリングするんだ。


「(……脂の乗りがいいな。それに、この塩加減……絶妙だ。強すぎず、弱すぎず、肉の甘みを引き立ててやがる。アンデス産の岩塩か?)」


 俺は肉を飲み込み(喉を通る感覚すらない)、ニヒルに笑って見せた。

 顔面神経麻痺寸前の頬肉を釣り上げ、枯れた喉を震わせて、感想を紡ぐ。


「……美味いな。塩加減が最高だ。さすがワンだ」


 俺は、親指を立ててサムズアップする。

 完璧な演技だ。アカデミー主演男優賞モノだ。

 これなら、誰も俺の異変には気づかないだろう。


 だが。

 ワンの表情が、凍りついた。

 背景のエフェクトが、一瞬で寒色系に変わる。


「(……嘘をつくな。今の肉は、あえて塩を振ってねえんだよ)」


 ワンの心の声が、空間を切り裂いて聞こえた気がした。

 ワンの視線が、俺の喉元に突き刺さる。

 彼は俺を見下ろしている。

 その目は、軽蔑でも怒りでもなく、深い悲しみに染まっていた。

 俺が食べたのは、下味すらつけていない、ただ焼いただけの素焼きの肉だ。

 それを「塩加減が最高」だと?

 

 ワンの手が、エプロンの端を強く握りしめる。血管が浮き出るほど強く。

 確信。そして絶望。

 こいつはもう、味覚がないとかそういうレベルじゃない。

 自分が何を口に入れているのか、その「情報」すらも、脳内で勝手に捏造している。

 壊れている。

 ジンという人間のOSは、バグだらけのエラーを吐き出しながら、それでも「正常」なフリをして稼働し続けている。

 その痛々しさに、ワンは泣き出したくなる衝動を必死で抑え込んだ。

 心臓が早鐘を打つ。ドクン、ドクンと、不整脈のようなリズムで。


「……そうかよ。塩加減が、最高かよ」


 ワンは低く呟いた。

 その声の震えに、俺は気づかない。

 俺の耳には、自分の咀嚼音ノイズと、耳鳴りしか聞こえていないからだ。


 ◆


「さて、メインディッシュだ」


 前菜の皿が空になった頃、ワンが動いた。

 彼は厨房に戻り、あの巨大な寸胴鍋を抱えて戻ってきた。

 その足取りは、死体を運ぶ葬儀屋のように重々しい。

 地面を踏みしめるたびに、ズシン、ズシンと地響きがするような錯覚。

 ドンッ!!

 テーブルの中央に、鍋が置かれる。

 その衝撃で、テーブルの上のコップが跳ね、スプーンが宙を舞った。


「おいおい、なんだそのデカい鍋は。今日は鍋パーティーか? 尺稼ぎにしては豪華じゃないか」

「期待していいのかしら? フカヒレ? アワビ? それともドラゴンのテールスープ? 予算大丈夫?」


 ピコとドロシーが期待に目を輝かせる。

 ワンは何も言わず、無表情で鍋の蓋に手をかけた。

 その手つきは、パンドラの箱を開けるそれに似ていた。


「……心して食え。俺の、最高傑作だ」


 パカッ。


 蓋が開けられた瞬間。

 ボワァッ……。

 立ち上る湯気と共に現れたのは、黄金色のスープ――ではなく。

 ドブ川の底のような、灰色で、ねっとりとした粘り気のある、正体不明の液体だった。

 具材は見当たらない。

 ただ、ブクブクと地獄の釜のように泡立ち、時折、パチンと気泡が弾けて緑色の汁が飛ぶ。

 その泡の一つ一つが、髑髏の形に見えるのは気のせいか?


「…………」

「…………」


 全員の動きが止まった。

 時が止まった。

 コマ送り。

 ツムギの笑顔が引きつり、ドロシーの口が半開きになり、マシロが白目を剥く。

 ネオンの目が、カシャカシャと音を立てて高速フォーカスする。AR表示が視界を埋め尽くす。


「警告。警告。視覚情報と嗅覚情報が『食品』の定義から逸脱しています。成分分析を開始……泥、苔、炭、謎の骨カルシウム、そして致死量ギリギリの薬草成分。結論:これはスープではありません。流動性の『セメント』です。あるいは産業廃棄物です。直ちに廃棄を推奨します」


 ネオンが淡々と事実を告げる。

 その言葉を皮切りに、悲鳴が上がった。


「ぎゃああああ! 何これェェェ! ワンちゃん、ついにトチ狂ったの!? これ料理!? これ絶対に食べちゃいけない色のやつでしょ! マリオでも食べたら死ぬやつでしょ!」

「臭っ! なんか土の匂いがするんだけど! 雨上がりの運動場の匂いがするんだけど! これ本当に食い物!?」

「おいワン! 喧嘩売ってんのか!? アタシらは病人じゃねえんだぞ! こんな流動食、食えるか! コンクリ流し込んで東京湾に沈める気か!」


 ドロシーがテーブルをバンと叩いて立ち上がる。

 ブーイングの嵐。

 当然だ。誰がどう見ても、これは人が食べるものではない。

 だが、ワンは動じない。

 彼は、鬼のような形相で仁王立ちしている。背景には不動明王の幻影が見える。


「黙って食え!!」


 一喝。

 その声の圧力プレッシャーに、全員が口をつぐむ。

 物理的な衝撃波が発生したかのように、焚き火の炎が一瞬小さくなった。


「……これは、この階層でしか作れない『特製・再生スープ』だ。疲労回復、滋養強壮、万病に効く。死にかけた細胞を無理やり叩き起こす、命のスープだ」


 彼は嘘をついていない。

 確かに栄養価と薬効だけは極限まで高めてある。

 味と、見た目と、食欲と、人権を完全に犠牲にして。

 これは「良薬は口に苦し」を物理的に具現化した、食べる点滴だ。いや、食べる泥だ。


 ワンは、お玉でその灰色の泥を掬い上げた。

 ドロリ、と重い音がして、器に注がれる。

 一杯目。

 彼はそれを、俺の目の前にドンと置いた。


「…………」


 俺の目の前に、灰色の海が広がる。

 湯気の中に、ワンの顔が見える。

 彼は、泣きそうな、それでいて何かを祈るような目で、俺を睨みつけていた。

 その表情の微細な歪み。

 眉間のシワの深さ。

 唇の噛み締め方。

 すべてが、「気づいてくれ」と叫んでいる。


「ジン。お前なら分かるよな? 俺がこれに込めた『魂』が」


 その言葉は、俺の胸に突き刺さった。

 物理的な痛みではない。もっと深い、魂の急所を突かれたような感覚。

 逃げ道を塞ぐような、鋭い視線。

 そして、その瞳の奥に揺れる、潤んだ光。


「食ってみろ。そして感想を言え。……『美味い』か?」


 これは、テストだ。

 俺は直感した。

 ワンは、俺の異変に気づいている。そして、これを俺に突きつけることで、俺に「参った」と言わせようとしている。

 あるいは、俺の口から真実を引きずり出そうとしている。


 俺は、目の前の液体を見下ろす。

 どう見てもマズそうだ。

 土の匂いと、焦げた匂いしかしない。

 本能が「食うな、死ぬぞ」と警鐘を鳴らしている。

 生物としての危険信号が、赤色灯を回転させている。

 だが。


 ワンが作ったのだ。

 あのワン・チャンが、本気で作った料理だ。

 不味いわけがない。

 いや、たとえ味がしなくても、こいつが俺のために作ったものなら、それは世界で一番美味いスープなのだ。

 そうだろ?


 俺の味覚は死んでいる。

 だからこそ、今の俺は無敵だ。

 どんな激辛も、激苦も、今の俺には「無」だ。

 なら、笑って食えるはずだ。

 俺は、口元の筋肉を無理やり引き上げ、ニヤリと笑った。

 ひきつった、老婆のような笑顔で。

 筋肉が軋む音が聞こえる。


「……ああ。お前の料理にハズレはねえよ。頂くぜ」


 俺はスプーンを手に取る。

 スプーンが、やけに重い。まるで鉛でできているようだ。

 俺はそれを、灰色の泥沼へと突き立てた。

 ズブリ。

 重い手応え。

 俺はそれを掬い上げ、ゆっくりと口へと運ぶ。

 スローモーション。

 灰色の液体が、唇に近づいてくる。

 さあ、答え合わせの時間だ、ワン。

 俺の「無敵」が勝つか、お前の「毒」が勝つか。


 俺はスプーンを口に含んだ。

 世界が反転する。

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