第112話:水晶の関門突破
キィィィィィィィン……。
その音は、耳鳴りではない。
世界そのものが、爪を立てて黒板を引っ掻いているような、神経を逆撫でする「空間の悲鳴」だった。
場所は、ダンジョン深層『水晶渓谷』の最奥部。
視界を埋め尽くすのは、暴力的なまでに美しいクリスタルの刃たちだ。
地面から、壁から、天井から。鋭利な切っ先を突きつけた紫水晶の群生は、まるで侵入者を拒む剣山のよう。
その隙間を縫うように、B30Fへと続く巨大な「関所」が口を開けているのだが――。
そこには、理不尽な通行止め(ロードブロック)が鎮座していた。
「あァァァァァん!? なんだそのふざけたナリは! ここは原宿の竹下通りじゃないんだよ! 派手なだけのガラス細工が、アタシの進路を塞ごうってのかい!?」
怒声と共に、巨大な改造トラック『アイアン・マザー号』が急ブレーキをかけた。
運転席の窓から、老婆ドロシーが半身を乗り出し、親指を突き立てて叫ぶ。
「おいコラ! どきな! こちとら鮮度が命の粗大ゴミ回収車なんだよ! もたもたしてると荷台の賞味期限切れどもが腐って液状化しちまうだろうがァァァ!!」
「誰が腐乱死体だババア!! まだギリギリ発酵食品レベルだわ!!」
助手席でツッコむ俺、黒鉄ジンを無視し、ドロシーはハンドルに拳を叩きつけた。
彼女が苛立つのも無理はない。
目の前に立ちはだかる「門番」が、あまりにも規格外だったからだ。
高さ、およそ十メートル。
全身が透明度の高いクリスタルで構成された、巨大な騎士像。
関節の隙間から漏れ出す青白い光が、血管のように脈打っている。
だが、最も異質なのはその武装だ。
剣でもなければ、盾でもない。
騎士像が両手で恭しく掲げているのは、巨大なU字型の金属――『音叉』だった。
**『共鳴する水晶像』**。
こいつは、この水晶渓谷における「静寂」の守護者であり、同時に最悪の指揮者でもある。
「警告しまーす。あれは物理攻撃が効かないタイプでーす。私のデータベースによれば、過去に挑んだ冒険者パーティ『爆音戦隊ゴレンジャー』が、名乗り口上の最中に衝撃波でミンチにされた記録がありまーす」
「なんだその出オチ戦隊は! 学習しろよ人類!」
後部座席で、ネオンが淡々とした口調で解説する。
だが、ドロシーの怒りのボルテージは既に沸点を超えていた。
「知ったことか! アタシのトラックはパンク・ロック仕様なんだよ! どかねえなら、鼓膜をつんざく爆音で吹き飛ばしてやる!」
ドロシーが、改造されたクラクションのボタンを、親の仇のように押し込んだ。
パァァァァァァッ!!
瞬間、空気が震えた。
トラックの屋根に取り付けられた六連ホーンから、ヤンキー車顔負けの重低音が吐き出される。
それは単なる音ではない。指向性を持った音波兵器だ。
水晶の谷に反響し、倍加された轟音が、門番に向かって一直線に突き進む。
――勝った。
誰もがそう思った、次の瞬間。
ブォン……。
門番の持つ『音叉』が、微かに震えた。
ただ、それだけ。
たったそれだけで、ドロシーの放った殺人的なクラクション(音波)が、まるで掃除機に吸い込まれる埃のように、音叉の先端へと収束していく。
音が、消えた。
完全な静寂。
そして。
カッ!!!!
音叉の先から、不可視の「何か」が弾けた。
それは、捕食した音波を内部で数千倍に増幅し、一点に圧縮して撃ち返す、音速のカウンター。
時間が凍結する。
俺の動体視力は、空気の層が圧縮され、透明な砲弾となって迫りくるその一瞬を、スローモーションで捉えていた。
あ、これ死ぬやつだ。
ドガァァァァァン!!
バギギギギッ!
「うおぉぉぉ!? なんだこりゃあ!?」
「きゃああっ! ガラスが! 私の美貌を映す強化ガラスが粉々になるぅぅ!」
重量数十トンを誇る『アイアン・マザー号』の巨体が、見えない巨人の拳で殴られたかのように浮き上がり、後方へと弾き飛ばされた。
フロントガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、ピコとマシロが悲鳴を上げて座席にしがみつく。
車内のダッシュボードに置かれた首振り人形(フラダンス仕様)が、激しいGで首からもげ飛び、俺の額に直撃した。
「いってェェェ! アロハの呪いか!?」
「ジン! ふざけてる場合じゃありません!」
マシロが俺の襟首を掴んで揺さぶる。
車内はパニック映画のワンシーンと化していた。
積み上げられたカップ麺の山が崩落し、ワン・チャンが大事にしていた秘伝のタレ(瓶詰め)が床に落ちて割れ、強烈なニンニク臭が充満する。
「緊急警報! 敵性体反応、増大! あいつ、振動エネルギーなら何でも食います!」
ドット絵のネオンが、モニターの中で激しく点滅しながら絶叫した。
その電子音声すらも、エコーがかかって不気味に反響している。
「こちらの攻撃が強ければ強いほど、カウンター倍率が指数関数的に跳ね上がります! エンジン音、射撃音、足音、さらには心音すら感知して反射します! ここは『音を出したら死ぬ図書館』です!」
「なんだそのクソゲー設定は! 無音でどうやってここを通れってんだ! 『だるまさんがころんだ』でもやれってのか!?」
「しかも、あいつの装甲硬度はダイヤモンド並みです。物理で殴れば殴るほど、その打撃音が反射されて自滅します!」
ドロシーが、血走った目でハンドルを叩く。
進めば反射でミンチ。
止まれば立ち往生。
エンジンを切ってやり過ごそうにも、このトラックのアイドリング音だけで、既にロックオンされている。
完全な詰み(チェックメイト)だ。
重苦しい沈黙が車内を支配する。
全員の視線が、フロントガラスの向こう、悠然と佇むクリスタルの巨人に注がれる。
どうする?
誰が行く?
レオは重傷で寝ている。ツムギの爆発なんてもってのほかだ。
となると、残る手札は――。
カチャリ。
その閉塞した空気の中で、乾いた音が響いた。
シートベルトを外す音だ。
全員が振り返る。
そこには、場違いなほど軽快な動作で、助手席のドアを開ける男がいた。
「……へっ、面白えじゃねえか」
俺だ。
黒鉄ジンだ。
俺は愛用のスクイージー(五代目・980円)を片手に、スキップでもしそうな軽い足取りで、水晶の地面へと降り立った。
カツン、カツン、と。
まるで、今からブロードウェイの舞台でタップダンスでも踊るかのような、ふざけたリズムで。
「ジン……? あんた、正気か?」
ワン・チャンが、割れたタレの瓶を片付けながら、呆気にとられた顔で問う。
俺は振り返り、サングラスのブリッジをくいっと持ち上げた。
「ああ、正気だとも。これ以上ないくらいにな。……身体が、軽いんだ」
嘘ではない。
重力が半分になったようだ。
さっき飲んだ、ヤクモ特製の『身体強化薬(という名の劇薬)』が、血液に乗って全身を駆け巡っているのが分かる。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓のビートが速い。BPM180越えのハードコア・テクノだ。
指先の毛細血管一本一本まで、熱い鉛が流し込まれるような感覚。
本来なら激痛でのたうち回るはずの副作用が、脳内麻薬の過剰分泌によって、「万能感」へと変換されている。
「ジン! 無茶です! 戻ってください!」
マシロが窓から身を乗り出して叫ぶ。
幽霊である彼女には、見えていたのだろう。
俺の背中から、黒い靄のような「死の気配」が立ち上っているのを。
俺の命という短いロウソクが、最後の部分を一気に燃やし尽くそうとしている、その不吉な青白い炎を。
俺はマシロに向かって、ニィッ、と笑った。
口角が不自然に吊り上がる感覚。
頬の筋肉が強張り、引きつった笑顔が張り付いている。
サングラスの奥の瞳孔は、カメラの絞りを開放したように極限まで開いているはずだ。
世界が、鮮やかすぎる。
水晶の輝き、空の紫色、マシロの不安げな表情。
全てが高彩度(HDR)かつ高解像度(4K)で脳に飛び込んでくる。
今の俺は、無敵モード(マリオのスター状態)に入った躁状態だ。
痛み? なんだそれは。美味しいのか?
「平気だマシロ。すげえ調子がいい。……喉が『熱い』んだ。まるでオペラ歌手になった気分だぜ。歌でも歌いたいくらいにな」
「歌わないでください! あなたの歌唱力は音響兵器です! ジャイアン・リサイタルは勘弁してください!」
「失敬な。俺の十八番は『津軽海峡・冬景色』だ。上野発の夜行列車に乗ったつもりで聞いていろ」
冗談を飛ばしながら、俺はガーディアンの前に進み出た。
その笑顔は、どこか壊れていて、硝子細工のように脆く、そして空虚だった。
自分でも分かる。
俺は今、笑っていない。
顔の筋肉が、笑う形に固定されているだけだ。
耳の奥で、チクタク、チクタクと、時計の秒針のような音が聞こえている。
それは、俺の心臓が刻む、死へのカウントダウン。
ブォン……ブォン……。
ガーディアンが、俺の存在を感知する。
いや、俺の早鐘を打つ心臓の音を、格好の「獲物」としてロックオンしたのだ。
巨大な音叉が、微細な振動を始める。
キィィィ……という高周波が、俺の鼓膜を突き刺す。
普通なら、ここで耳を塞いでうずくまる場面だ。
だが、今の俺には、その不快な音が「開演のブザー」にしか聞こえない。
「マスター! 下がってください! 音を出せば殺されます! 心停止します! これ以上の心拍数上昇は、心筋破裂を招きます!」
ネオンの悲鳴に近い警告。
モニター上のバイタルサインは、とっくにレッドゾーンを振り切っているだろう。
だが、俺は一歩も引かない。
むしろ、大きく一歩踏み出した。
ジャリッ。
水晶の欠片を踏み砕く音が、やけに大きく響く。
「逆だネオン。……反射ってのはな、受け止めきれる容量があって初めて成立するもんだ」
「は……? 何を……?」
「あいつの許容量を超える『デカい音』なら、反射できずに割れる。……そうだろ? コップにバケツの水は入らねえんだよ」
理論としては破綻している。
小学生が「バリア!」と言ったのに対し、「じゃあバリア破り!」と言い返すレベルの暴論だ。
物理法則を無視した、精神論の極み。
だが、今の俺には、その暴論を現実にねじ曲げるだけの狂気があった。
なぜなら、俺は今、物理法則の外側にいる「死に損ない」だからだ。
スゥゥゥッ……。
俺は大きく息を吸い込んだ。
時間が引き伸ばされる。
冷たい空気が、鼻腔を通り、咽頭を抜け、気管へと流れ込む。
その経路が、手に取るように分かる。
なぜなら、その通り道すべてが「炭化」しているからだ。
ズキッ、ズキッ、ズキッ。
肋骨が軋み、横隔膜が限界まで引き絞られる。
肺に溜まったタールと、内側から焼け爛れた気管が、悲鳴を上げる。
無数の針で内側から刺されるような激痛。
本来なら、激痛で咳き込み、血を吐いて倒れるはずの動作。
だが、薬の力がその痛みを「熱狂」へと変換する。
痛くない。
熱いだけだ。
喉が焼けるように熱い。
燃えている。俺の命が、薪となって燃えている。
いい火力だ。これなら、最高の「音」が出る。
「……ああ、そうだ。言いたいことは山ほどあるんだ。ずっと溜め込んでたからな」
俺はスクイージーを口元に構えた。
先端の魔石(普段は水切り用の微振動発生装置)が、俺の過剰な魔力に呼応して赤く、禍々しく発光する。
即席の拡声器。
俺の魂の叫びを、物理的な衝撃波に変えるための触媒。
ガーディアンの音叉が、最大出力で振動を始める。
来るぞ。反射攻撃が。
そのコンマ一秒前。
走馬灯のように、どうでもいい記憶が駆け巡る。
昨日の伸びたラーメン。
味のしなかったタバコ。
未払いの家賃。
税金の督促状。
客からの理不尽なクレーム。
腰の痛み。
老眼の兆し。
そして、余命半年というクソみたいな宣告。
全部、乗せる。
この一撃に、俺の人生の「愚痴」を全部乗せる。
カッコいい必殺技なんて要らない。
俺ごときには、這いつくばって生きる俺たちには、これがお似合いだ。
俺は、武器を振るわず、ただ**「大声」**を張り上げた。
「道を開けろォォォォォォォォォォォォォ!!!」
ズドォォォォォォン!!
空気が爆ぜた。
それは魔法の詠唱でもなければ、勇者の咆哮でもない。
ただの、くたびれた中年男の怒号。
だが、そこに含まれた情報量と熱量は、音波の概念を超えていた。
「残業代も出ねえ! 有給もねえ! タバコの味もしねえ! 飯は砂の味しか! しねえんだよオオオオオオ!!」
ビリビリビリッ!
空間に亀裂が走るような衝撃波。
俺の個人的な恨み辛み、社会への不満、失った味覚への未練、そして死への恐怖。
それら全てが、魔力で増幅された「音の暴力」となって、ガーディアンに叩きつけられた。
「その上、通行止めだとォォ!? ふざけるな社会ィィィ!! 俺はなァ! あと半年で死ぬんだよ! 貴重な時間をこんな石ころ相手に使ってられるか! 家に帰って録り溜めたアニメも消化しなきゃならねえんだよ! どけ! どけ! どけェェェェェ!!」
キィィィィン……ガガガッ!!
ガーディアンの音叉が、悲鳴を上げた。
反射しようとしたエネルギーに対し、俺の入力エネルギーが桁違いすぎた。
物理的な音量ではない。「怨念」の質量だ。
処理落ち。
バッファオーバーフロー。
クリスタルの表面に、ピキピキと亀裂が走る。
「こっちは客商売なんだよォォォ! クレーム対応なら任せろ! 理不尽な客には! さらに理不尽な大声で返すのが! 俺の流儀だァァァァァァ!!」
ドッガァァァァァァァン!!!
最後の一喝と共に、ガーディアンの音叉が限界を超えて振動し、自壊した。
連鎖的に、巨体全体にヒビが走り、内部からまばゆい光が漏れ出す。
パリーン!!
という、世界で一番盛大なガラスの割れる音が響き渡り、巨大な騎士像は粉微塵になって崩れ落ちた。
キラキラと舞い散る水晶の雨。
ダイヤモンドダストのように輝くその光の向こう側、B30Fへと続く巨大なゲートが、重々しい音を立てて開き始めた。
まるで、俺の剣幕に恐れをなして道を譲るように。
「……は、はぁ……」
静寂が戻る。
俺は、スクイージーを杖代わりにして、ふらりと膝をついた。
地面の水晶が冷たい。
背中は激しく上下し、肩で息をしている。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が早鐘を打っている。
薬の効果が切れかかっているのか、視界が明滅し、強烈な目眩が襲ってくる。
世界が回る。
極彩色だった視界が、急激に色褪せていく。モノクロームの世界へ。
「……ゴホッ! ガハッ、オエェッ……」
俺は背を向けたまま、口元を懐から取り出したハンカチで押さえた。
喉の奥から、熱い塊がせり上がってくる。
嘔吐感。
だが、吐き出したのは胃液ではなかった。
べちょり。
ハンカチに付着したのは、鮮血ではない。
**「濡れた墨汁」**のような、粘り気のある黒い液体。
炭化した声帯の一部が、叫びによって剥がれ落ち、溶け出した成れの果てだ。
俺の「声」の破片だ。
(……あーあ。汚ねえ色だ。腹黒い俺にお似合いか)
俺は、そのハンカチを乱暴に丸め、ポケットの奥深くに突っ込んだ。
誰にも見せてはいけない。
特に、背後で心配そうに見ている幽霊少女には。
彼女に、こんな汚いものを見せるわけにはいかない。
俺は深呼吸を一つし、震える足を叱咤して立ち上がった。
まだだ。まだ立てる。
そして、ゆっくりと振り返り、トラックに向かって親指を立てた。
サムズアップ。
「……見たか。クレーム対応は得意なんだ。……モンスターカスタマーも裸足で逃げ出すぜ」
その声は。
さっきまでの張りはなく、ガサガサに枯れ、まるで老婆のようだった。
かすれ、割れ、空気が漏れる音。
壊れたラジオみたいだ。
ワン・チャンが、ハンドルを握るドロシーが、そしてマシロが。
その「変貌」に気づき、痛ましそうに顔を歪めた。
空気が重い。
さっきまでの馬鹿騒ぎが嘘のように、シリアスな静寂が落ちる。
だが、誰も「大丈夫か」とは言わなかった。
俺が「平気だ」という顔をして立っている以上、それを否定することは、俺の覚悟を侮辱することになるからだ。
彼らはプロだ。同情なんて安っぽいものは寄越さない。
「……乗んな、馬鹿野郎。置いてくぞ」
ドロシーが、短く言った。
その声は少し湿っていた。
いつもより、エンジンの空ぶかしが優しい気がする。
「へいへい、ただいま」
俺はニヤリと笑い(その笑顔だけは、いつものジンだった)、トラックの助手席へと乗り込んだ。
シートに深く沈み込む。
身体が鉛のように重い。
だが、心地よい重さだ。少なくとも、まだ生きている重さだ。
アイアン・マザー号がエンジンを唸らせる。
砕け散ったガーディアンの残骸を踏み越え、一行はゲートの向こうへ。
B30F。
中継地点であり、新たな地獄の入り口。
第4巻の戦いが終わり、ここからは第5章の幕開けだ。
俺たちの旅は、まだ終わらない。
例え、俺の中身が全て灰になろうとも、この足が動く限りは、あの薄暗い地下室を守り抜いてみせる。
「……次は、どんな地獄が待ってることやら」
俺は目を閉じ、耳鳴り混じりの静寂の中で、小さく呟いた。




