第111話:ヤクモの遠隔診断
ゴホッ、ゴホッ……カハッ……。
乾いた咳の音が、イカ墨で薄汚れた『アイアン・マザー号』の車内に響いた。
それは、風邪を引いた時の湿った咳ではない。
まるで、錆びついた水道管の中を、目の粗いサンドペーパーで無理やり擦り上げたような、金属的で不快な摩擦音だった。
「……チッ、埃っぽいな。このトラック、エアコンのフィルター掃除してねえだろ。ダニの死骸とカビの胞子がダンスパーティーでも開いてるんじゃないか?」
俺、黒鉄ジンは、喉の奥に張り付くような違和感を誤魔化すように、胸をトントンと叩いた。
ドロシー婆さんが、バックミラー越しに鬼の形相で睨みつけてくる。
「あ? こないだ掃除機かけたばっかだよ! お前の肺がヤニで詰まってるだけだろ、この歩く公害発生源! 私の可愛いマザー号をカビ扱いするなら、次の休憩でお前をマフラー代わりに括り付けるぞ!」
日常的な罵倒。
いつもなら、「へいへい」と軽く流すところだ。
だが、今の俺には、その声を返すことすら億劫だった。
(……なんだ、この違和感は)
異物感。
単に「痛い」のではない。
喉の奥、声帯の裏側に、焼けた炭の欠片を押し込まれているような、熱くて重い感覚。
あるいは、無数の小さな棘を持つ植物の種が、気管に根を張り始めたような、生理的な拒絶反応。
唾を飲み込むたびに、ジャリッ、という幻聴が骨伝導で脳に響く。
さっきの激辛飯のせいか?
いや、違う。これはもっと根深い、内側からの侵食だ。
その時だった。
ブォンッ!
突如として、車内の照明が赤く明滅し、後部座席のネオン(ノートPC本体)から、脳髄を逆撫でするような警告音が鳴り響いた。
『――WARNING。緊急割り込み通信。……ファイアウォール、突破されました。……強制接続、来ます』
ネオンの警告が終わるよりも早く、空中に投影されていたドット絵のホログラムがノイズにまみれ、歪んだ。
ザザッ……ザザザッ……ピガガッ!
空間が引き裂かれる音。
デジタルの雪嵐の中から、一人の男の顔が浮かび上がった。
糸のように細められた目。
白衣。
そして、この緊迫した状況には不釣り合いな、湯気を立てるカップ麺(シーフード味)。
『――やあ、モルモット諸君。B11Fの居心地はどうだい? 少しは涼しくなったかな?』
地上の闇医者、ヤクモ。
モニター越しだというのに、あの独特の薬品臭さと、インスタント食品のチープな匂いが漂ってくるような気がした。
「……ヤクモか。診察時間外だぞ。回線を切れ。こっちはこれから食後の昼寝の時間なんだ。夢の中でグラビアアイドルとウフフな時間を過ごす予定が詰まってる」
『つれないな、ジンくん。ネオンちゃんから『マスターのバイタル異常(味覚ロスト)』のエラー報告が届いたもんでね。気になってカップ麺が伸びてしまったよ。三分という時間は、麺類にとっては永遠だが、医者にとっては一瞬だ。責任を取ってくれたまえ』
「知るか。三分待てないお前が悪い。麺が伸びたなら、お前の寿命も伸ばしてやろうか?」
俺は吐き捨てるが、ヤクモは聞く耳を持たない。
彼はズルズルと麺を啜りながら(クチャラーかよ、最悪だ)、モニター越しに俺を指差した。
その指先から、見えないメスが伸びているような錯覚。
『さて、無駄話はこれくらいにして。……ちょっと中身を見せてもらおうか』
「あ? 断る。俺の中身はヘドロとアルコールで満たされてるぞ。R-18指定だ」
『遠慮するなよ。死体にプライバシーはない。……ネオンちゃん、デバイスの制御権を貸してくれ』
パチン、とヤクモが指を鳴らす。
瞬間、ネオンのPCから青白い光線が放たれた。
『きょ、強制操作……セキュリティ・レベル5、突破されました……! X線、サーモグラフィ、霊的波長スキャン……同時起動します! いやぁぁぁ! 中身を見ないでぇぇぇ!』
「おい、勝手に俺の中身を覗くな! 個人情報保護法って知ってるか!? コンプライアンスの欠片もねえなこの藪医者は!」
『医療行為だよ。……ほら、じっとして。『あーん』はしなくていいから、息を止めろ』
ウィィィィン……。
スキャナーの光が、俺の頭からつま先までを舐めるように往復する。
気持ち悪い。
まるで、皮膚を一枚ずつ剥がされ、筋肉の繊維をピンセットで摘まれ、内臓を直接値踏みされているような感覚だ。
冷たい電子の視線が、俺の隠しておきたい「弱りきった部分」を暴き出していく。
数秒後。
車内のメインモニターに、俺の全身を透視した3Dモデルが表示された。
それは、RPGのステータス画面のようだが、表示されている内容は絶望的だった。
これを見せられるくらいなら、自分の検索履歴を公開された方がまだマシだ。
**【Status Report: Kurogane Jin】**
**【肝臓(Liver)】:** アルコール分解機能低下(E判定)。
※コメント:フォアグラ状態。これ以上酒を入れるなら、そのままホルマリン漬けにした方がいい。
**【肺(Lung)】:** ニコチン・タール沈着率85%。
※コメント:工場の煙突。真っ黒なスポンジ。酸素交換効率は金魚以下。
**【胃(Stomach)】:** カプサイシンによる急性炎症。
※コメント:さっきの激辛飯の痕跡。内壁がただれてマグマのようになっている。自殺志願者か?
**【背中(Back)】:** 広範囲における組織壊死(炭化)。進行度:ステージ4。
※コメント:人間の皮膚ではない。炭。
「うわっ、汚い内臓! 掃除機のフィルターみたい! よくこれで息ができるわね! 換気扇の油汚れの方がまだ綺麗よ!」
ピコが顔をしかめて叫んだ。
正直な感想だ。俺も自分の肺を見て引いた。
俺の肺は、二十年分のヤニと、ダンジョンの埃と、後悔で詰まっている。
「ガハハ! よくこれで生きてやがるな! 安いポンコツ車でも、もう少しマシな整備してるぞ。オイル交換もしてねえエンジンで、レッドゾーンまで回して走ってるようなもんだ」
ドロシーが呆れを通り越して感心したように笑う。
整備士としての率直な意見だろう。廃車確定だ。
「うるせえ。長年連れ添った愛着あるパーツだ。ヴィンテージ物って言え。味があるんだよ、味・が・な!」
俺は強がって見せるが、モニターの向こうのヤクモは笑っていなかった。
彼は、ある一点の画像を拡大し、箸を止めていた。
啜りかけの麺が、一本だけ力なく垂れ下がっている。
その目は、実験動物を観察する科学者のように、冷たく、そして少しだけ哀れむように細められていた。
『……ふむ。冗談にしては笑えないな』
ヤクモはカップ麺をサイドテーブルに置き、真顔でモニターを指差した。
時が止まる。
車内の空気が、急激に重くなる。
『ジンくん。君、喉に違和感があるだろう? 小骨が刺さったような、あるいは焼けた炭を飲み込んだような』
心臓が、ドクンと跳ねた。
図星だ。
だが、認めるわけにはいかない。
「……まあな。乾燥してるだけだ。加湿器を買ってくれれば治る」
『嘘をつくな。データは口より雄弁だ。……見たまえ、これだ』
ヤクモがキーボードを叩く。
カチャッ。
モニターに映し出されたのは、俺の首から胸にかけての断面図(MRI画像)だった。
そこには、俺でも分かる異常があった。
背中の「炭化」した部分から、黒い植物の根のような影が伸びている。
それは脊椎に絡みつき、肋骨の裏を通り、食道と気管の周りにまで到達し、絞め殺すように浸食していた。
黒い茨。
呪いの根。
それが、俺の喉仏を、下から包み込もうとしている。
『見ての通りだ。『炭化』が背中から回って、喉の神経系まで浸食している』
ヤクモが淡々と解説を始める。
その声は、死刑宣告を読み上げる裁判官のように冷徹で、感情が欠落していた。
『味覚がないのは当然だ。舌への信号ケーブルが、物理的に焼き切られている。……だが、もっと厄介なのはこっちだ』
彼は黒い影の先端、喉仏のあたりを指した。
『あと数ミリ。……数ミリ進めば、声帯が石になる。……次に失うのは『声』だ。その次は呼吸機能。窒息死コースだな』
シーン……。
車内の空気が、一瞬にして真空になったかのように凍りついた。
ピコが口を押さえ、ドロシーが舌打ちをする音が、やけに大きく響く。
マシロの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
彼女の幽霊としての体が、さらに透明度を増して消えてしまいそうだ。
声が、出なくなる?
俺から、軽口と、怒鳴り声と、歌(下手だが)を奪うってのか?
ふざけるな。
味覚までは許してやった。飯が不味くなるだけだ。
だが、声は商売道具だ。
指示が出せなきゃ、誰も守れない。
「……治せ、ないんですか?」
マシロが震える声で尋ねる。
縋るような視線。
まるで、神に祈る少女のような。
だが、画面の向こうにいるのは神ではなく、悪趣味な闇医者だ。
『交換パーツがない。これは病気じゃない。『呪い』による壊死だ。細胞が死んでいるんじゃない、存在そのものが『燃えカス』に変換されているんだ。切除すれば、そのショックで死ぬ。……例えるなら、爆弾の信管が心臓に癒着しているようなものさ』
沈黙。
重苦しい静寂が、狭い車内を満たす。
換気扇の回る音だけが、虚しく響く。
俺の喉の違和感は、ただの炎症じゃなかった。
俺の寿命そのものが、実体を持って俺の首を絞めているのだ。
「……で? どうすんだよ藪医者。余命宣告の更新か? それとも葬儀屋のパンフレットでも送ってくるつもりか?」
俺は努めて明るく振る舞い、ヤクモを睨みつけた。
こんなお通夜みたいな空気で終わらせてたまるか。
俺はまだ生きてる。
心臓は動いてるし、減らず口だって叩ける。
『フフ……諦めが悪いのは嫌いじゃないよ。……データ転送。ネオンちゃん、受信したまえ』
ピロリンッ♪
ネオンのPCから、軽快な受信音が鳴る。
この状況で、あまりにも場違いな明るい音だ。
接続された3Dプリンタ(薬剤調合機)が作動し、ウィィィンという機械音と共に、数粒の錠剤が吐き出された。
コロン、コロン。
受け皿に落ちたのは、真っ黒なカプセル。
表面には毒々しい紫色をした文字で『DANGER』と刻印されている。
どう見ても薬じゃない。毒だ。
『一時的に神経伝達を加速させる『劇薬』のデータだ。……味覚は戻らないが、声帯の石化を遅らせることはできる。副作用で酷い頭痛がするが、声は保つだろう』
ヤクモが眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
レンズの奥の瞳が、冷たく光った。
『……ただし、使うたびに寿命の前借りは加速する。エンジンの回転数をレッドゾーンに固定するようなものだからね。……用法用量は守らなくていい。どうせ最後だ。好きなだけキメてくれたまえ』
俺は、プリントアウトされたばかりの温かい錠剤を手に取った。
黒いカプセル。
指先に伝わる熱。
それは、死神からのプレゼントであり、俺に残された最後の弾丸だ。
「……上等だ。遺言を言う時間は確保できるってことだろ」
俺は迷わず、その場で一粒を口に放り込み、水なしで飲み込んだ。
喉を通る違和感。
まるで、小さな火種を飲み込んだようだ。
だが、胃に落ちた瞬間。
カッ!!
脳髄を直接電撃で打たれたような衝撃。
視界が白く明滅する。
頭の芯が痺れ、血管の中を熱い何かが駆け巡る。
薬効が早すぎる。
劇薬どころか、もはや呪いの類だこれ。
『精々あがくことだ。貴重な臨床データ、期待しているよ。……あ、カップ麺が伸びきってしまった。スープを吸って汁なし麺になってる。最悪だ』
ブツン。
通信が切れた。
ヤクモの顔が消え、いつものドット絵のネオンに戻る。
残されたのは、伸びたラーメンへの文句と、死の宣告だけ。
シーン……。
誰も口を開かない。
ワン・チャンが腕を組んだまま、じっと俺を見ている。
マシロが泣きそうな顔で、俺の袖を掴もうとして、止める。
俺は、立ち上がろうとして、ふらついた。
頭痛がする。
脳みそを金槌で内側から叩かれているような痛み。
だが、不思議と喉の「詰まり」は少し軽くなった気がする。
「……ゴホッ! ゴホッ! カハッ!」
激しい咳が出た。
肺の奥底から、何かがせり上がってくる感覚。
俺は口元を手で覆う。
湿った感触。
血か?
ドラマなら、ここで真っ赤な鮮血を吐いて、ヒロインが悲鳴を上げる場面だ。
俺は恐る恐る、手のひらを見た。
時間が、ゆっくりと流れる。
「…………」
そこにあったのは、鮮やかな赤色ではない。
どす黒い、乾いた粉末。
**『黒い煤』**だった。
まるで、焚き火の後の燃えカスのようだ。
俺の内側が燃え尽き、細胞が炭化し、灰になって吐き出されたのだ。
血すら出ない。
俺はもう、生き物としての機能を失いかけている。
ワン・チャンがそれを見て、静かに目を伏せた。
彼は何も言わない。
ただ、拳を握りしめ、その爪が掌に食い込んでいるのが見えた。
「……行くぞ。B30Fへのゲートは目の前だ」
俺は手をズボンで乱暴に拭い、煤を払った。
黒い汚れが、生地に擦り込まれる。
ドロシーに指示を出す。
声は、出る。
まだ、喋れる。
なら、進むだけだ。
例え、その一歩ごとに身体が灰になって崩れ落ちようとも。
喉の奥で、カサついた音が響く。
それは、枯れ木が風に揺れるような、終わりの音だった。
けれど、今の俺には、その音すらもエンジン音のように聞こえた。




