第109話:味がしないタバコ
ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ……。
その音は、ダンジョンB11F『水晶渓谷』の静寂を切り裂く、不快指数の極めて高いリズムだった。
硬質なワイヤーブラシが、塗装の剥げかけた金属を無理やり削り取る音。
黒板を爪で引っ掻く音を、業務用のスピーカーで最大音量にして流したような、脳髄に直接響く高周波。
「待てェェェェ!! ドロシー! 貴様、正気か!? その『黒いダイヤ』を洗い流すとは何事だァァァ!!」
中華鍋をフルフェイスヘルメットのように被り、お玉とフライ返しを両手に構えたワン・チャンが、血相を変えてトラックのボンネットにしがみついていた。
その目は血走り、口からは涎が垂れ、完全に「禁断症状が出たジャンキー」のそれだった。
「このイカ墨ペーストはなァ! 業務スーパーで賞味期限切れ間近の特売だったとはいえ、深海生物の怨念とアミノ酸が凝縮された『海のエキス』なんだよ! それを水で流すだと!? 貴様はエリザベス女王のドレスを雑巾にするつもりか!? 文化遺産の破壊だぞ!」
「うるせえよ! 文化遺産どころかただの産業廃棄物だろ! 見ろこのへばりつき方! 私の『アイアン・マザー号』がまるでホラー映画の舞台セットじゃねえか!」
ドロシー婆さんが、魔力駆動式の高圧洗浄機(ケルヒャー・改)のトリガーを引く。
プシャァァァァァッ!!
圧縮された水流が、レーザービームのようにワンの顔面を直撃した。
「ぶべらっ!? ……ぐ、ぬぬぬ……負けん! 料理人は食材を守るためなら火の中水の中だ!」
「食材じゃねえよ! 道路の泥とか、さっき轢き殺したクリスタル・ガーディアンの破片とか、虫の死骸とか混ざってるだろ!」
「ピピッ……成分分析、完了」
トラックの陰から、カクカクとした動き(フレームレート15fps)で、ドット絵状態のネオンが顔を出した。
頭上に表示された吹き出しには『Analysis Complete』の文字。
「……主成分:イカ墨、防腐剤(大量)、着色料(赤色2号)。……混入物:石英、未知の菌類、ドロシーさんの吸殻の灰、ワンさんの鼻水、ジンの加齢臭。……結論:食用不適。これを摂取した場合、確率98%で下痢、2%で新たなスタンド能力に目覚めます」
「聞いたかバカ! 下痢確定だってよ! 2%の奇跡に賭けるな!」
「火を通せばタンパク質だ! 熱殺菌という魔法を信じろ!」
ギャーギャーと騒ぐ連中。
飛び散る泥水。怒号。そして中華鍋を叩く金属音。
いつも通りの、騒がしくも平和な日常。
まるで、昭和のドタバタコメディを見せられているようだ。
だが。
今の俺、黒鉄ジンには、その喧騒がひどく遠くに感じられた。
まるで、分厚い防音ガラスの向こう側で起きている出来事を、音の消えたテレビで眺めているような、奇妙な疎外感。
世界から「色」が抜けていくような感覚。
「……やれやれ。耳が腐る。少し休憩だ」
俺は誰に言うでもなく呟き、トラックから少し離れた岩場へと足を向けた。
背後でワンの「俺のチャーハンを見ろォォォ!」という絶叫が聞こえた気がしたが、意識的にシャットアウトする。
岩陰に座り込む。
水晶の冷たさが、薄汚れたズボンの生地を通して尻に伝わる。
ひんやりとした感触。
よし、触覚はある。尻の感覚は死んでいない。
俺は懐から、長年連れ添った相棒――くしゃくしゃになったソフトパッケージのタバコを取り出した。
『ハイライト』。
ラム酒の香料と、強烈なニコチン。そして発ガン性物質の塊。
今の軟弱な電子タバコ時代には似合わない、昭和の遺物のような銘柄だ。
俺と同じ、時代遅れのポンコツだ。
箱を振る。
カサッ。
乾いた音が、指先に微かな振動と共に伝わる。
残り三本。
一本を取り出し、フィルターを唇に咥える。
この瞬間が好きだ。
これから訪れる「紫煙の安らぎ」への助走期間。
愛用のジッポを取り出し、親指で蓋を弾く。
カキン。
澄んだ金属音が、岩場に反響する。
いい音だ。この音だけは、どんな高級オーディオでも再現できない。
ヤスリを回す。
ジョリッ。
火花が散り、オイルを含んだ芯に引火する。
シュボッ。
オレンジ色の炎が揺らめき、タバコの先端を焦がす。
チリチリチリ……。
葉が燃える微かな音。
俺は目を細め、深く、肺の底まで煙を吸い込んだ。
……そのはずだった。
「…………?」
時間が、止まった。
いや、俺の脳内処理だけが、異常なほど引き伸ばされた。
本来なら、この瞬間。
喉を焼き切るようなタールの刺激と、脳髄を痺れさせるニコチンのキック、そして鼻に抜けるラム酒の甘い香りが、暴力的なセットメニューとして襲ってくるはずだ。
肺胞の一つ一つが紫煙を受け止め、血液に溶け込んだ毒が脳へ到達し、強張った神経を緩めていく快感。
それが俺の、戦いの合間の唯一の癒しであり、生きている実感だった。
なのに、今。
俺の口の中にあるのは、完全なる「虚無」だった。
熱い空気を吸って、吐いているだけ。
味も、匂いも、刺激もない。
まるで、ストローで真空を吸っているような、物理法則を無視した感覚。
あるいは、夢の中で飯を食っている時のような、隔絶された感覚。
肺に煙は入っている。
喉を通る熱さはある。
だが、「味」という情報だけが、綺麗サッパリと削除されている。
『404 Not Found』。
俺の舌にあるはずの味蕾が、応答しない。
「……なんだこれ。湿気ってたか?」
俺はタバコを指で摘み、しげしげと眺めた。
先端は赤く燃えている。
紫色の煙も立ち上っている。
水晶渓谷の湿気が高かったのか?
それとも、ワンのイカ墨が箱に浸透したのか?
まさか、俺がコロナ的な何かに感染したのか?
いや、ここはダンジョンだ。そんな日常的なウイルスが存在するわけがない。
俺は吸いかけの一本を地面に捨て、靴底で踏み消した。
グリグリと、執拗に。
新しい一本を取り出す。
今度は、火をつける前に匂いを嗅いでみる。
……クンクン。
無臭。
いや、鼻は生きているはずだ。さっきのジッポのオイルの匂いは分かった。ドロシーの加齢臭も分かった。
なぜ、タバコの匂いだけがしない?
カキン。シュボッ。
二本目に火をつける。
吸い込む。
……やはり、無だ。
ただの熱い気体。
工場の排煙を吸っている方が、まだマシかもしれない。
「……不良品か? JTにクレーム入れるぞコラ。お客様センターに凸して『味がしねえぞどうなってんだ』ってクレーマーデビューしてやろうか」
俺は苛立ち紛れにフィルターを歯で食いちぎり、ペッ、と吐き出した。
直接、葉っぱの部分を口に含み、ガリガリと噛み砕く。
これならどうだ。
煙にするから味が飛ぶんだ。
直接、舌の細胞にニコチンの毒を擦り込めば、嫌でも味がするはずだ。
苦味でも、えぐみでも、吐き気を催すような不快感でもいい。
何かを、感じさせてくれ。
ガリ、ジャリ、ボリ……。
口の中に広がったのは、砂を噛んでいるような、乾燥した異物の感触だけだった。
パサパサとした、繊維質の何か。
味がない。
舌の上で転がる葉の感触はある。
唾液と混ざって泥のようになる感触もある。
だが、「味覚信号」だけが、脳に届かない。
まるで、LANケーブルが切断されたパソコンのように。
俺は、口の中の泥のようなものを、地面に吐き出した。
茶色い塊が、水晶の地面に張り付く。
(……そうか。来たか)
恐怖よりも先に、妙に冷めた納得が降りてきた。
『味覚』の回線が落ちたのだ。
視覚の焼き付き、聴覚の過敏、運動神経の遅延。
それに続いて、味覚の消失。
俺の身体というポンコツPC(Windows 95)は、省エネモードに移行するために、不要なドライバを勝手にアンインストールし始めたらしい。
生存に直結しない機能から、順次停止。
合理的だ。実に合理的で、ムカつくほど機械的だ。
(……晩飯の楽しみが減っちまったな。これなら、ワンの激辛麻婆豆腐も、ただの赤い泥か)
あーあ、勿体ないことしたな。
最後に食ったのが、昨日のカップラーメン(伸びきったシーフード味)だったなんて。
もっといいもん食っとけばよかった。
銀座の寿司とか、叙々苑の焼肉とか。
走馬灯のように、過去に食った美味いものの記憶が駆け巡る……かと思ったが、思い出せるのはコンビニ弁当と、ドロシーの出した泥水のようなコーヒーの味だけだった。
ろくな人生じゃねえな、俺は。
尺稼ぎのような回想シーン(走馬灯)すら、低予算で終わっちまう。
ザッ、ザッ、ザッ……。
背後から、軽い足音が近づいてくる。
マシロだ。
幽霊のくせに、俺にだけは足音が聞こえる。
心臓が、ドクンと跳ねた。
見られるわけにはいかない。
俺が、ただの「味のしないガム」みたいな顔をして、絶望に浸っているところを。
俺は反射的に、地面に散らばったタバコの残骸を靴で隠そうとした。
だが、右足の動きが一瞬遅れた。
0.5秒のラグ。
隠しきれない。
「ジン、サボってないで手伝ってください。ワンさんがイカ墨で『暗黒チャーハン』を作り始めましたよ。毒見役が必要です」
マシロは俺の背中に声をかけ、それから足元の惨状に気づいたようだ。
「……ジン? どうしたんですか、それ」
彼女の視線が、踏み消された二本の吸い殻と、噛み砕かれて散乱した茶色い葉っぱに注がれる。
明らかに、異常な吸い方だ。
フィルターを引きちぎり、葉をぶちまけた跡。
それは、喫煙者の吸い殻ではない。狂人の痕跡だ。
俺は慌てて、いつもの不敵な笑み(営業用スマイル・タイプB)を顔面に貼り付けた。
口角を上げろ。眉間の皺を消せ。瞳孔を開け。
俺は、何も起きていない。
俺は、最強の掃除屋だ。
動揺なんてしていない。
「……おう、マシロか。いや、ちょっと銘柄を変えようと思ってな。最近のは甘すぎて口に合わん」
滑らかに出た嘘だった。
我ながら、アカデミー賞モノの演技だ。
だが、マシロの表情は曇ったままだ。
当然だ。
彼女は俺に憑依している間、俺の記憶や感情の一部を共有している。
俺がこの『ハイライト』を十年以上、それこそ親の仇のように吸い続けていることを知っている。
「甘い」?
そんな感想を持ったことなど、一度もないことも。
「……本当に、それだけですか?」
マシロの瞳が、俺のサングラスの奥を覗き込んでくる。
その目は、幽霊特有の冷たさではなく、家族を心配する温かさと、強烈な不安に揺れていた。
気づかれたか?
いや、まだ確信はないはずだ。
ただの気まぐれだと思っているはずだ。
そうであってくれ。
「ああ。それより水を持ってこい。喉が渇いた。……このタバコ、やっぱり湿気ってやがる。管理が悪いな、コンビニの店員は」
俺はわざとらしく咳払いをして、立ち上がった。
これ以上、俺の「口」を見られるわけにはいかない。
味のしない舌が、乾いたスポンジのように口の中で縮こまっているのを、悟られてはいけない。
「……分かりました。水、持ってきますね」
マシロは、それ以上追求しなかった。
けれど、彼女が去り際に一度だけ振り返ったのを、俺は見逃さなかった。
その視線が、俺の背中に突き刺さる。
痛いほどに。
***
数十分後。
俺たちはトラックの荷台で、車座になって昼飯を囲んでいた。
メニューは、ワン特製『イカ墨・暗黒チャーハン』。
見た目は、アスファルトの破片を盛ったような、完全な黒一色。
視覚的な暴力だ。
これが食べ物だと認識するには、かなりのSAN値チェックが必要になる。
だが、漂ってくる香りは香ばしく、食欲をそそる……らしい。
俺には、ただの焦げた匂いにしか感じられないが。
「食え食え! 見た目はグロいが、味は保証するぜ! 隠し味にB10Fで拾った岩塩と、秘伝のXO醤を使ってある! 一口食えば飛ぶぞ!」
ワンが得意げに中華鍋を振るう。
ドロシーがスプーンで山盛りの黒い塊を掬い、入れ歯を鳴らしながら大口を開けて放り込んだ。
「んぐっ、むぐっ……お!? なんだこれ、意外とイケるじゃないか! コクがあるねぇ! 見た目は地獄だが味は天国だ!」
「本当だ! 悔しいけど美味しい! イカの出汁が効いてるわ! 口の中が真っ黒になるけど!」
ピコも目を輝かせて食べている。
どうやら、味は本物らしい。
俺も、自分の分の皿を受け取った。
黒い米粒。
それをスプーンで掬う。
重い。
ただの質量。
「…………」
口に運ぶ。
咀嚼する。
……ゴムだ。
あるいは、消しゴムのカスを食べている感覚。
ブニブニとした弾力と、ジャリッとした何か(多分、岩塩)が歯に当たる感触だけが伝わってくる。
口の中で、黒い粒子が拡散する。
だが、そこには何もない。
旨味も、塩味も、辛味も、熱さすらも遠い。
脳が「これは食べ物ではない」と警告信号を発している。
吐き出したい衝動に駆られる。
異物を飲み込む恐怖。
だが、俺は飲み込んだ。
喉を通る異物の不快感を、無理やり水で流し込む。
ゴクリ。
胃袋に、重い鉛が落ちる。
そして、俺は顔を上げた。
口元の筋肉を総動員し、頬を引きつらせ、目尻を下げ、ニヤリと笑う。
感情ではなく、筋肉操作としての「笑顔」。
「……悪くない。塩加減が絶妙だ」
俺の言葉に、ワンがパァッと顔を輝かせた。
まるで、初めて褒められた子供のように。
「だろ!? 分かるかボス! 分かってくれるか! やっぱあんたは違いの分かる男だ! 他の味音痴どもとは違うぜ! この岩塩の粒度、計算し尽くしたんだよ!」
「へへっ、まあな。お前の腕は認めてやるよ。……おかわりだ」
俺は二口目を口に運ぶ。
味なんてしない。
塩加減なんて分からない。
ただ、ワンの料理の傾向と、ドロシーたちの反応から、「正解」の感想を導き出しただけだ。
これは食事ではない。
データ処理だ。
俺は今、味覚ではなく、演算能力で飯を食っている。
全員が笑っている。
ワンは上機嫌で鍋を振るい、ドロシーはおかわりを要求し、ピコは口を黒くして騒いでいる。
平和な食事風景。
その中で、たった一人。
マシロだけが、笑っていなかった。
彼女は、チャーハンに手をつけず、じっと俺の手元を見ていた。
俺が水を飲むためにコップを持った時。
その手が、小刻みに震えているのを。
カタ、カタ、カタ……。
コップの水面が揺れている。
恐怖からではない。
空腹からでもない。
ただ、この世界から「色」が失われていくことへの、魂の拒絶反応。
身体が、無意識に悲鳴を上げているのだ。
「助けてくれ」と。
(……さて。飯の楽しみは消えた。酒の味もしないだろうな)
俺は、震える手を太ももの下に隠し、味のしない黒い塊を、機械的に胃袋へと詰め込み続けた。
エネルギー補給。
ただ、それだけのために。
(……あとは、『仕事』だけだな)
俺に残されたものは、もうそれしかない。
掃除屋としての機能。
それさえ残っていれば、俺はまだ、黒鉄ジンでいられる。
例え、中身が空っぽのガラクタになったとしても。
そうだろ?




