第107話:精神を削る反射光
ジュゥゥゥゥゥゥ……。
その音は、物理的な空気の振動として鼓膜を揺らすよりも先に、脳の奥底にある「生存本能」の警報スイッチを連打した。
タンパク質が熱変性する音。
水分が蒸発し、有機物が炭化していく過程の、不可逆的な破壊の音。
場所は、ダンジョンB11F『水晶渓谷』。
この世で最も美しいとされる、全方位クリスタルの鏡面迷宮。
だが、現在の状況を正確に表現するならば、ここは「巨大な電子レンジ」の内部であり、俺たち『アンラッキー・サーティーン』は、回転皿の上に乗せられた昨晩の冷やご飯だった。
「あっちぃぃぃぃぃ!! なんだこりゃあ! サウナか!? ここはフィンランドの親父が整うための聖地か!? いや、整うどころか蒸発するわボケェェェェ!!」
運転席でハンドルを握るドロシー婆さんが、しわがれた絶叫を上げた。
その額から噴き出した脂汗が、重力に従って頬を伝い、顎から滴り落ちる前に「ジュッ」と音を立てて蒸発する。
それほどの熱気だ。
上空およそ五〇〇メートル。天井に群生する発光苔の群れから降り注ぐ、本来ならば淡く幻想的な光。
それが、幾億、幾兆もの水晶のカット面で乱反射を繰り返し、増幅され、収束し、この『アイアン・マザー号』の車内を灼熱の処刑室に変えていた。
全方位、ハイビーム。
逃げ場なし。
角膜、水晶体、網膜。視覚を構成する全ての組織が「もう無理です、閉店します」と悲鳴を上げている。
俺、黒鉄ジンは、サングラス(三本百円の安物)の奥の目を細めながら、喉の奥から乾いた呻き声を絞り出した。
「……おい、誰かカーテンを閉めろ。網膜が焼ける。ついでに俺の脳みそも沸騰して、耳からスープになって垂れてきそうだ」
「無駄よッ! 閉めても隙間から入ってくる光がレーザーみたいになってるの! 見てこの肌! 私の美肌年齢が紫外線で加速してるじゃない! シミができるわ! レーザー治療でシミを取るんじゃなくて、レーザーでシミを作ってどうすんのよ!」
助手席のピコが、自分の腕をさすりながら金切り声を上げた。
彼女の白い肌の上を、鋭利な光の筋が走る。それは照明という生易しいものではなく、空間を切り裂く「光の刃」だった。
車内のホコリ一つ一つが、乱反射する光を受けてダイヤモンドダストのように煌めき、視界のコントラストを狂わせる。
「ギャハハ! すげえぞボス! 見ろよボンネットの上! 最高の厨房だ!」
この地獄絵図の中で、唯一テンションがバグっている男がいた。
後部座席から身を乗り出した、中華の鉄人(殺人鬼)、ワン・チャンだ。
「あそこの『集光ポイント』にフライパンかざしたら、三秒だぜ!? たった三秒で卵がカチカチのプラスチックみたいに固まりやがった! 太陽光発電ならぬ水晶光調理だ! これならガス代ゼロでチャーハン一億食作れるぞ!」
「笑ってないでエアコンを最強にしろ! あと車内でチャーハンを作るな、ラードの焦げる匂いが充満して酔うだろうが!」
「無理だね! 室外機が熱でイカれて温風しか出さねえ! 今のここは走る蒸し風呂だ! 小籠包の気持ちが理解るぜ!」
ドロシーがアクセルを床まで踏み込む。
だが、トラックの挙動は致命的に怪しかった。
右へフラフラ、左へユラユラ。まるで三半規管を破壊された深海魚のようだ。
「おい婆さん、さっきから運転が荒いぞ。どこ見て走ってやがる。酔っ払い運転で免停になりたいのか?」
「あ? どこ見ても『宝石』だらけで目が回るんだよ! 右を見ても一〇〇カラットのダイヤ! 左を見てもロイヤルブルーのサファイア! あそこにあるデカいのは純金か!? へへっ、ちょっと削って持ち帰れば、借金返済どころか老後はハワイで……」
「幻覚だ! 欲に目が眩んで現実が見えてねえぞこの守銭奴! あれはただの石ころだ!」
俺は叫びながら、こめかみを指の関節でグリグリと押し潰した。
ズキズキと、頭の芯が脈打つ。
偏頭痛の予兆ではない。既に脳がオーバーヒートしているのだ。
ただでさえ『共鳴』の副作用で感覚が過敏になっている俺にとって、この全方位からの視覚情報は、脳のシワの隙間に砂利を詰め込まれるような物理的苦痛だった。
視界の全てが白飛び(ハレーション)し、輪郭が溶け出し、色彩が飽和する。
情報量が多すぎる。
8K画質だろうが32K画質だろうが、人間の脳が処理できるビットレートには限界がある。
今の俺たちは、極彩色のノイズを見せられ続けているのと同じだった。
吐き気がする。
美しすぎるものは、時に毒になる。
「クソッ……おいネオン! ナビはどうなってる! 最短ルートでここを抜けるぞ!」
俺は、最後の頼みの綱として、後部座席でPCと接続している電脳の魔女に声をかけた。
彼女なら、感情や痛覚に左右されない電子の目で、正確なルートを割り出せるはずだ。
そう信じていた。
しかし。
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、この世の終わりのような光景だった。
「あ、あ、エ、エラー……反射係数……測定、不能……」
ネオンが、白目を剥いていた。
比喩ではない。
彼女の瞳孔が開ききり、眼球が高速で痙攣(レム睡眠の百倍速)している。
そして口からは、半透明の青い粘液――未処理のデータゴミ(エクトプラズム)を、ダラダラと垂れ流していた。
「敵性反応、いち、じゅう、ひゃく、一億、一兆……あ、あ、バッファ……オーバーフロー……」
「おいネオン!? しっかりしろ! お前まで熱暴走か!? CPUクーラーが死んだのか!?」
「ち、違いますボス!」
ネオンの背中をさすっていたマシロが、青ざめた顔で叫んだ。
彼女自身、鏡に映らない幽霊だからこそ、この光の迷宮の影響を受けずに済んでいる唯一の生存者だ。
「熱じゃありません! 『反射』です! この水晶、光だけじゃなくて、魔力や電波まで反射してるんです!」
「なんだと?」
「ネオンちゃんが放ったレーダー波が、無数の水晶で無限に反射し合って……その全部が『ノイズ』として彼女の頭の中に返ってきてるんです! いわゆる『合わせ鏡』の中に意識が閉じ込められた状態で……!」
想像してみろ。
自分の発した言葉が、一億人の他人の声となって、一斉に耳元で怒鳴り返してくる状況を。
それは、電子的な拷問だった。
ガタンッ!!
その瞬間、トラックが大きく跳ねた。
ドサササッ! と荷台のゴミ袋が崩れる音が、内臓を揺らす重低音と共に響く。
「きゃああっ! ちょっと、揺れるわよ!」
「サスペンション制御が死んだ! ネオンがダウンしたせいで、姿勢制御プログラムも落ちやがったんだ!」
ドロシーがハンドルにしがみつく。
『アイアン・マザー号』は、ただのトラックではない。高度な電子制御と魔術回路で組み上げられた、走る要塞だ。
だが、その脳(OS)であるネオンを失えば、それはただの「クソ重い鉄の塊」に成り下がる。
「あ、あぶ、ば……システムの、再構築に……しっぱ、い……」
ネオンがビクンビクンと跳ねるたびに、車内のモニターに砂嵐が走り、インパネの計器がでたらめな数値を表示する。
まずい。
非常にまずい。
このままでは、迷宮のど真ん中で立ち往生だ。
外は、音に反応して襲ってくるクリスタル・ガーディアンが徘徊する危険地帯。
しかも、この光の檻の中に長時間いれば、全員が脱水症状と精神崩壊(SAN値ゼロ)で、干からびたミイラになる。
俺はサングラスを押し上げ、周囲を見渡した。
前も、後ろも、右も、左も。
見えるのは、無数に反射する「自分たちの虚像」と、ギラギラと輝く光の壁だけ。
どこが道で、どこが壁なのか。
あるいは、俺たち自身が既に鏡の中の存在なのではないか?
そんな錯覚すら覚える。
「……ハイテクが仇になったな」
俺は呟いた。
高性能なセンサーを持てば持つほど、この「無限のノイズ」は致命的な毒になる。
見えすぎることは、見えないことと同義だ。
情報を詰め込まれすぎた脳は、思考停止するしかない。
この状況、まさに今の俺の人生そのものだ。
余命半年。
やり残したこと、守るべきもの、過去の罪、未来への不安。
それらが一斉に押し寄せ、俺の処理能力を圧迫している。
ああ、いっそ何も考えずに、あの光の中に溶けてしまえれば楽なのに。
……なんてな。
そんなセンチメンタルな逃避を吐いている暇はない。
思考を切り替えろ。
デジタルが死んだなら、アナログで殴るまでだ。
情報を遮断し、原始的な感覚だけを研ぎ澄ます。
それこそが、昭和生まれ(精神年齢)の掃除屋の戦い方だ。
「……ワン。厨房だ」
「あん? 飯か? こんな時に食欲なんざ湧かねえぞ。俺も流石に目がチカチカしてきやがった」
「違う。厨房にある『一番黒いもの』を持ってこい。……特製の、あれだ」
俺の言葉に、ワン・チャンがニヤリと笑った。
その瞬間、彼の顔から「疲れたおっさん」の表情が消え、悪戯を企む「悪ガキ」の顔に戻る。
「へっ、さすがボスだ。わかってらっしゃる。……あるぜ、とっておきのがな」
数分後。
ワンが厨房から引きずってきたのは、ドクロマークと『取扱注意』の札が貼られた、怪しげなドラム缶だった。
蓋を開けると、そこには「闇」そのものが凝縮されたような、ねっとりとしたペーストが詰まっていた。
鼻を突く、強烈な潮の香りと、熟成されたアミノ酸の暴力的な匂い。
『特製・激濃イカ墨ペースト(業務スーパー用・賞味期限不明)』。
「よし、ドロシー。ワイパーを止めろ。ワン、マシロ、行くぞ」
「はい! でも、何をするんですか?」
「決まってるだろ」
俺は、愛用の『スクイージー・マークV(先端ゴム破損気味)』を構え、ドラム缶に突っ込んだ。
たっぷりと黒いペーストをすくい上げる。
それは、光を一切反射しない、完全なる黒。
そして、運転席の窓を開け、灼熱の外気の中に身を乗り出した。
熱い。
肌がジリジリと焼ける音が聞こえるようだ。
「世界が眩しすぎるなら、サングラスをかければいい。……トラックごとな」
ベチャァッ!!
俺は、イカ墨をたっぷりと含んだスクイージーを、フロントガラスに叩きつけた。
「うおおいィィィィ!? 何してんだお前ェェェ!?」
ドロシーの絶叫を無視して、俺は腕を振るう。
右から左へ。上から下へ。
透明だった視界が、漆黒に塗り潰されていく。
光の乱反射が、黒い泥によって物理的に遮断される。
ワンも反対側の窓から身を乗り出し、モップで側面ガラスを黒く塗りたくる。
「ヒャッハー! 落書きの時間だぜぇぇぇ! 見ろよこの黒光り! ゴキブリの背中より美しいぜ!」
「ちょ、まっ、真っ暗! 何も見えないわよ!?」
「それでいいんだ」
俺は窓を閉め、席に戻った。
車内は一転して、静寂な闇に包まれた。
刺すような光の暴力が消え、網膜に残っていた残像――紫色の斑点のようなシミ――が、ゆっくりと薄れていく。
体感温度が、スッと下がった気がした。
いや、実際に下がったわけではない。俺たちの感覚が「視覚」という熱源から解放されたのだ。
「……おい、どうすんだこれ。前が見えねえぞ。心眼で運転しろってか? あたしゃニュータイプじゃねえんだぞ」
ドロシーの声が、暗闇の中で響く。
少し震えているのは、恐怖からか、それとも呆れからか。
「心眼なんて立派なもんは持ってないが……俺たちには『耳』がある」
俺はシートに深く身体を預け、目を閉じた。
ポケットから、懐中時計(No.001)を取り出す。
親指で蓋を弾く。
チッ、チッ、チッ、チッ……。
止まっているはずの秒針が刻む、俺にしか聞こえない爆弾のようなリズム。
その音が、メトロノームとなって俺の乱れた感覚をチューニングしていく。
心臓の鼓動を、時計の針に合わせる。
呼吸を深く、長く。
視覚情報が消えたことで、脳のリソースが聴覚へと再配分される。
解像度が跳ね上がる。
エンジンのアイドリング音(シリンダー内の爆発音まで聞こえる)。
水晶が熱で膨張し、微かに軋む音(ピシッ、という亀裂の音)。
隣のピコの心音(少し速い)。
そして、迷宮の奥から流れてくる、風の音。
風は、嘘をつかない。
空気の流れがある場所には、必ず出口がある。
「……右だ」
俺は静かに告げた。
自分の声が、やけに低く、腹の底に響く。
「風の音が抜けている。反響音が遠い。……時計の針で二時の方角。そこが『道』だ」
「マジかよ……。ぶつかったら修理代はお前の肝臓で払ってもらうからな! 角膜もつけてやる!」
「安心しろ。俺の肝臓はもうアルコール漬けで値がつかない。角膜も焼き付き済みだ」
ドロシーが舌打ちをし、ギアを入れる音がした。
グオンッ。
トラックが動き出す。
視界ゼロのドライブ。
本来なら恐怖で足がすくむ状況だ。
だが、不思議と心は凪いでいた。
光の中で目を焼かれ、情報の濁流に溺れるよりも、この薄汚いイカ墨の闇の中の方が、俺たちのような「日陰者」には性に合っている。
闇は、俺たちを隠してくれる。
闇は、俺たちを許してくれる。
「……そのまま直進。あと五十メートルで左にカーブだ。……壁の反響が変わった。ブレーキ、今だ」
「おらぁぁぁ!」
キキィィィッ!
タイヤが鳴き、横Gがかかる。
ドガガガッ!
車体の側面が何かに擦れる嫌な音が響き、火花が散るイメージが脳裏をよぎる。
だが、致命的な衝撃はない。
抜けた。
「……次、右。少し広い空間に出るぞ」
まるで潜水艦のソナー手のように、俺は音だけで世界を構築し、指示を出し続けた。
ワンのイカ墨の生臭さと、ドロシーの吸う安煙草の紫煙。
混ざり合って、むせ返るような生活臭。
それが、今の俺たちの「現実」だった。
キラキラした宝石なんていらない。
俺たちには、この泥臭い空気で十分だ。
永遠にも思える時間が過ぎた。
あるいは、数分だったのかもしれない。
不意に、風の音が変わった。
閉塞感のある反響音から、広がりのある音へ。
鼓膜への圧迫感が消える。
「……止まれ。抜けたぞ」
俺の合図で、トラックが停止する。
ドロシーが恐る恐るワイパーを動かした。
キュッ、キュッ。
黒い泥が拭い取られ、フロントガラスの向こうに景色が広がる。
そこは、水晶の密度が低い、開けた広場だった。
天井の発光苔も少なく、光の乱反射も収まっている。
薄暗い、いつものダンジョンの景色。
だが、それがとてつもなく愛おしく感じられた。
「ふぅぅぅ……。生きた心地がしなかったぜ……」
ドロシーがハンドルに突っ伏した。
全身から力が抜け、座席に沈み込んでいく。
後部座席では、ピコやマシロもへたり込んでいる。
「……ん、ぅ……」
その時、気絶していたネオンが小さく呻き声を上げた。
再起動したようだ。
白目は元に戻り、いつもの無機質な瞳が、ゆっくりと焦点を結び直していく。
俺を見上げるその瞳には、しかし、いつもの冷徹な光はなかった。
「……ボス?」
「おはよう、ポンコツ。いい夢は見れたか? お前が寝てる間に世界は墨汁まみれになったぞ」
「……夢、ではありません。ログを……確認しました」
ネオンは、まだ焦点の定まらない目で、虚空を睨んだ。
その表情には、怯えのような、あるいは嫌悪のような色が混じっていた。
彼女は自分の二の腕を強く抱きしめ、爪を食い込ませている。
まるで、肌の下を這う虫を追い払うかのように。
「……ノイズの中に……いました」
「あ? 何がだ?」
「……反射じゃない。私のレーダー波の残響でもない……固有のパターンを持つ、『人工的な眼』が……」
ネオンは震える声で続けた。
「……私たちを、見ていました。ずっと。あの光の迷宮の奥から。……観察されていたのです」
車内の空気が、一瞬にして凍りついた。
イカ墨の生臭さとは違う、鉄錆のような緊張感が走る。
ただの自然現象としての光の暴力ではない。
誰かが、意図を持って俺たちを観察していたということか?
俺は、まだ黒い汚れが残るサイドミラー越しに、今来た道を振り返った。
煌めく水晶の森。
その鏡面の一つに、俺たちのトラックの背中が映っている。
だが、その鏡の中のトラックは、実物が走り去った後も、そこに留まっていたように見えた。
気のせいか。
いや、ジンとしての「勘」が告げている。
あれは、ただの反射ではない。
鏡の中の「何か」が、無機質なレンズの絞りを調節し、小さく機械的な駆動音(モーター音)を立てて、俺たちの方へと首を巡らせた。
その動きは、あまりにも滑らかで、そして冷酷だった。




