第106話:水晶渓谷への着地
ゴボォォォォォォォォォォォォォッ!!!
世界が回っているのではない。
俺の脳味噌が、遠心分離機にかけられた豆腐のように崩壊し、頭蓋骨の内側でスラリー状になってシェイクされているのだ。
現在、俺たちを乗せた鉄の塊(センター要塞)は、B10Fの底が抜けたことにより発生した巨大な排水渦に飲み込まれ、未知なる下層へと強制排出されていた。
「掴まってなァァァ! 『水洗ジャーニー』の始まりだァァァ!! 紙がないなら手で拭きなァァァ!!」
運転席でドロシー婆さんが狂ったようにハンドルを回しているが、意味があるとは思えない。
ここは自由落下の土管の中だ。物理法則は既に有給休暇を取って帰宅している。
俺、黒鉄ジンは、荷台の手すりにしがみつきながら、三半規管がミキサーの中の氷のように砕け散る感覚を味わっていた。
「……う、ぐ、おぇぇぇ……」
胃袋が裏返りそうだ。
昨晩食べたカロリーメイト(フルーツ味)と、さっき吸った煙草のニコチン、そして何より――。
(……くせぇ)
俺の嗅覚中枢をレイプしているのは、自分自身の体から発せられる強烈な「匂い」だった。
前話のハイドラ戦で、ワン・チャンがブチまけた「激辛麻婆スチーム」。
あれを全身の毛穴という毛穴で吸収した結果、今の俺は歩く化学兵器と化している。
密閉された水路トンネルの中で、四川風の刺激臭と、下水の腐敗臭と、ドロシーの加齢臭がブレンドされ、地獄のアロマテラピーが完成していた。
自家中毒。
吐きそうだ。いや、もう魂が出そうだ。
「ジン! 吐かないで! ここで吐いたら遠心力で全員にかかります! 車内がゲロまみれの地獄絵図になります! 飲み込んで! 男なら飲み込んで!」
マシロが俺の口を両手で必死に押さえる。
無茶を言うな。
生理現象を根性論で解決できるなら、誰もトイレになんて行かない。
ザザザザザザッ!!
キィィィィィィィン!!
その時。
水路の壁面を擦る音が、湿った水音から、何か硬質なガラスを爪で引っ掻くような、神経を逆撫でする高周波音へと変わった。
そして、前方に「光」が見えた。
「出口だ! 全員、衝撃に備えろォォォ!! 舌噛むなよォォォ!! あと入れ歯押さえろォォォ!!」
ドロシーの怒号と共に、俺たちは光の中へと放出された。
スポォォォォォン!!!
良い音がした。
まるでシャンパンのコルクが抜けるような、あるいは詰まった便器が通った時のような、爽快かつ下品な音と共に、トラックは空中に飛び出した。
浮遊感。
スローモーションになる視界。
俺の動体視力が、飛び散る水滴の一粒一粒を捉える。
水滴の中に映り込む、逆さまの世界。
そこは、水面ではなかった。
「……あ?」
俺の網膜が、白銀の輝きで焼き尽くされる。
着地地点は、水ではなく、滑らかな**「クリスタルの斜面」**だった。
ガリガリガリガリガリガリッ!!!
着水音ではない。
総重量数十トンの金属塊が、モース硬度7の石英と高速で擦れ合う、鼓膜を物理的に破壊するスクラッチ音。
アイアン・マザー号は、ウォータースライダーならぬ「クリスタル・スライダー」を、盛大に火花を散らしながら滑り落ちていく。
「いーやァァァァァ! 火花! 火花が散ってる! 引火する! ガソリンに引火して爆発オチよこれ!」
「摩擦係数ほぼゼロ! ブレーキ不能! このままでは音速を超えます! さようなら皆さん、来世はSSDに生まれたいです!」
ピコとネオンの悲鳴が、ドップラー効果で後ろに流れていく。
俺は薄目を開けた。
眩しい。
眩しすぎる。
ここは天国か? それともパチンコ屋の新装開店初日のフラッシュ演出か?
ズドォォォォォォォン!!!
永遠に続くかと思われた滑走は、平坦な広場にある巨大な岩(水晶)への激突によって強制終了した。
エアバッグ代わりのマシロクッション(高密度霊体)が作動していなければ、俺たちは今頃、トラックのフロントガラスと一体化したモダンアートになっていただろう。
「…………」
静寂。
キーンという耳鳴りだけが、脳内でハウリングしている。
俺は、ふらつく足取りでトラックから降りた。
地面に手をつく。
冷たくて、硬くて、ツルツルしている。
「……次は、酔い止めも用意しとけ……(嘔吐)」
「ジンさァァァん!! キラキラした世界に汚物を撒き散らさないでください!」
俺はキラキラと輝く純白の地面に、虹色のリバースを捧げた。
最悪の着地だ。
***
数分後。
ようやく胃の中身と三半規管が定位置に戻った俺たちは、改めて周囲を見渡した。
そして、全員が絶句した。
言葉を失ったのではない。
あまりの「異物感」に、脳の処理が追いつかなかったのだ。
「……なんだ、こりゃ」
そこは、360度、すべてが発光する水晶で構成された世界だった。
B11F**『水晶渓谷』**。
地面も、壁も、天井も。
見渡す限り、六角柱のクリスタルが剣山のように生え、天井からはシャンデリアのような鍾乳石が垂れ下がっている。
それら全てが、わずかな光源を内部で乱反射させ、プリズムのように虹色の光を放っているのだ。
宝石箱をひっくり返した?
いや、宝石箱の中に住めと言われているようなものだ。
美しすぎて、息苦しい。
「わぁぁぁ! 綺麗! すごい! 王宮みたいです! 見てくださいジン、私がたくさん映ってます!」
マシロが目を輝かせてはしゃぎ回る。
彼女の幽霊としての半透明な体が、水晶の光を透過して、ステンドグラスのように美しく輝いている。
彼女だけが、この世界に似合っていた。
問題は、俺たち「生身」の人間だ。
「目が……目がァァァァァ!!」
俺は両手で目を覆ってうずくまった。
ムスカ大佐の気持ちが今なら痛いほど分かる。
視界に入ってくる光の情報量が多すぎるのだ。網膜が焼ける。
ただでさえ二日酔いのような状態なのに、この輝きは視覚的な暴力だ。
「警告。この階層の環境光度は、地上の晴天時の約五十倍です。水晶体が光を集束・増幅するレンズの役割を果たしています。……直視し続けると、数分で失明します」
ネオンが、手でバイザーを作りながら冷静に分析する。
俺は慌てて懐から、安物のサングラス(ドン・キホーテで500円)を取り出し、装着した。
世界がセピア色に染まり、ようやく許容範囲の明るさに落ち着く。
それにしても、酷いコントラストだ。
周囲は、塵一つない純粋無垢なクリスタルの世界。
対して俺たちはどうだ?
さっきの戦いで浴びたハイドラのどす黒い返り血、泥沼の泥、エンジンの煤、そしてワン・チャンの激辛麻婆スチームの残り香。
汚い。
圧倒的に汚い。
銀座の高級ブランド店のショーウィンドウに突っ込んだ、泥酔したホームレス集団のような居心地の悪さだ。
「チッ、ただの石英か。……ペッ」
ワン・チャンが、地面の結晶を舐めて吐き捨てた。
「なんだよ、舐めて損した。こんなに白いんだから、てっきり岩塩か砂糖の山だと思ったのによ」
「お前の頭の中は食材図鑑しかないのか? ……まあ、俺も一瞬、巨大な氷砂糖に見えたがな」
「けっ、男どもは夢がないねえ」
ドロシーは違った。
彼女はサングラスの奥で、強欲な光を宿した瞳をぎらつかせ、折りたたみ式のツルハシを取り出した。
「野郎ども! 掘れ! 掘りまくれ! ここは宝の山だ! この純度なら、ひとかけらで一ヶ月は遊んで暮らせるぞ! 老後の資金だ!」
「あさましい! 目が眩んでますよドロシーさん! これだから昭和生まれは!」
俺たちは、全員サングラスをかけた怪しい集団となって、この美しすぎる地獄を歩き始めた。
カツーン、カツーン……。
足音が、硬質な反響音となって響き渡る。
自分の足音が、何重にも重なって聞こえる。まるで、誰かにつけられているような錯覚を覚える。
***
探索を進める中で、俺たちは一つの異変に気づいた。
この水晶たちは、ただ光っているだけではない。
「……鏡?」
俺の横にある、高さ三メートルほどの巨大な板状の水晶。
その表面は、原子レベルで研磨された鏡のように、俺たちの姿を完璧に映し出していた。
いや、完璧すぎる。
「キャーッ! 嫌! 見ないで! 見ないでェェェ!」
ピコが悲鳴を上げて顔を隠した。
「私の鼻の毛穴まで映ってるじゃない! 角栓が見える! ファンデの浮きまで! 4K画質やめて! 現実なんて見たくないのよォォォ! 私の肌はアプリ加工済みがデフォルトなの!」
「……私の肌荒れも……これはサーバー冷却不足によるストレスですね……メモリ増設しなきゃ……」
ネオンとピコが、高解像度すぎる自分の姿に絶望している。
確かに、この鏡は残酷だ。
俺の無精髭の一本一本、目尻のシワ、そして瞳の奥の疲れ切った色まで、修正なし(ノー・レタッチ)で突きつけてくる。
「……ケッ。シケた面しやがって」
俺は鏡の中の自分に悪態をついた。
サングラスをかけた、薄汚れたおっさん。
背中には炭化した皮膚を隠すコート。
口元には安っぽい煙草。
まるで死神だ。
その時だった。
フッ、と。
鏡の中の俺が、「瞬き」をしなかった。
「……あ?」
俺は立ち止まり、サングラスを少しずらして鏡を凝視した。
鏡の中の俺も、同じようにサングラスをずらす。
だが、その奥にある瞳が、一瞬だけ――
空洞だった。
ドクン。
心臓が跳ねる。
時間が止まる。
周囲の光が、フッと遠ざかる。
鏡の中の世界だけが、異常な鮮明さを持って俺に迫ってくる。
肉が削げ落ちる。
皮膚が炭のように崩れ落ちる。
筋肉が乾燥して剥がれ落ちる。
そこに立っていたのは、俺の服を着た、白骨死体だった。
その骸骨は、俺と同じように煙草を咥え、顎の骨をカチカチと鳴らして笑った気がした。
『よう。……近いうちに、こうなるぜ』
幻聴。
いや、予感だ。
俺の体の中で進行している「崩壊」を、この鏡は正確に映し出しているのだ。
「……ッ!」
俺は反射的に目を擦った。
まばたきをする。
再び鏡を見る。
そこには、ただの疲れた俺の顔があるだけだった。
だが、冷や汗が背筋を伝う感触は残っていた。
「……ジン?」
マシロが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
ふと見ると、鏡には俺の姿しか映っていない。
マシロの姿はない。
彼女は幽霊だ。鏡には映らない。
キラキラした世界で、彼女だけが「存在しないもの」として扱われている。
俺には「死」が映り、彼女には「無」が映る。
「……なんでもねえよ。ただの目の錯覚だ。老眼かな」
俺はサングラスをかけ直し、強がって見せた。
その時、前方で「ガチン!」という音がした。
「へっへっへ! この手頃なサイズのやつ、持って帰って漬物石にするか!」
ワン・チャンが、道端の手頃な水晶を中華鍋で叩き割ろうとしていた。
ドロシーが血相を変えて叫ぶ。
「やめな! 馬鹿野郎!」
だが、遅かった。
パリンッ。
ワンが水晶の欠片を折った瞬間。
『――助けてくれぇぇぇぇぇ!! 嫌だぁぁぁ! 食われるぅぅぅ!!』
ビクッ!!
全員が飛び上がった。
その声は、ワンでも俺でもない。
見知らぬ男の、断末魔の絶叫だった。
それが、割れた水晶から、大音量のスピーカーのように響き渡ったのだ。
サラウンドで。
「う、うるせぇ!!!」
全員で耳を塞ぐ。
悲鳴は数秒続き、プツンと途切れた。
残響だけが、渓谷にこだまする。
「……なんだ、今のは」
「言わんこっちゃない」
ドロシーが忌々しそうに吐き捨てた。
「ここの水晶はな、ただの石ころじゃねえ。一種の『記憶媒体』だ。強い感情や、死ぬ瞬間の魂の波長を記録しちまう性質がある。……今の声は、昔ここで死んだ、どこぞの冒険者の『最期の声』の再生だ」
背筋が寒くなる。
見渡す限りの輝き。
その一つ一つが、誰かの悲鳴や、絶望の記録だというのか。
俺たちは、宝石箱ではなく、巨大な墓場の中を歩いているのだ。
「……悪趣味なインテリアだぜ」
ワン・チャンも、さすがに気味が悪くなったのか、持っていた水晶をそっと元の場所に戻した。
漬物石にするには、少し怨念が強すぎる。
***
さらに渓谷の奥へ進むと、空気の質が変わった。
冷たい。
物理的な気温だけでなく、霊的な寒気が肌を刺す。
マシロが俺の背中にしがみつく力が強くなる。
目の前に、ひとつの巨大な琥珀色の水晶が現れた。
高さ五メートルほど。
その内部に、何かが封じ込められている。
「……おい、これ」
俺は息を呑んだ。
中に入っていたのは、化石ではない。
人間だ。
フル装備の冒険者パーティー、計四名。
装備のデザインからして、そう古くはない。数年前、あるいは数ヶ月前か。
彼らは全員、背中合わせで武器を構え、何者かから身を守ろうとするポーズのまま、琥珀の中に閉じ込められていた。
顔。
極限の恐怖が張り付いた表情。
開いた口。見開いた目。
肌の色も、服の質感も、まるで生きているかのように鮮明だ。
時が止まっている。
「……生体反応なし。心停止から推定三年以上経過。……ですが、細胞の保存状態は完璧です。腐敗も乾燥もしていません」
ネオンがスキャン結果を震える声で読み上げる。
「まるで……『標本』ですね」
「ああ。それも、最高級のコレクションだ」
俺は水晶の表面を指でなぞった。
冷たい。
彼らは死んだ瞬間を、永遠に真空パックされているのだ。
この美しすぎる地獄の、展示品として。
「……管理人は誰だ? ここのキュレーター(学芸員)には、一度会って文句を言わなきゃならねえな」
その時だった。
チリン……。
水晶の林の奥から、音が聞こえた。
それは、風鈴のような、あるいは薄いガラス細工が触れ合うような、繊細で美しい音。
だが、今の俺たちには、死神の足音にしか聞こえなかった。
チリン……チリン……。
音は、ゆっくりと、確実にこちらへ近づいてくる。
鏡の回廊の向こうから。
このギャラリーの主が、招かれざる客人を迎えに来たようだ。




