第105話:スクイージーの斬撃
シュゴオオオオオオオオ……。
俺の体から、白い蒸気が立ち昇っていた。
それは、風呂上がりの湯気などという生易しいものではない。F1マシンのエンジンがブローする寸前の白煙であり、あるいは産業革命期の蒸気機関車が吐き出すそれであり、要するに俺の体温が沸点を超えている証拠だった。
B10F『亡者の地底湖』。
俺たち『アンラッキー・サーティーン』を乗せた、半壊したトラックの荷台の上。
俺、黒鉄ジンは一人、仁王立ちしていた。
視界が、異常なほどクリアだ。
ワン・チャン特製の「激辛スチーム療法」によって、俺の脳内麻薬はダムが決壊したようにドバドバと分泌されている。
世界がスローモーションに見える。
空気中に漂う水滴の粒子、その一つ一つに映り込む風景までもが、4K有機ELディスプレイ以上の解像度で認識できる。
ドクン。ドクン。ドクン。
心臓が、デスメタルのドラムソロのように高速でビートを刻んでいる。
本来なら不整脈で倒れているところだが、今の俺は「無敵モード(スター状態)」だ。
BGMが聞こえる気がする。
たぶん、運動会でよく流れる『天国と地獄』だ。
「…………」
俺は、右手にある「相棒」を握りしめた。
グリップの感触。
プラスチックのチープな質感。
だが、今の俺には伝説の聖剣エクスカリバーよりも頼もしく感じる。
カインズホームで購入、税込980円。
先端に合成ゴムのブレードがついた、どこにでもある窓拭き用ワイパー。
正式名称:『スクイージー・マークV』。
「ジン、来ます! 全方位です! 逃げ場、ありません!」
ワイパーに憑依したマシロの声が、脳内に直接響く。
彼女の霊力が、安物のゴムブレードに青白い光を宿らせている。
「ああ。……見えてるさ。スローすぎて欠伸が出るぜ」
その瞬間。
俺を取り囲む九つの巨大な蛇――階層主『水葬のハイドラ』の口が、一斉に開かれた。
その喉の奥で、膨大な魔力が圧縮され、青白く発光する。
カッッッ!!!
発射。
九方向からの同時射撃。
それは「水鉄砲」なんて可愛いものじゃない。
コンクリートの壁すら一瞬で貫通する、超高圧の水流カッターだ。
物理法則的に考えれば、回避は不可能。
俺の体は蜂の巣になり、トラックごとチーズのように穴だらけになる未来が確定している。
だが。
俺の目には、その致死性のレーザーが、まったく別のものに見えていた。
(……汚ねえな)
そう。
それは「攻撃」ではない。
キッチンのシンクに飛び散ったトマトソース。
あるいは、風呂場の鏡にこびりついた、頑固な水垢。
ただの、掃除すべき「汚れ」だ。
プロの清掃員として、これを見過ごすことは、俺のプライドが許さない。
ヒュッ。
俺は最小限の動きで上体を逸らした。
鼻先数ミリ。
水流が空気を切り裂く衝撃波が、俺の前髪を揺らす。
頬に飛沫がかかる。
だが、俺の高熱化した皮膚に触れた瞬間、ジュッという音と共に蒸発した。
「……チッ。汚ねえ水を撒き散らすんじゃねえよ」
俺は不機嫌に呟いた。
まるで、ワックスがけをした直後の床に泥足で踏み込まれた時のような、底知れぬ怒りが湧いてくる。
「拭き掃除の手間が増えるだろうが」
俺の言葉に反応したのか、ハイドラの一つの首が、怒りの咆哮と共に俺に噛み付いてきた。
巨大な顎。
ダンプカーすら丸呑みにできるサイズだ。
その牙が、俺の頭上から迫る。
スローモーションの世界で、俺はハイドラの口の中に虫歯があるのを発見し、「ちゃんと歯を磨けよ」とどうでもいい感想を抱いた。
俺は、動いた。
剣を振るうようにではなく。
あくまで「窓を拭く」ように、手首のスナップを効かせて、スクイージーを横薙ぎに滑らせた。
キュッ!!
戦場に似つかわしくない、間の抜けた音が響いた。
雨の日にワイパーがガラスを擦る音。
黒板を爪で引っ掻く音に次ぐ、人類が不快と感じる音ランキング上位のあの音だ。
だが、その結果は「不快」どころではなかった。
ズンッ……。
ハイドラの首が、動きを止めた。
斬り落とされたのではない。
スクイージーのゴムが通過した軌跡に沿って、その巨体の「水分」だけが一瞬にして除去されたのだ。
バサァァァァァッ……。
ミイラ化。
いや、フリーズドライだ。
水分を失った肉体は、維持すべき形を保てず、砂の城が崩れるようにサラサラと灰色の粉末になって崩れ落ちた。
「えっ!? 消しゴム!? 今、Photoshopの消しゴムツールみたいに消えたわよ!?」
後方でピコが目を丸くして叫んでいる。
メタいツッコミだ。だが、現象としては正しい。
俺はワイパーのゴムについた水滴を、パチンと指で弾いた。
「水分一〇〇%の体で、水切りワイパーに喧嘩を売るとはな。……相性が悪すぎだ。ジャンケンでグーを出した相手に、油圧プレス機を出すようなもんだぞ」
だが、敵もさるもの。
B10Fの階層主の名は伊達ではない。
ボコォッ!
崩れ落ちた首の断面から、湖の水が逆流し、瞬く間に新たな首が再生した。
ニョキニョキと生えてくる様は、まさに悪夢だ。
「無駄だ! 奴は水がある限り不死身だぞ! 諦めて逃げな!」
運転席からドロシーが叫ぶ。
無限再生。
RPGなら、特定のイベントアイテムがないと倒せない負けイベントだ。
だが、俺は溜息をついた。
やれやれ、これだから掃除の素人は困る。
「……いいかババア、よく聞け。ついでにメモっとけ」
俺はスクイージーをくるくると回した。
「カビ取りと一緒だ。表面だけ拭いても、菌糸(根っこ)が残ってりゃ何度でも生えてくる。……なら、どうするか?」
「はあ? 漂白剤でもかけるのか?」
「違う。……根こそぎ『乾燥』させるんだよ」
俺は腰を落とした。
重心を低く。
イメージするのは、年末の大掃除。
窓ガラス一枚を、最短最速で拭き上げるプロの動き。
「ギョオオオオオオオオ!!」
ハイドラの九つの首が、今度は同時に襲いかかってきた。
全方位からの同時多発テロ。
逃げ場なし。
だが、俺はその中心で、静かに回転を始めた。
「行くぞマシロ。……必殺・『業務用・回転窓拭き(トルネード・ワイパー)』」
「はいっ! ……って、ネーミングセンス! あと目が回りますぅぅぅ!!」
ヒュンヒュンヒュンヒュン!!
俺は独楽のように高速回転した。
遠心力で加速するスクイージー。
ゴムブレードが空気を切り裂き、俺の周囲に「完全なる乾燥空間」を作り出す。
キュキュキュキュキュキュッ!!
連続するスクイージー音。
DJがレコードを擦る音のようだが、起きている現象はもっと凶悪だ。
俺の防御円に触れたハイドラの首が、次々と水分を奪われ、干物になって弾け飛ぶ。
再生しようとする水すらも、近づいた瞬間に霧散させられる。
再生速度 vs 清掃速度。
本来なら拮抗するはずの勝負は、一方的な虐殺へと変わった。
「すげえ……」
腕組みをして見ていたワン・チャンが、感心したように頷いた。
その目は、職人の技を見る目だ。
「見ろ。あれがプロの『三枚おろし』だ。包丁を使わずに、素材の水分だけを抜いて旨味を凝縮させてやがる。……勉強になるな。今度、クラゲの冷菜であれをやってみるか」
「いや、料理じゃないから! あれ掃除だから! なんでちょっと美味そうに見えるのよ! 私の食欲を刺激しないで!」
ネオンのツッコミが入る中、ハイドラ本体(胴体)が初めて「恐怖」を感じたようだった。
九つの首全てが乾燥し、再生が追いつかない。
このままでは、本体ごと極上のビーフジャーキーにされる。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
ハイドラが、湖の底から巨大な咆哮を上げた。
それは悲鳴にも似ていた。
その振動で、地底湖全体の水が巻き上げられる。
ザッッッパァァァァァァァン!!!
視界が、水壁で覆われた。
高さ五十メートルを超える、巨大な津波。
ハイドラは、自分自身を水の壁で覆い隠し、質量そのもので俺たちを押し潰そうとしたのだ。
いわば、ちゃぶ台返し。
技術で勝てないなら、物理量で潰すという脳筋戦法だ。
「ジン! あれは無理です! 拭ききれません! 面積が広すぎます! ワイパーの長さが足りません!」
マシロが悲鳴を上げる。
確かに、俺のスクイージーの幅は三十センチ。
対して、迫りくる津波の幅は数百メートル。
物理的に、一度に拭き取るのは不可能だ。
だが。
「……マシロ。お前、俺に憑いて何ヶ月だ?」
俺はトラックの屋根から、迫りくる水の壁を見上げた。
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、巨大なガラス面があるようにしか見えない。
「え?」
「窓拭きの極意を忘れたか? ガチャガチャ動かすな。跡が残る」
俺はスクイージーを、正眼に構えた。
吸い付くようなゴムの感触。
マシロの霊力が、ブレードの先端に一点集中する。
「角度を合わせろ。ワイパーの基本は『一筆書き』だ。……一度触れたら、最後まで止めずに拭き切る。始点から終点まで、迷うな」
「……! 了解! 角度45度、密着させます!」
俺は地を蹴った。
トラックから跳躍し、圧倒的な質量の暴力である津波の正面へ、身体一つで突っ込む。
時間が止まる。
空中に浮遊する水滴。
マシロの息遣い。
ハイドラの怯えた瞳。
そして、俺の心臓の鼓動。
――ここだ。
俺は、真一文字にスクイージーを振るった。
技名? そんなものはない。
強いて言うなら、俺がバイト時代に店長から叩き込まれた、ルーティンワークだ。
『水切り一閃・カインズ流』
ヒュンッ。
風切り音すらしない、静寂の一撃。
だが、その瞬間。
世界に一本の「線」が走った。
津波の中央。
俺のスクイージーが通過した空間だけが、分子レベルで水分を除去され、完全な「真空乾燥地帯」となったのだ。
パキィィィィン……!!
硬質な音が響く。
巨大な津波が、まるでガラス板のように左右にパカっと割れた。
割れた断面は、鏡のように平滑で、水滴一つ垂れてこない。
モーゼの海割れ?
いや、あれよりももっと日常的で、事務的な光景だ。
そして。
その延長線上にいたハイドラの本体もまた、縦に綺麗に「拭き取られて」いた。
「…………ギ?」
ハイドラの断末魔は、短かった。
自分の体が、左右に分かれていることに気づく間もなく。
その巨体は、水分を失った砂の城のように、サラサラと粒子となって崩れ落ち、消滅した。
未練も、怨念も、全て乾燥して風に舞った。
ザザザザザザ……。
左右に割れた津波が霧散し、湖に静寂が戻る。
俺は、トラックのボンネットに着地した。
右手首を軽く振り、スクイージーについた最後の水滴を払う。
パチン。
「……ふぅ。頑固な汚れだったな」
俺はポケットから(奇跡的に濡れていなかった)煙草を取り出し、口に咥えた。
火をつける。
深く吸い込み、紫煙を吐き出す。
味はしない。
だが、仕事終わりの一服というのは、気分の問題だ。
「追加料金を貰いたいもんだぜ。……なあ、マシロ」
「はい! お疲れ様ですジンさん! ……でも、なんか嫌な音がしません? こう、世界の土台が崩れるような……」
マシロの言葉に、俺は耳を澄ませた。
ピシッ。
ピキピキピキッ……。
湖の底から、何かが割れる音が聞こえる。
俺の水切り一閃は、ハイドラだけでなく、湖の底の岩盤(フロアの床)にまで到達していたらしい。
そこへ、膨大な水圧がかかり――。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!
巨大な地響きと共に、湖の底が抜けた。
まるで、巨大な浴槽の栓を抜いたかのように。
「おい……まさか……」
ドロシーが顔面蒼白で叫ぶ。
「底が抜けたぞォォォォ!! 水が全部落ちていくゥゥゥ!! ていうか、また落ちるのかァァァァ!?」
巨大な渦潮が発生した。
湖の水が、割れた亀裂へと一気に吸い込まれていく。
当然、水面に浮かんでいた俺たちのトラックも、抗う術なくその渦の中心へと引きずり込まれる。
「いやああああ! また落ちるのォォォ!? 今度は水責めェェ!? 私、泳げないのよ幽霊なのに!」
「計算不能! 計算不能! 本日の落下回数、規定値をオーバーしています! 作家さん、これ展開の使い回しじゃないですか!?」
ネオンがメタ発言を叫ぶ中、俺は呆れたように煙草を咥え直した。
吸い込まれていく景色を見ながら、俺は呟いた。
「……おいおい。まるで水洗トイレだな」
ゴボォォォォォォォッ!!!
俺たちは、ハイドラの残骸と共に、大量の水流に乗って、B11Fへの直通パイプ(排水管)へと流されていった。
「フラッシュ(排水)。……ってな」




