第104話:階層主:水葬のハイドラ
ドッッカァァァァァァァァァァァァン!!!
世界が白に染まった。
いや、「白」という色は生易しい。それは色ではなく、視神経を焼き切るほどの光の暴力であり、鼓膜を破壊する音の壁であり、そして全身の骨格をバラバラに分解しようとする物理的な衝撃だった。
B10F『亡者の地底湖』。
深さ不明、水温不明、成分不明の巨大な水溜まりに、俺たち『アンラッキー・サーティーン』を乗せた鉄の塊は、成層圏から落下した隕石の速度で突き刺さったのだ。
ガガガガガガガガッ!!
ミシミシミシミシッ!!
センター要塞のフレームが悲鳴を上げる。
その音は、まるで巨大な怪獣が鉄骨を咀嚼しているかのようだ。
俺の体はシートにめり込み、内臓が本来あるべき位置から数センチほど上にズレる感覚を味わった。
眼球が奥に引っ込み、脳みそが頭蓋骨の壁に叩きつけられる。
「あ、ぶ、グゥ……ッ!」
肺の中の空気が、歯磨き粉のチューブを強く握った時のように、口から強制的に排出される。
視界が明滅する。
走馬灯?
そんな優雅なものは見えない。
見えるのは、砕け散ったフロントガラスの破片が、スローモーションでダイヤモンドダストのように舞い踊り、その向こうから、圧倒的な質量の「水」が壁となって押し寄せてくる光景だけだ。
ザッパァァァァァァァァン!!
冷たい。
いや、痛い。
着水の衝撃で窓枠から侵入してきた飛沫が、俺の体を濡らす。
その瞬間、俺の思考は「死」という一文字で埋め尽くされた。
ジュッ……。
熱したフライパンに氷水を垂らした時のような、不吉な音が体内から聞こえた気がした。
炭化した背中の皮膚。
壊死し、感覚を失い、それでも微かな熱を持って俺を生かしていた細胞たちが、氷点下に近い地底湖の水によって急激に冷却されたのだ。
ビキビキビキビキッ……!
収縮。
ガラス細工を急速冷凍した時のように、俺の背中の筋肉と神経が、物理的にひび割れていく。
激痛?
いや、これは痛みではない。
「信号過多」だ。
脳の処理能力を超えた冷気が、脊髄を駆け上がり、意識のヒューズを飛ばそうとする。
(……動か、ねえ)
指先一つ動かせない。
まばたきすらできない。
俺の体は、一瞬にして精巧な氷像へと変わり果てていた。
「ジン! ジン! 息をして! ねえ、死なないでよ!」
マシロの声が、水中の泡のようにボコボコと歪んで聞こえる。
彼女は必死に俺の体を揺さぶっている。
その手から伝わるはずの「体温」すら、今の俺には感知できない。
ただ、世界が寒色系のフィルタ越しに見えるだけだ。
寒い。
暗い。
ああ、これが「水葬」か。
悪くない。燃えるゴミとして出されるよりは、風情がある――。
「……おい、寝てんじゃねーぞ掃除屋。まだ着いただけだ」
ドロシー婆さんの、しゃがれた声が響いた。
俺の意識が、泥の底から引き上げられる。
プカ……プカ……。
衝撃が収まり、トラックと連結されたセンター要塞は、巨大な浮き輪のように水面を漂っていた。
エアバッグ代わりに展開された巨大な緩衝材(見た目は発酵しすぎたパン生地のようなクッション)に埋もれながら、他のメンバーたちがゾンビのように呻き声を上げている。
「……生存確認。全員、四肢欠損なし。内臓破裂なし。精神的ダメージ、計測不能……」
ネオンが、壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返している。
ピコは「私の髪が! キューティクルが! 淡水魚の臭いがする!」と叫びながら手鏡を探し、レオは「騎士としてあるまじき着水姿勢だった。もっとこう、白鳥のように……」と訳のわからない反省会を一人で開いている。
全員無事だ。
奇跡的な確率だが、俺たちは生きて、B10Fの水面に浮かんでいる。
ただし、俺という「冷凍マグロ」を除いて。
「チッ……クソが。エンジンがイカれちまった」
運転席から、ドロシーが舌打ちをした。
彼女はキーを何度も回しているが、エンジンは「キュル……キュル……」と、死にかけの老人の咳のような音を立てるだけで、息を吹き返す気配がない。
「おいおい、冗談だろババア。こんな場所で『漂流教室』ごっこか? 俺たちは小学生じゃないんだぞ」
「文句があるなら足漕ぎで進みな。……それより、ヤバいのがお出ましだ」
ドロシーの声が、一段階低くなった。
彼女が睨む先。
ヘッドライトが微かに照らす闇の奥。
ザワァ……。
湖面が、不自然に波立った。
風はない。
なのに、水面全体がまるで巨大な生物の皮膚のように蠢き、盛り上がっていく。
「…………来る」
誰かが呟いた瞬間。
世界が反転した。
ズゴォォォォォォォォォォッ!!!
水柱ではない。
山だ。
山が、水の中から生えてきたのだ。
大量の水を滝のように滴らせながら現れたのは、青白い鱗に覆われた、九つの巨大な鎌首。
それぞれの首が、高層ビルのような威圧感を放ちながら、天を突き刺すように聳え立っている。
B10F階層主――**『水葬のハイドラ』**。
「ギョオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
九つの口が一斉に開かれ、咆哮が轟く。
その音圧だけで、物理的な衝撃波が発生した。
水面が沸騰したように泡立ち、俺たちの乗るトラックが、台風の中の木の葉のように激しく揺さぶられる。
「ひぃぃぃぃぃ!! おっきい! 無理! あんなの生物学的におかしいわよ! 首が九つって、肩こりどうなってるの!?」
「ピコ、そこじゃないです! エネルギー反応、測定限界突破! 勝てません! 撤退! 戦略的撤退を提案します! ……あ、エンジン動きません!」
ピコとネオンが抱き合って震える。
俺は、薄れゆく意識の中で、その巨大な怪物をぼんやりと見上げていた。
首の一つ一つが、電車の車両ほどの太さがある。
その眼球は、深海の圧力に耐えるために濁り、感情の一切を排した捕食者の色をしていた。
(……ああ、デカいな)
俺の思考は、どこか他人事だった。
恐怖がないわけではない。
ただ、体が冷えすぎて、アドレナリンすら分泌されていないのだ。
寒い。
動けない。
このまま、あの巨大な口に飲み込まれれば、少しは温かいだろうか。
そんな馬鹿なことを考えていた。
バシュッ!!
ハイドラの首の一つが、バネのようにしなり、トラックの荷台へと襲いかかった。
狙いは正確無比。
ガグンッ!!
ベキベキベキッ!!
金属が、濡れた煎餅のように簡単に噛み砕かれる音。
俺たちの頭上の屋根が引き剥がされ、漆黒の洞窟の天井が露わになる。
飛び散るガラス片。ねじ切れる鉄骨。
俺のすぐ横を、ハイドラの巨大な牙が掠めていった。
「いやあああ! 私の美顔器コレクションがァァァ!!」
「私のサーバー冷却装置がァァァ!!」
悲鳴が交錯する。
だが、そんな絶望的な状況下で、一人だけ、全く別の次元で物事を見ている男がいた。
「……ホォ」
ワン・チャンだ。
この中華料理人は、傾いた車内で仁王立ちになり、愛用の中華鍋を構えていた。
その瞳孔は開ききり、口元からは涎が垂れている。
恐怖? 違う。
それは、三日三晩何も食べていない猛獣が、極上の獲物を見つけた時の顔だ。
「九つの首……つまり、首肉が九本取れるってことか。しかも再生能力持ち? ……夢の食い放題じゃねえか」
こいつ、正気か?
いや、最初から狂っていた。
ワンは舌なめずりをすると、中華鍋で足元の排熱ダクトを蹴り飛ばした。
カァン!!
甲高い音が響き、エンジンの熱を逃がすための鉄蓋が外れる。
そこから、陽炎が揺らめくほどの猛烈な熱気が吹き出してくる。
「おいババア! このエンジンの余熱、何度だ?」
「ああん? 落下逆噴射でオーバーヒート寸前だ! 八百度はあるだろうよ! 触ったら灰になるぞ!」
「上等だ。……最高の『蒸し器』になるぜ」
ワンはニヤリと笑うと、腰に下げていたサバイバルナイフを抜き、トラックの備え付け給水タンクへと突き立てた。
躊躇はない。
まるで長年連れ添った妻を殺すような、手慣れた一突きだ。
プシューッ!!
タンクから水が噴き出す。
ワンはその水を、中華鍋で受け止め、器用に排熱ダクトの中へと流し込んでいく。
「おい幽霊! ボス(ジン)をあの排気口の前に固定しろ! とびきりの『特製サウナ』の開店だ!」
「えっ!? な、何を……!? ジンさんは冷凍食品じゃないんですよ!?」
マシロが戸惑うが、ワンは止まらない。
彼は懐から、怪しげな小瓶を取り出した。
ラベルには『危険物:取扱注意』のドクロマーク。
中に入っているのは、真っ赤な粉末と、ドス黒い液体。
ダンジョン深層でしか採れない激辛香辛料『爆裂唐辛子』と、『地獄山椒』のオイル漬けだ。
「四川料理の極意は、火力と香辛料だ。……特に、泥臭い川魚と、凍りついた古漬け(ジン)には、たっぷり効かせてやるのが礼儀ってもんだ!」
ドババババッ!!
ワンは、その致死量のスパイスを、灼熱のエンジンルームへと投入した。
その手つきは、芸術的ですらあった。
そして、最後に残った水を一気に注ぎ込む。
「喰らえ! 奥義・**『四川風・毒霧蒸気(麻辣スチーム)』**!!」
ジュワアアアアアアアアアアアアアッ!!!
爆発的な音。
排気口から、火山噴火のような勢いで白煙が噴き出した。
それはただの水蒸気ではない。
赤みを帯びた、毒々しい霧だ。
目を開けていられないほどの刺激臭と、肌を刺すようなカプサイシンの微粒子を含んだ、化学兵器レベルの激辛スチームが、車内を埋め尽くす。
モクモクモクッ……!!
「ゲホッ! ゴホッ! な、何これ!? 目が! 目が痛い!」
「うわあああ! 粘膜が! 私のデリケートな粘膜が焼けるゥゥ!」
「酸素マスク! 誰か酸素マスク持ってきて! ガスマスクでもいい!」
ピコやネオン、そしてドロシーまでもが涙目で咳き込む。
そして、その効果は敵にも劇的だった。
「ギャ……!? グオオオオッ!?」
噛み付こうと口を大きく開けていたハイドラの首たちが、一斉に動きを止めた。
蒸気を吸い込んだのだ。
肺の奥まで、激辛成分が浸透する。
九つの首が、苦しそうに咳き込み、のたうち回る。
巨大な眼球が充血し、涙を流している。
どんな物理攻撃も再生する怪物も、唐辛子の刺激には勝てないらしい。
「効いてる! 効いてますよワンさん! でも私たちも死にそうです!」
マシロが叫ぶ。
だが、ワンの真の狙いは、敵の無力化ではなかった。
「……ボス! どうだ! 最高の湯加減だろ!?」
ワンが叫んだ先。
排気口の真正面。
最も濃い、最も熱い蒸気が直撃する位置(特等席)に、俺、黒鉄ジンは固定されていた。
ボォォォォォォ……。
熱い。
とてつもなく熱い蒸気が、全身を包み込む。
普通なら、呼吸困難で死ぬか、皮膚がただれるレベルの熱量だ。
おまけに、致死量のカプサイシンが含まれている。
普通の人間なら、ショック死しているだろう。
だが。
(……ああ)
俺の脳内で、何かが繋がる音がした。
カチッ。
冷え切って石のように固まっていた筋肉繊維の隙間に、熱い蒸気が入り込む。
凍りついていた神経回路に、強烈なスパイスの刺激が、電気ショックのように駆け巡る。
今の俺は、味覚も嗅覚も麻痺している。
だから、喉が焼けるような辛さも、鼻が曲がるような刺激臭も感じない。
感じるのは、純粋な「刺激」だけだ。
その刺激が、眠っていた細胞を無理やり叩き起こす。
ドクン。
心臓が動く。
ドクン、ドクン。
血流が加速する。
皮膚から浸透するカプサイシンが、血液の温度を爆発的に上昇させる。
寒い? 痛い?
いや、違う。
これは「熱」だ。
生きているという、圧倒的な熱量だ。
俺の意識が、明確な輪郭を取り戻す。
指先が動く。
瞼が開く。
視界からノイズが消え、鮮明な映像が戻ってくる。
白い湯気の向こうで、のたうち回る蛇の姿が見える。
「……ふぅ」
俺は、白煙の中でゆっくりと息を吐いた。
肺の中に溜まっていた冷気が吐き出され、代わりに熱い、暴力的なまでの活力が満たされる。
「いい湯加減だ。……整ったぜ」
カァン! カァン! カァン!
ワン・チャンが中華鍋をお玉でガンガン叩いてリズムを取る。
それは、料理の完成を告げるゴングだ。
「さあボス! 下ごしらえ(酒蒸し)は終わったぞ! あとはお前が、メインディッシュを『骨抜き』にする番だ!」
ザッ。
蒸気の中から、一つの影が立ち上がった。
全身から湯気を立ち上らせ、濡れた髪をかき上げながら。
その手には、五代目となる相棒『スクイージー・マークV』が握られている。
「……まったく。サウナ上がりに運動たぁ、健康的なこった」
俺の体は、軽かった。
関節のキシみも消え、指先の感覚も(熱と痛みで誤魔化されてはいるが)戻っている。
マシロも、俺の背中に憑依し、霊力を同調させた。
「もう! 髪に匂いがついたらどうしてくれるんですか! ファブリーズ一本じゃ足りませんよ! これ、絶対落ちないやつです!」
「文句言うな。加齢臭よりマシだろ。……行くぞ、マシロ」
俺はゴムを「カチッ」とセットし、デッキブラシを構えた。
目の前には、涙目で咳き込んでいる九つの首。
でかい図体しやがって。
こっちは腹ペコなんだよ。
いや、腹は減っていないが、暴れたりなくてうずうずしている。
「悪いな、ヘビ野郎。俺は生もの(刺身)は苦手なんだ」
俺はニヤリと笑った。
口腔内で、久々に煙草の味がした気がした。
いや、それは唐辛子の味かもしれないが、今の俺には極上の嗜好品だ。
「……しっかり中まで、火を通してやるよ」
俺は地面(トラックの床)を蹴った。
爆発的な加速。
さあ、掃除の時間だ。




