第103話:無重力とマシロの体温
ダダダダダダダダダダダッ!!
鼓膜を破壊せんばかりのようなドラムロール。
いや、これはドラムではない。もっと根源的で、もっと暴力的な、世紀末のファンファーレだ。
トラックの改造スピーカーが限界を超えて振動し、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を、地下世界の闇に向かって吐き散らかしている。
「ヒャッハァァァァァァァァァ!! 見ろぉぉぉ! 人がゴミのようだァァァァ!! あ、俺たちがゴミだったわァァァァ!!」
ドロシー婆さんの狂った笑い声が、BGMと混ざり合い、地獄の不協和音を奏でていた。
現在、俺たち『アンラッキー・サーティーン』は、B4FとB10Fを繋ぐ巨大な縦穴――通称『悪魔の喉笛』の食道を、胃袋に向かって逆流するゲロのように自由落下していた。
周囲は漆黒の闇。
ヘッドライトが切り裂く視界の中、無数の瓦礫と、泥水と、得体の知れない巨大魚が、スローモーションで並走している。
重力消失。
内臓が喉の奥までせり上がり、金玉が縮み上がる、あの独特の浮遊感。
「お、お、お、おろろろろろろ……」
後部座席では、ピコが口を押さえて震えていた。
その顔色は、ゲーミングPCのLED制御ソフトがバグった時のように、毒々しい紫から蛍光グリーンへと高速で変色している。
「キャアアアア! ス、スカート! スカートが重力に反逆してるわよネオン! 押さえて! 物理演算エンジン仕事して! これじゃパンチラアニメの第一話じゃない!」
「……無理です……計算……落下速度、終端速度に到達……空気抵抗係数……あ、エラー……私の仮想胃袋もエラー……」
ネオンは白目を剥きながら、口からエクトプラズム(という名の虹色のモザイク処理されたデータ)を吐き出しそうになっていた。
電子の幽霊に三半規管があるのかは謎だが、どうやら「3D酔い」という概念は霊界にも適用されるらしい。
そんな阿鼻叫喚のカオス空間で、一人だけ、物理法則のバグを楽しんでいる馬鹿がいた。
「見ろボス! すげえぞ! 麻婆豆腐が空中で『小宇宙』を形成してやがる!」
ワン・チャンだ。
この中華料理人は、無重力空間で中華鍋を振るという、NASAも想定外の暴挙に出ていた。
見てほしい。
空中に漂う豆腐の白。
挽肉の茶色。
そして、それらを包み込むラー油の赤。
それらが表面張力によって完全な球体となり、まるで生まれたばかりの惑星のように、車内という名の小宇宙を公転しているのだ。
刻まれたネギが、衛星のようにその周りを回っている。美しい。
美しすぎて、今自分たちが死に向かって落下しているという事実を忘れそうだ。
「宇宙食だ! こいつは学会で発表できるぜ! パクッ! ……熱ゥッ!!」
「遊んでんじゃねーよ! 誰が掃除すると思ってんだバカヤロー!! あとそのラー油が目に入ったらどうすんだ! 失明しながら死ぬのか俺たちは!?」
俺は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
いや、正確には、声を出すための呼吸プロセスが、エラーを起こしている。
ゴオオオオオオオオオオオッ!!
ガガガガガガッ!
凄まじい風切り音と、車体が軋む音。
急激な気圧変化で、耳の奥がキーンと鳴っている。
だが、それ以上に俺を恐怖させているのは、この状況の「音」でも「映像」でもない。
――「無」だ。
(……おい、嘘だろ)
俺はハンドルを握る自分の手を見つめた。
白く骨ばった指が、革のグリップに食い込んでいる。
視覚情報はそう伝えている。
だが、触覚情報が帰ってこない。
まるで、ラグの酷いVRゲームをプレイしているようだ。コントローラーを握っているはずなのに、アバターの手が動くだけで、手応えが一切ない。
ガタンッ!
車体が大きく揺れ、シートベルトが俺の鎖骨を締め上げる。
本来なら、ここで「ぐっ」と呻き声を上げる場面だ。
炭化した背中の皮膚が剥がれ、筋肉が断裂し、神経が焼き切れるほどの激痛が走るはずだ。
だが、俺の脳内サーバーに届くのは、「404 Not Found」のエラーメッセージだけ。
(……痛く、ねえ)
痛くないからラッキー?
冗談じゃない。
痛みは、生体の警報装置だ。
それが鳴らないということは、俺の体は既に「故障した機械」として処理されているということだ。
背中で何が起きている? 血が出ているのか? 膿んでいるのか? それとも、もう背中自体が崩れ落ちてなくなっているのか?
確認するのが怖い。
自分の体の輪郭が溶けて、このまま闇と同化してしまうんじゃないかという、根源的な恐怖。
「ジン! 顔色が真っ白ですよ! 息してますか!?」
隣で、マシロが俺の顔を覗き込んでいた。
彼女は幽霊なので、無重力の影響を受けずにふわりと浮いている。
重力に縛られない彼女の髪が、水中花のように美しく広がっている。
その瞳には、俺への心配と、パニックになりそうな不安が入り混じっていた。
「……あ、あァ。問題ねえよ。……絶叫マシンは得意なんだ。富士急ハイランドで鍛えたからな」
俺は引きつった笑みを浮かべ、強がってみせた。
だが、口元の筋肉が上手く動いた自信がない。
マシロは何かを言いかけた。
「あの、ジンさん、さっきから鼻血が出てますけど……それも演出ですか?」
「あ?」
指で鼻の下を拭う。
赤い液体がついている。
温かいのか冷たいのかすら分からない。
ただの赤いインクだ。
その時だった。
思考の脱線を許さない、物理的な「死」が襲来したのは。
ドゴォォォォォォォン!!
トラックの右側面から、巨大な衝撃が走った。
世界がスローモーションになる。
(あ、岩だ)
俺の動体視力が、窓の外から飛び込んできた物体を捉えた。
直径二メートルほどの、濡れた岩石。
それが、ドロシーのトラックが弾き飛ばした反動で、ピンボールのように俺たちの要塞へ突っ込んできたのだ。
パリンッ……。
強化ガラスが、飴細工のように砕け散る。
無数の破片が、ダイヤモンドダストのようにキラキラと車内を舞う。
綺麗だな、と俺は思った。
走馬灯モードに入った脳みそが、現実逃避を始めている。
そういえば、小学校の時に校庭でガラス片を拾って、宝石だと信じて宝箱に入れていたっけ。あれ、結局どうしたんだっけ。捨てたんだっけ。
ブチィッ!!
乾いた音が、俺の思考を引き戻した。
俺の体を座席に縛り付けていた、古びたシートベルト。
長年の劣化と、今の衝撃に耐えきれず、バックルの根元から千切れたのだ。
「――っ!?」
体にかかっていた圧力が、唐突に消失する。
次の瞬間、強烈な遠心力が俺を襲った。
俺の体は、壊れたマネキンのように宙に浮き、回転しながら、砕けた窓の「外」へと吸い寄せられていく。
「ジンさん!!」
マシロの絶叫。
俺は反射的に、窓枠に残った金属フレームを掴もうと右手を伸ばした。
届く。
距離にして三十センチ。
十分に届く距離だ。
スカッ。
指先が、フレームを撫でた。
それだけ。
「握る」という動作が起きなかった。
脳は「握れ!」と命令コードを連打している。だが、ハードウェア(手)側のドライバが応答しない。
指先に力がこもらない。
摩擦係数がゼロになったかのように、俺の手は無力に滑り落ちた。
(……ああ、そうか。俺の手はもう、何も掴めないのか)
妙に冷静な絶望が、胸に広がる。
俺の体は、ゆっくりと、しかし確実に、車外の虚空へと押し出された。
ゴオオオオオオオオ……。
外の世界の風切り音が、急に大きくなる。
肌を切り裂くような風圧。
泥の臭い。
死の臭い。
「くっ……! 止まれェェェ!」
マシロが手を伸ばす。
彼女の「念動力」が発動し、見えない力が俺の足首を掴もうとする。
だが――
バヂヂヂヂッ!!
激しい乱気流と、ダンジョンの濃密な魔素が、静電気のような火花となってマシロの干渉を弾いた。
台風の中で、蜘蛛の糸を使おうとするようなものだ。
「無理です! 外のエネルギー流動が強すぎて、サイコキネシスの波長が合いません! 計算不能! 計算不能!」
ネオンがエラー音を撒き散らしながら叫ぶ。
俺の体は、完全に車外へ放り出された。
遠ざかる車体。
割れた窓の向こうで、マシロが何かを叫んでいる。
音はもう聞こえない。
ただ、彼女の口の動きだけが見えた。
(ジ、ン……)
重力が戻ってくる。
いや、空気抵抗か。
俺は暗闇の中へ、ゴミのように落下していく。
ああ、これが死か。
RTA失敗。記録、B4F。死因、落下死。
笑えないオチだ。
俺は目を閉じた。
その時。
「――させません!!」
脳内に直接響くような、強い意志のこもった声。
閉じた瞼の裏が、強烈な光で焼かれた。
カッッッ!!!
目を開ける。
そこには、太陽があった。
いや、違う。
マシロだ。
彼女が、トラックから飛び出してきたのだ。
幽霊? 浮遊霊? そんな生易しいものじゃない。
全身から青白いプラズマを噴出させ、輪郭がブレるほどの高エネルギー体となって、俺に向かって直滑降してくる。
「マシロさん!? 何をする気ですか!? それ以上霊子密度を圧縮したら、霊核が焼き切れます! 貴女の存在定義(ID)が崩壊しますよ!?」
ネオンの悲鳴じみた警告が、インカム越しに聞こえた。
だが、マシロは止まらない。
彼女は、俺の胸ぐらを掴む勢いで、空中で俺に衝突した。
ドスンッ!!
重い。
物理的な質量。
幽霊が、質量を持った?
いや、それよりも――
「……熱ッ!?」
俺は思わず声を上げた。
熱い。
マシロが俺にしがみついたその場所から、火傷しそうなほどの熱量が流れ込んでくる。
本来、幽霊の体温は絶対零度に近い冷気のはずだ。
だが、今の彼女は、まるで核融合炉だ。
霊体を無理やり物質化させ、この世界の物理法則と摩擦を起こし、魂を燃やして熱を発している。
「離しません……ッ! 絶対に、離しません!」
マシロは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、俺の胸に押し付けていた。
その腕が、俺の首に食い込む。
痛い。
熱い。
苦しい。
――ああ、感覚がある。
死滅したはずの俺の触覚センサーが、彼女の過剰なまでの熱量によって、強制的に叩き起こされたのだ。
「冷たい」でも「痛い」でもない。
「生きている」という熱。
「私が、あなたの『重り』になります! あなたがどこへも行かないように! 闇に流されないように! 私という質量を感じてください!」
彼女の叫びが、暴風雨の中でもはっきりと聞こえた。
俺は、震える手で――今度はしっかりと感覚のある手で――彼女の背中に腕を回した。
華奢な背中だ。
だが、そこには燃えるような命の鼓動があった。
「……バカ野郎」
俺は、熱さで滲む視界の中で、ニヤリと笑った。
「幽霊のくせに、生きている人間より温かいじゃねえか。……カイロ代わりにしては、上等すぎるぞ」
「うるさいです! 減らず口叩いてないで、しっかり捕まっててください!」
マシロは実体化した脚で俺の胴体を挟み込み(正直、太ももの感触までリアルすぎて変な声が出そうになったが)、背中のスラスター代わりの霊力噴射で、軌道を修正した。
ガシィッ!
俺たちは、再びトラックの開いた窓へと帰還し、座席に転がり込んだ。
マシロはそのまま、俺をシートに押し付け、自分の手足を俺の体に絡みつかせた。
人間シートベルト。
いや、幽霊拘束具か。
「このまま固定します! もう絶対に逃がしませんからね! トイレに行く時も離れませんから!」
「それは勘弁してくれ。……まあ、今は甘えとくか」
俺は全身で感じる彼女の「体温」を、痛み止めのように噛み締めた。
この熱がある限り、俺はまだ、ただのガラクタには戻らない。
その時。
無線機から、ドロシーの怒鳴り声が響いた。
それは、感動的なシーンをぶち壊す、現実の到来告げる合図だった。
「おいバカップル! イチャついてる尺はもうねえぞ! 着床まであと五秒! 歯ぁ食いしばれェェ!!」
フロントガラスの無い窓の向こう。
闇の底に、巨大な鏡のような水面が迫っていた。
B10F、地底湖。
コンクリートの壁に激突するのと同じ衝撃が来る。
「逆噴射用意ィィィ!! タイミング合わせな! ズレたら内臓が口から出るぞ!!」
ドロシーのトラックから、青い炎が噴き出す。
俺も操縦桿を握り締め、叫んだ。
「ネオン! 全スラスター、下向きに最大出力! ブレーキかけろォォォ!!」
「了解! 衝撃防御展開! ……あ、もう無理、吐きます」
ズゴォォォォォォォォッ!!
センター要塞の底部から、爆発的な推力が生まれた。
強烈なGが、今度は下から突き上げる。
背骨が圧縮され、視界がブラックアウトしかける。
だが、俺の胸にはマシロがしがみついている。
彼女の体温が、俺の意識を現世に繋ぎ止めるアンカーだ。
着水まで、あと三秒。
二秒。
一秒。
マシロが、俺の耳元で囁いた。
その声は、轟音の中でも、不思議と静かに響いた。
「私の体温、忘れないでくださいね」
ドッッカァァァァァァァァァァァァン!!!
視界が真っ白になり、世界が水飛沫の中に消えた。
俺たちは、地獄の底、B10Fの冷たい水の中へと、燃える隕石のように突き刺さった。




