第102話:B10F、地下大瀑布へのショートカット
ブーッ。ブーッ。ブーッ。
無機質な電子音が、地下の閉鎖空間に響き渡っていた。
それは、スーパーのレジで期限切れの割引シールを通した時の音にも似ているが、もっと絶望的で、もっと殺意を覚える音だった。
ダンジョンB4F『迷わずの湿地』最深部。
B5Fへと続く巨大な『転移ゲート(エレベーター)』の前。
俺たち『アンラッキー・サーティーン』の面々は、その巨大な鉄扉の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「…………」
全員の視線が、ゲートの操作盤に釘付けになっている。
そこには、赤いLEDの文字が、無情な事実を告げていた。
『SYSTEM ERROR:異物混入によりシャフト閉鎖中』
『復旧見込み:未定(早くても一週間)』
一週間。
七日。
一六八時間。
一〇〇八〇分。
「…………あー」
俺、黒鉄ジンは、ポケットからくしゃくしゃになったハイライトを取り出し、口に咥えた。
火をつける。
紫煙を深く吸い込み、肺に充満させ、ゆっくりと吐き出す。
味はしない。
舌の上で転がるはずの苦味も、喉を焼く刺激も、数日前から完全に消え失せている。
だが、俺は「あー、うめェ」と呟くように演技をし、煙草を指で挟んで、操作盤の赤い文字を指差した。
「ネオン。翻訳してくれ。この『異物』ってのは、具体的に何を指してるんだ?」
俺の問いに、傍らで端末を叩いていた電子の幽霊、ネオンが顔を上げた。
彼女の表情は、ブルースクリーンが表示されたWindows95のように青ざめていた。
「……解析完了しました、マスター。このゲートの動力源である地下魔力パイプに、高密度の金属塊が詰まっています。その形状、質量、そして微量に検知される『トマトソースの成分』から推測するに……」
ネオンが一度言葉を切り、絶望的な溜息をついてから言った。
「先ほど私たちが泥沼に沈めた、ガレス団長の重装甲戦車(アイアン・トマト号)です」
シン……と、場が静まり返る。
泥沼の湿気を含んだ風が、ヒュオオオと吹き抜けていく。
数秒の沈黙の後。
全員の理性が、同時に決壊した。
「あいつ最後までェェェェェェ!!!」
「置き土産が過ぎるでしょうがああああ!!!」
「死んで尚、迷惑をかけるとかどういう了見!? ていうか死んでないわよね!? 絶対わざと詰まったわよねあのトマト!!」
ピコが地団駄を踏み、ツムギが爆弾を取り出し、マシロが頭を抱えて叫ぶ。
なんということだ。
あの「歩く重騎士」は、戦闘で負けた腹いせに、自らの愛車を配管に詰まらせるという、便所の詰まりのようなテロ行為を働いたのだ。
「一週間……一週間だと?」
俺は煙草を地面に叩きつけ、ガシガシと頭を掻きむしった。
冗談じゃない。
俺の余命は、医者の診断によればあと半年。
いや、体の崩壊速度からすれば、もっと短いかもしれない。
そんな中での一週間は、永遠にも等しいロスだ。
カップラーメンが出来上がるのを待つ三分間ですら惜しいのに、一週間もここで泥水を啜って待てというのか。
「爆破しよう」
俺は真顔で言った。
「ゲートごと吹き飛ばせば、風通しが良くなる。穴が開けば落ちれるだろ」
「バカなんですかジンさんは!! それだと私たちが瓦礫と一緒に生き埋めです! ミキサーにかけられたイチゴみたいになりますよ!?」
マシロが必死に俺の襟首を掴んで揺さぶる。
だが、思考は止まらない。
他のルートは? 階段は? 壁を掘るか?
いや、このダンジョンの階層間の隔壁は、核シェルターより分厚い岩盤だ。正規ルート以外での突破は不可能に近い。
「詰んだ……」
誰かがポツリと漏らした。
湿地のジメジメした空気が、さらに重くのしかかる。
俺たちの「RTA」は、こんなくだらない場所で、配管工の到着待ちによって終了するのか。
その時だった。
ズズズズズズ……。
背後から、重低音が響いてきた。
地響きと共に、泥を巻き上げて近づいてくる巨大な影。
錆びついた鉄の塊。
排気管から黒煙を吐き出し、まるでホラー映画の怪物が逆再生で蘇るかのように、そのトラックはバックで戻ってきた。
キキィィィィッ!
派手なブレーキ音と共に停止したのは、先ほど「あばよ」と言って走り去ったはずの、ドロシー婆さんの『アイアン・マザー号』だった。
ウィーン。
運転席の窓が開き、皺だらけの顔にサングラスをかけた婆さんが顔を出す。
「……チッ。シケた顔して立ち往生してんじゃねえよ、貧乏神ども」
ドロシーは不機嫌そうに舌打ちをした。
俺は呆れてため息をつく。
「なんだ、忘れ物か? ババア。老眼鏡なら頭の上に乗ってるぞ」
「ああん? 誰がボケ老人だ。……忘れ物っつーか、ああ、そうだ」
ドロシーはサングラスを少しずらし、ギロリと俺たちを睨みつけた。
「『分別できない粗大ゴミ(お前ら)』を捨て忘れたんだよ。焼却炉まで運んでやろうかと思って戻ってきてやったんだ。……感謝しな」
ツンデレか。
いや、この婆さんの場合、ツンが99%でデレが致死量の毒劇物だ。
だが、その言葉には、今の俺たちにとって、蜘蛛の糸ほどの希望が含まれていた。
「……運んでやるって、どこへだ? ゲートは死んでるぞ」
俺が問うと、ドロシーはニヤリと笑った。
その笑みは、悪魔が契約書を差し出す時のそれに酷似していた。
「ゲート? そんな文明的なモン、あたしの辞書にはねえよ。……『裏道』を使う」
ドロシーがダッシュボードから取り出したのは、ボロボロに破れ、コーヒーのシミだらけになった古い地図だった。
彼女は脂ぎった指で、地図の端――正規ルートから大きく外れた、地図の空白地帯を指差した。
「ここだ。B4Fの泥沼の最奥、地図にも載ってねえ廃棄区画。通称『悪魔の喉笛』」
「悪魔の……喉笛?」
マシロが不安そうに復唱する。
「ああ。この階層の泥や排水がすべて流れ込む、巨大な排水溝だ。……ここを降りれば、B5Fどころか、B10Fの地底湖まで直通で行ける」
「直通……?」
嫌な予感がした。
排水溝。直通。B10F。
俺の脳内で、物理演算シミュレーションが高速回転する。
B4FからB10Fまでの深度差は、推定数千メートル。
そこを「直通」で繋ぐものがあるとすれば、それは「道」ではない。
「……おい、ババア。まさかとは思うが」
「そのまさかさ」
ドロシーは、入れ歯が外れそうなほど豪快に笑った。
「落差三〇〇〇メートルの『大瀑布』だ。滝壺までフリーフォール。運が良ければ五分で着く。運が悪ければ……ま、水面のシミになって魚のエサだ」
シーン……。
再び、静寂が訪れた。
今度は、先ほどのような絶望による静寂ではない。
あまりの狂気に、脳の処理が追いつかないことによるフリーズだ。
「きゃ、却下ァァァァァァァァ!!!」
マシロの絶叫が、湿地帯の空気を引き裂いた。
「ぜっ、絶対に嫌です! 死ぬ! 物理的に死ぬ! 三〇〇〇メートルって富士山から飛び降りるようなものじゃないですか! しかもトラックで!? バカなの!? 死にたいなら一人でやってください!」
マシロがドロシーのトラックに掴みかかり、ポルターガイスト現象のように車体を揺らす。
他のメンバーも同様だ。
ピコは「計算不能」と呟いて白目を剥き、レオですら「騎士道に反する自殺行為だ」と首を振っている。
だが。
「行くぞ」
俺の声に、全員の動きが止まった。
「……え?」
マシロが、信じられないものを見る目で俺を見る。
俺は新しい煙草を咥え、演技ではない、本心からの笑みを浮かべた。
味はしない。
だが、脳髄が痺れるような高揚感だけは、確かに感じていた。
「案内しろ、ババア。……いや、ドロシーさんよ」
「ジン!? 正気ですか!? ジンさんは病人なんですよ!? 背中が炭になってるんですよ!? 衝撃で砕け散りますよ!?」
マシロが俺の腕にすがりつく。
その手は震えていた。
俺の体を気遣う、優しく、そして痛々しい震えだ。
だが、俺は彼女の手をそっと外し、こう言った。
「マシロ。エレベーターの修理待ちで一週間だ。七日だぞ」
「だ、だからって、命を捨てるよりはマシです!」
「違うな。……俺の寿命があと半年だとして、一週間はその『約1/25』だ。消費税より高いコストを払って、ただ指をくわえて待つのか?」
俺は、動かないゲートを見上げた。
「俺たちは『RTA』をやってるんだ。安全なルートで遅れるより、死ぬ確率が高くても速いルートを選ぶ。……それが、死に急ぎ野郎の流儀だろ」
「…………ッ」
マシロが息を呑む。
彼女は知っている。俺に残された時間が、砂時計の砂のようにサラサラとこぼれ落ちていることを。
そして、俺がその砂を一粒たりとも無駄にする気がないことを。
「……わかりました」
マシロは俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。
そして顔を上げると、涙目のまま、ヤケクソのように叫んだ。
「もう知りません! 地獄の底まで付き合いますよ! その代わり、死んだら呪いますからね!」
「上等だ。死んだらその時は、三途の川で宴会でもやろうぜ」
俺はドロシーに向き直り、親指を立てた。
「交渉成立だ。……連れて行けよ、地獄のショートカットへ」
ドロシーは、サングラスの奥で目を細め、ニタリと笑った。
「いい度胸だ。……ションベンちびるなよ、若造」
B4Fの最果て。
そこは、まさに「世界の終わり」と呼ぶにふさわしい光景だった。
ゴオオオオオオオオオオオ……。
耳をつんざくような轟音。
大地が途切れ、その先には何もない。ただ、圧倒的な虚空が広がっているだけだ。
湿地帯の泥水が、すべてその断崖絶壁へと流れ込み、巨大な茶色のカーテンとなって奈落の底へと落ちていく。
底は見えない。
立ち上る水飛沫が霧となって視界を遮り、深淵の闇が口を開けて待っている。
「…………」
センターのメンバー全員が、顔面蒼白でその光景を見下ろしていた。
足がすくむ。
本能が「ここから先へ行ってはいけない」と警鐘を鳴らしている。
ドロシーの『アイアン・マザー号』と、俺たちの『センター要塞』は、極太のワイヤーで連結されていた。
今回は、牽引のためではない。
俺たちが逃げ出さないための、強制連行用の鎖だ。
「おい掃除屋。遺言は済ませたか?」
無線機から、ドロシーの声が響く。
その声は、遊園地の絶叫マシンの係員のように楽しげだ。
「ああ。……いつでもいいぜ」
俺は運転席で、シートベルトをきつく締め直した。
隣ではマシロが、俺の腕にしがみつきながら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお経を唱えている。
後部座席では、ワン・チャンが中華鍋を頭に被り、「これをパラシュート代わりにすれば空気抵抗で……」とブツブツと物理的に不可能な計算をしていた。
「ネオン、衝撃防御展開。ピコ、全員のシートベルト確認。……飛ぶぞ」
「りょ、了解……。生存確率0.0001%……計算エラー……計算エラー……」
ネオンが壊れたレコードのように呟く中、ドロシーのトラックがエンジンを唸らせた。
ヴォォォォォォォン!!
マフラーから火が吹く。
ニトロ噴射の準備完了。
「ヒャッハァァァァァァ!!! 急がば回れ? 知るかボケェ! 回る暇がありゃ飛び降りなァ!!」
ドロシーの狂った叫びと共に、アイアン・マザー号が急加速した。
タイヤが泥を蹴り、空転し、そしてグリップする。
連結された俺たちの要塞も、強引に引きずり出される。
「うわあああああああああああああ!!!」
「いやあああああああああああああ!!!」
「ぬわあああああああああああああ!!!」
全員の悲鳴が重なる。
トラックが断崖の縁を越えた。
前輪が宙に浮く。
後輪が浮く。
そして、世界から「地面」が消えた。
フワッ。
強烈な浮遊感。
内臓が喉の奥までせり上がってくる、あの独特の感覚。
俺たちの体は、重力の枷を外され、自由落下を開始した。
ゴオオオオオオオオオオオッ!!
風切り音が鼓膜を叩く。
視界がぐるりと回る。
上を見ると、遠ざかるB4Fの天井が、まるで小さなシミのように小さくなっていく。
周囲には、俺たちと同じように滝に流された巨大な魚や、流木、岩などが、スローモーションのように浮かんで見えた。
落ちている。
いや、飛んでいる。
質量を持った鉄の塊が、物理法則に従って、加速度的に速度を増していく。
「あ、あ、あ……」
マシロが泡を吹いて気絶しかけている。
俺は、ガタガタと震える要塞の中で、ハンドルを握りしめたまま、前方のドロシーのトラックを見た。
トラックの窓から、婆さんの高笑いが聞こえてくる気がした。
「これが生きるってことだよォォォォ!! 最高だねえええええ!!」
狂っている。
だが、不思議と恐怖はなかった。
頬を叩く風圧。
全身にかかるG。
死と隣り合わせのこの感覚こそが、今の俺にとっては「生きている」という実感だった。
味のしない人生に、唐辛子を丸ごとぶち込んだような刺激。
「……ああ。悪くない風だ」
俺は口元の煙草が風で吹き飛ばされるのを感じながら、ニヤリと笑った。
さあ、行こうぜ。
地獄の底、B10Fへ。
最短最速、命知らずの直滑降だ。




