第100話:老兵の忠告
ギャァァァァァァァァァァァッ!!
断末魔の悲鳴が、岩場のキャンプサイトの静寂を物理的に殴りつけた。 敵襲ではない。拷問でもない。 ただ、「夕飯」の時間だった。
「み、水ぅぅ! 誰か液体窒素を持ってきてぇぇ! 舌が! 私の舌の表面温度が融点を超えて、細胞レベルで核融合を起こしてるわ!」 「辛いとかそういう次元じゃないでしょ! 口の中にマグマ流し込まれた気分よ! 訴えてやる! 消費者庁と保健所と国連人権理事会と、あとついでにユニセフにも通報してやるわよワン!」
ネオンが白目を剥いて地面を転がり、ピコが涙目で水をガブ飲みしている。 二人の目の前にあるのは、中華鍋の底でドス黒く煮えたぎる、地獄の釜のような液体――ワン・チャン特製『地獄麻婆・改(カプサイシン3000倍・対ダンジョン生物用)』だ。 湯気だけで目が潰れそうな刺激臭が漂い、鍋の上空には、あまりの辛さに空間が歪み、謎のモザイク処理が発生しているようにも見える。 もはや料理ではない。食卓に並んだ「生物兵器」だ。
「カッカッカ! 情けねえ悲鳴だなぁ! 食い物は暴力だ! 内側から燃やさなきゃ、明日への活力にゃならねえぞ!」
ワン・チャンが中華お玉をエクスカリバーのように振り回して笑う。 その横で、ドロシー婆さんが真っ赤な豆腐を豪快に頬張っていた。
「ほう……! こいつはいい。喉が焼けるようだ。若い頃に燃料不足で飲んだ工業用アルコールを思い出すねぇ!」 「だろ!? 隠し味にB4Fの『火炎草』の根っこをすりおろして入れたんだ。普通の人間なら一口でショック死して三途の川をバタフライで渡るレベルだが、ここには変人しかいねえからな!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。 だが、その騒ぎの中心で、たった一人だけ「凪」のように静かな男がいた。 黒鉄ジンだ。
時間は、スローモーションへと移行する。 ジンの視界の中で、飛び散る赤いスープの一滴が、宝石のようにゆっくりと空中で回転している。 彼はレンゲで真っ赤なマグマをすくい、それを口元へと運んだ。 普通なら、唇に触れた瞬間に神経が悲鳴を上げ、脳内アラートが「直ちに吐き出せ」と命令を下すはずだ。
だが、ジンの脳は静まり返っていた。 レンゲが唇を割り、口腔内へと侵入する。 ハム。 温かい。いや、熱いのだろう。 豆腐の柔らかな感触。挽肉の粒感。とろみのついたアンの粘度。 それら「物理的なテクスチャ」だけが、解像度高く脳に伝達される。 しかし、肝心の「味」という情報だけが、プツリと切断された電話線のように、どこにも繋がっていない。
(……ああ、やっぱりか)
ジンは咀嚼する。 モグ、モグ、モグ。 機械的なピストン運動。 彼の脳内では、まるで深夜のテレビ放送終了後のような、砂嵐の映像が流れていた。 辛くない。痛くない。美味くない。不味くない。 ただ、「有機物を胃袋に格納している」という事実だけがある。 虚無だ。 ゴム粘土を噛んでいるのと何ら変わりない。
(さて、どう反応するのが正解だ? ここは『辛い』という顔をするべきか? それとも『美味い』と絶賛するべきか? 演技力が試されるな。俺の人生、最近ずっと即興劇ばっかりじゃねえか)
ジンはコンマ数秒で思考を巡らせ、表情筋をマニュアル操作した。 口角を上げ、少しだけ目尻を下げる。 「ピリ辛だが、箸が止まらない美味さ」を表現するための、最適な筋肉の配置。
「……ん? ああ、ピリッとして美味いな。山椒が効いてる」
その一言で、ワンの笑いが凍りついた。 世界の時が止まる。 ワンは、吸いかけの煙草を口から落としそうになりながら、ジンの顔を凝視した。 彼は料理人だ。客の反応で、その客の体調から昨晩の性生活まで見抜くプロだ。 今のジンの反応は、「辛さに強い」のではない。「信号が来ていない」のだ。
人体には、生理現象という嘘をつかないバロメーターがある。 カプサイシンを摂取すれば、交感神経が刺激され、毛穴が開き、発汗する。 それは意思でコントロールできるものではない。 だが、今のジンはどうだ。 額に汗一粒かいていない。 顔色一つ変えていない。 瞳孔の収縮すら起きていない。
(……おいおい。嘘だろ、ボス。人間やめたとは聞いてたが、そこまでイッちまったのか?)
ワンの視線が鋭くなる。 隣に座っていたマシロが、震える声でコップを差し出した。
「……ジン、お水飲む?」
彼女は、テーブルの下でスカートの裾を握りしめていた。 その手は白く変色するほど力が込められている。 幽霊である彼女には、憑依時の記憶がある。 ジンの感覚が、どこまで壊れているか。 味覚だけじゃない。熱さも、痛みも、生きている実感さえも、彼の中から砂時計の砂のようにこぼれ落ちていることを、彼女だけは知っていた。
「……おう、サンキュー。ちょうど喉が渇いてたんだ」
ジンは笑った。 いつも通りの、ひょうひょうとした、胡散臭い笑顔で。 だが、その笑顔はあまりにも精巧すぎて、逆に精巧なシリコンマスクのようだった。 マシロは唇を噛み、俯いた。 その小さな震えを、ジンは見ないふりをして水を飲み干した。 水もまた、味のしない透明な液体でしかなかった。
*
食後。 岩場に停めた『アイアン・マザー号』の屋根の上。 B4Fの湿った夜風が、錆びた鉄と腐葉土の混じった匂いを運んでくる。 天井に見える発光苔が、まるで曇った星空のようにボンヤリと輝いていた。 遠くで、正体不明の魔物が遠吠えを上げている。
「……で、何の用だ? ババア」
ジンは、屋根の縁に腰掛け、空を見上げていた。 ドロシー婆さんが、葉巻の紫煙をくゆらせながら隣に座る。 その煙が、ジンの鼻先をかすめる。 匂いは分かる。 嗅覚はまだ生きている。それが少しだけ、ジンを安堵させた。
「トラックの点検を手伝えって言ったろ。……ま、マザーはピンピンしてるがね」 「だろうな。さっきの麻婆食って平気な顔してるババアの車だ。胃袋も対戦車用の装甲板でできてるんだろ」 「減らず口叩くんじゃないよ」
ドロシーは短くなった葉巻を指で弾き飛ばすと、その火の粉を目で追いながら、単刀直入に切り出した。
「……いつからだ?」 「何がだ?」 「惚けるんじゃないよ。舌だよ。さっきの麻婆、あんな涼しい顔で食える人間はこの世にいねえ。……いや、死人なら別か」
ドロシーの眼光が、夜闇の中でギラリと光る。 それは獲物を狙う猛獣の目であり、同時に、数多の修羅場と死別を潜り抜けてきた老練な医師のような、全てを見透かす目だった。
「……チッ。鼻のいいババアは嫌われるぜ。加齢臭でも嗅ぎ分けたか?」
ジンは観念したように息を吐き、懐から愛用の『ガードナーの懐中時計(No.001)』を取り出した。 金メッキの剥げた、古びた時計。 秒針は、12時の位置でピタリと止まっている。 壊れてからもう五年も経つ、ただのガラクタだ。
だが、ジンの耳には聞こえていた。 チッ、チッ、チッ、チッ……。 正確無比なリズム。 いや、それは以前よりも速くなっている気がする。 まるで、時限爆弾のカウントダウンのように。
「……半年だそうだ。ヤクモの野郎がそう言ってた」 「半年?」 「俺の体だよ。背中の炭化が進んでる。神経系もガタが来てるらしい。味覚が消えたのは、ついさっきだ。……次は視覚か、聴覚か。あるいは、性欲か。ロシアンルーレットだな」
ジンは自嘲気味に笑い、時計を強く握りしめた。 金属の冷たさが、掌に食い込む。
「最近な、この時計の音がうるさいんだ。……親父さん(ガードナー)が、『早くこっちに来い』って急かしてるみたいでな」
ガードナー。 かつてこのセンターを管理していた先代であり、ジンの師匠。 そして、ドロシーの旧友でもある男。
「俺は、あいつら(マシロたち)をB100Fまで送り届ける。それが俺の最後の仕事だ。……仕事が終わったら、俺も親父さんのところに行ける。そう思うと、不思議と怖くねえんだよ。むしろ、少し楽しみですらある。……これって、一種の『整い』ってやつか? サウナより効くぜ」
ジンの言葉は、静かだった。 あまりにも静かで、透き通っていて、美しかった。 まるで、悟りを開いた高僧が、入滅の時を待つかのような安らぎ。 そう、彼は準備していたのだ。 「綺麗な死に方」をするための準備を。 自分の人生という物語を、感動的な最終回で締めくくるための、脚本を書いていたのだ。
その瞬間。 世界が歪んだ。 ドロシーの右足――真鍮と鋼鉄でできた重量五キロの義足が、不気味な駆動音と共に、あり得ない角度まで振り上げられるのが見えた。
(……え、なに? カンフー映画?)
ジンがそんなメタなツッコミを脳内で処理するよりも早く、暴力は執行された。
ガゴォォォォォォォッ!!
「ぶべっ!?」
ジンの側頭部に、ドロシーの義足がフルスイングで叩き込まれた。 手加減? そんなものはない。 首の骨が折れなかったのが奇跡といえるレベルの衝撃。 脳味噌が頭蓋骨の中でシェイクされ、眼球が飛び出しそうになる圧力がかかる。 悟りの境地? 美しい死に様? そんなポエムは、物理的な衝撃と共に成層圏まで吹き飛んだ。
ジンは屋根の上を無様に転がり、アンテナに激突して止まった。 口の中が切れ、鉄の味が広がる。 ……鉄の味? そうだ、味覚が消えていたはずなのに、この痛みと血の味だけは、鮮烈に脳に焼き付いた。 痛みは、味覚を超える。
「い、ってぇ……! 何しやがるクソババア! 脳震盪で記憶飛んだらどうすんだ! せっかくのシリアスなシーンが台無しだろうが!」 「シリアス? はんっ! 死にてえって抜かしたのはテメェだろうがァァァ!!」
ドロシーが激昂していた。 彼女は義足でトラックの屋根をガンガンと踏み鳴らし、鬼の形相でジンを見下ろしている。 その背後には、まるで不動明王のような怒りのオーラが立ち昇っているように見えた。
「ふざけんじゃねえぞ、このクソガキが! ガードナーが呼んでる? 早くそっちに行きたい? 寝言は棺桶の中で言いやがれ!」
ドロシーは、ジンの胸倉を掴み上げ、至近距離で睨みつけた。 唾が飛ぶ。 葉巻と機械油の匂いが、ジンの鼻孔を犯す。 その顔は、皺くちゃで、醜くて、最高に生々しかった。
「あいつはなァ! ガードナーって男はなァ! 今のテメェよりもっと酷い状態で、手足がもげても、内臓が半分になっても、『まだ生きて帰る』って言い続けてたんだよ!」
ドロシーの脳裏に、古い記憶がフラッシュバックする。 セピア色の記憶ではない。血の色をした鮮明な記憶だ。 血まみれで、泥だらけで、それでもニヤリと笑って「ドロシー、ツケは必ず払う」と言った、あの頑固な男の顔。
「あいつが呼んでるだと? 笑わせるな! あいつがお前を見てたらこう言うね。『サボってねえで働け! 俺の分まで美味いもん食って、いい女抱いて、クソして寝ろ!』ってな!」 「…………」 「綺麗に死のうなんて思うな。悲劇のヒーロー気取って、満足げに昇天しようなんて思うなよ」
ドロシーは、ジンの額に自分の額をガンッ!とぶつけた。 頭突きだ。 星が飛ぶ。 視界がチカチカと点滅する中で、ドロシーの声だけが、福音のように、あるいは呪いのように響いた。
「どうせ死ぬなら、前のめりに倒れろ! 泥水すすって、みっともなく這いつくばって、最後まで悪あがきして、クソまみれになって死ね! ……それが『遺失物管理センター』の管理人の、掃除屋の死に様だろうがァ!!」
その言葉は、ハンマーのようにジンの心を砕いた。 響いた。 骨の髄まで。 かつて、ジン自身が、誰かに言った言葉だったかもしれない。 あるいは、ずっと忘れていた「初期衝動」だったかもしれない。
(……ああ、そうか。俺はいつから、そんなに偉くなったんだ?)
俺は掃除屋だ。 他人のゴミを拾い、未練を処理し、誰からも感謝されずに消えていく、掃き溜めの住人だ。 そんな俺が、悟ったような顔をして死ぬ? ちゃんちゃらおかしい。 俺に似合うのは、畳の上での大往生じゃない。 ゴミ捨て場の真ん中で、中指立ててくたばる姿だ。
ジンの中で、冷え切っていた何かに、火がついた。 それは小さな種火だが、決して消えることのない、執着の炎だ。 心臓の鼓動が変わる。 不整脈気味だった弱々しいリズムが、力強いロックのビートへと変わっていく。
「……くっ、カッカッカ」
ジンは喉の奥から笑い声を漏らした。 痛みで顔が歪む。 だが、その表情は、先ほどの能面のような笑顔より、ずっと人間らしかった。
「……違いない。あの人は、そういう鬼畜上司だったな。労基に訴えたら勝てるレベルのブラック上司だ」 「はんっ。分かったらさっさと行け。……シケた顔は見飽きたよ」
ドロシーは乱暴に手を離した。 ジンはその場に尻餅をつき、それからドロシーの胸ポケットから新しい葉巻を勝手に抜き取った。
「もらうぜ。説教の代金だ」 「ツケとくよ。……出世払いでな」
ジンは葉巻を咥えた。火はつけない。 味はしない。 だが、その強烈な香りと、煙たさの予感だけは、なぜか以前よりも鮮明に感じられた。
その時だった。 静寂を引き裂くように、センター要塞からサイレンが鳴り響いた。
『――緊急警報! 緊急警報! 後方より高熱源体、急速接近!』
ネオンの切迫した声。
『この魔力パターン……データ照合完了! 以前、B1Fの森で交戦した相手と一致! 『紅蓮騎士団』です!』
ズゥゥゥゥゥン……。 地平線の彼方から、夜の闇を焼き払うような、禍々しい赤い光が迫ってくるのが見えた。 サーチライトではない。あれは、殺意の波動だ。 かつて俺たちが身ぐるみ剥いで森に放置した、あの「露出狂」の騎士団長が、地獄の底から追いかけてきたのだ。 執念深いストーカーかよ。
「……チッ。空気が読めねえ客だ。せっかくいい話で終わるところだったのに」
ジンが立ち上がる。 その立ち姿に、もはや迷いはなかった。 背中の痛みは消えていない。 味覚も戻っていない。 余命も半年のままだ。 だが、その瞳には、泥臭く、油臭く、生臭い、強烈な「生」の光が宿っていた。 死んだ魚の目? いや、これは「腐っても鯛」の目だ。
「行くぞ、ドロシー。……説教の礼だ。とびきりの掃除を見せてやる」 「カッカッ! 期待してるよ、二代目!」
ドロシーがニヤリと笑い、ジンが不敵に笑い返す。 B4Fの湿った風が、二人の髪を揺らした。 アイアン・マザー号のエンジンが、呼応するように唸りを上げた。
さあ、宴の続きだ。 デザートは、真っ赤な鉄の味がするだろう。




