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ダンジョン遺失物管理センター(B3F) ~最強の回収屋は、今日も「思い出」と「未練」を拾いに行く~  作者: AItak
泥沼の運び屋と、壊れた味覚

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第99話:時速120キロの泥遊び


 『ヴォエェェェェェ…………!!』


 世界が震えた。

 いや、正確には、俺たちの乗るセンター要塞と連結された、前方の巨大トレーラー『アイアン・マザー号』が、地獄の底から湧き上がるような、おぞましい重低音を奏でたのだ。

 それはエンジンの排気音ではない。

 金属とオイルと、先ほど踊り食いしたサメの死骸が胃袋(燃焼室)の中で化学反応を起こし、逆流しかけている音――すなわち、生物学的な「ゲップ」だった。


 振動が、俺の身体を襲う。

 ガガガガガガガッ!!

 俺、黒鉄ジンは現在、ネオン開発の『対衝撃・形状記憶ポリマー(通称:業務用プチプチ)』によって全身を三重に梱包され、台車の上に直立不動で固定されている。

 視界はビニール越しの半透明。

 身体の自由はゼロ。

 背中には、まるで剣山の上でダンスを踊った翌日のような、鈍く、しかし確実に魂を削り取る幻痛が張り付いている。


(……あ、これ死ぬやつだ)


 俺は冷静に分析した。

 スローモーションのように揺れる視界の中で、食堂の天井から剥がれ落ちた塗装片が、俺の目の前をゆっくりと落下していくのが見える。

 コンマ数秒の世界。

 俺の脳内ニューロンは、危機的状況に反応して、まったく無関係な記憶の引き出しを勝手に開け始めていた。


(そういえば、先週のジャンプ、読み忘れてたな……。あと、冷蔵庫の奥に入れた賞味期限切れの納豆、誰か捨てたか? あれ、発酵が進みすぎて、もう別の生命体に進化してるんじゃないか……?)


 思考の脱線。

 現実逃避とも言う。

 人間は極限状態に置かれると、どうでもいいことを考えることで精神の崩壊を防ごうとするらしい。今の俺がまさにそれだ。


『……あー、悪いな若造! 緊急事態だ!』


 ドロシー婆さんの通信が、ノイズ混じりの絶叫として脳内に響く。


『うちのマザーがダウンだ! さっき食ったサメの脂が凄かったらしくてねぇ。「もう食えねえ、胃もたれする、太田胃散をよこせ」ってストライキ起こしてやがる!』

「ふざけんなクソババア……! 魔導車両が胃もたれ起こしてんじゃねえよ! 正露丸でもラッパのマークでも何でも飲ませて走らせろ! こっちは今、出荷前の精密機器みたいな姿なんだぞ!」

『無理だね! こいつはデリケートなんだよ! ……ってことで、悪いニュースだ。前方から来てる「デザート」は、お前らで何とかしな!』


 デザートだと?

 俺は血走った目で、プチプチ越しの世界を凝視した。

 フロントガラスの向こう。

 そこには、絶望という名の「緑色」が広がっていた。


 B4F名物、『アシッド・スライムの大津波』。


 高さ二十メートル。ビル7階建て相当の、粘液の壁。

 それが、泥の海を飲み込みながら、時速100キロ近い速度でこちらに雪崩れ込んでくる。

 物理法則? そんなものはこのダンジョンにはない。

 あるのは、「触れれば溶ける」という単純明快な殺意だけだ。


「回避不能! 左右の壁に挟まれた渓谷地形です! このままでは衝突まであと15秒!」

「迎撃も無理よ! 物理攻撃無効、さらにあの量はセンターの全弾薬を撃ち込んでも蒸発しきれないわ!」


 ネオンとピコの悲鳴が、スローモーションで聞こえる。

 ワン・チャンが愛用の中華鍋を抱きしめ、「ダメだ……スライムは酸が強すぎて鍋底に穴が開く……フッ素加工が剥がれる……」と、料理人としての尊厳を失いかけている姿も見える。


 誰もが諦めた。

 この「緑色の壁」は、俺たち全員を溶かし、消化し、ただの養分へと変えるだろう。

 俺の心臓が、早鐘を打つ。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 不整脈気味の鼓動が、肋骨を内側からノックしている。

 喉が渇く。まるで砂漠の真ん中でクラッカーを一気食いしたかのように、口の中がパサパサだ。


(……ああ、うるせえ)


 俺の中で、何かが切れた音がした。

 プチッ。

 それは血管かもしれないし、理性かもしれないし、あるいは単に、俺を縛り付けていたビニールの梱包材かもしれない。


「……どいつもこいつも」


 俺は、右腕に力を込めた。

 筋肉が悲鳴を上げ、焼けるような痛みが脳天を突き抜ける。

 だが、その痛みこそが、今の俺にとっては唯一の「生の実感ガソリン」だった。


「俺を……ガラス細工扱いしやがって……!」


 ビリィッ!! バリバリバリバリッ!!


 静寂を切り裂く破裂音。

 俺は全身を覆っていた気泡緩衝材を、内側から引きちぎった。

 舞い散るビニールの破片が、スローモーションの中でキラキラと光る。それはまるで、サナギが羽化する瞬間の、神聖かつグロテスクな儀式のようだった。


「ボス!? 何を――!」

「過保護も大概にしろ。……俺はな、病人である前に『掃除屋』なんだよ」


 俺はよろめく足で、部屋の隅にある掃除用具入れへと向かった。

 足の裏から伝わる振動が、膝をガクガクと笑わせる。

 だが、俺の手は迷わず、一本の「棒」を掴み取っていた。


 それは、聖剣エクスカリバーではない。

 魔剣ストームブリンガーでもない。

 ホームセンター『カインズ』で、980円(税抜)で売られている、窓ガラスの水切りワイパー――またの名を『スクイージー』。

 ただし、先端を特注の強化スポンジと三層構造のラバーに換装した、俺の愛機『五代目・黒鉄聖剣(スクイージー・マークV)』だ。


「ジン、ダメよ! 外に出る気!? 今は時速120キロで爆走してるのよ!」


 マシロが俺の前に立ち塞がる。

 彼女の顔が、恐怖で歪んでいる。

 だが、俺にはその表情が、どこか遠い世界の出来事のように見えた。

 視界が狭まる。

 トンネル効果。

 俺の脳は今、目の前の「緑色の汚れ」を処理することだけにリソースを全振りしている。


「あなたの体幹じゃ、ドアを開けた瞬間に風圧で上半身と下半身がサヨナラするわ!」

「なら、お前が俺を地面に縫い付けておけ。……行くぞマシロ、窓が汚れてる」


 俺の言葉に、マシロが息を呑む。

 一瞬の静寂。

 彼女は唇を噛み締め、そして覚悟を決めたように、俺の背中へと飛び込んだ。


『……もう! 980円なんだから、無茶させないでくださいよ! 壊したら弁償ですからね!』


 ドォォォォォン!!

 衝撃と共に、俺の身体に「冷たい熱」が宿る。

 マシロの霊力が血管を駆け巡り、軋む骨を補強し、萎縮した筋肉を強制駆動させる。

 憑依合体ユニゾン

 俺と彼女の魂が重なり、一つの「掃除機」へと昇華される瞬間だ。


 天窓を蹴破り、屋根の上へと躍り出た瞬間。

 世界が変わった。


 ゴオォォォォォォォッ!!


 風ではない。

 それは「空気の壁」だった。

 時速120キロの暴風が、俺の顔面の皮膚を波打たせ、まぶたを無理やりこじ開けようとする。

 口を開けば、肺の中の酸素がごっそりと吸い出され、代わりに砂混じりの泥風がねじ込まれる。

 普通の人間なら、この風圧だけで鼓膜が破れ、眼球が乾燥してビー玉のように転がり落ちていただろう。


(……くっ、キツいな)


 だが、俺の足裏はビクともしない。

 マシロの霊力が、強力なネオジム磁石のように俺の靴底を屋根の装甲に固定している。

 俺の身体の周囲には、青白い霊的シールドが展開され、流体力学を無視して風を受け流していた。


「……へっ。特等席じゃねえか」


 俺は屋根の先端、風切りの一番前に仁王立ちした。

 目の前に迫る、緑色の絶壁。

 距離、およそ300メートル。

 接近速度と相対速度を合わせれば、衝突まであと数秒。


 時間が、引き伸ばされる。

 チクタク、チクタク。

 俺の懐中時計(壊れて止まっているはずのもの)の秒針の音が、脳内でだけ聞こえる。


 スライムの津波が、太陽を遮った。

 世界が薄緑色の影に覆われる。

 その巨大な壁の表面には、取り込まれた岩や木々、そして過去の犠牲者たちの装備品が、消化されかけの状態で浮き沈みしているのが見えた。

 グツグツと泡立つ強酸の海。

 パチッ、ジュッ……。

 飛沫として飛んできたスライムの一部が、俺の頬を掠めた。


 皮膚が焼ける。

 白煙が上がる。

 細胞が壊死する音が聞こえる。

 

 本来なら、のたうち回るほどの激痛だろう。

 だが、俺の脳はそれを「痛み」として処理しなかった。

 ただの「信号」だ。

 ああ、右頬に熱源あり。装甲(皮膚)破損率0.5%。戦闘継続に支障なし。

 まるで壊れかけたロボットのOSのように、俺の思考は冷徹だった。

 今の俺は、自分の身体すらも「道具」として見ている。

 これもまた、一種の狂気か。


『ジン! 来るわよ! 接触まであと3秒!』

「分かってる。……いいかマシロ、タイミングを合わせろ」


 俺はスクイージーを構えた。

 剣道の上段ではない。

 ゴルフのスイングでもない。

 これは、高いところの窓を拭くための、清掃員のフォームだ。

 肩の力を抜き、肘を柔らかく使い、手首のスナップを効かせる。

 そう、あの日のバイト時代。

 店長に怒鳴られながら、何百枚ものガラスを拭き続けた、あの日々のように。


(……あー、あの時の店長の顔、ムカついたなぁ。ハゲてたっけ? いや、バーコードだったか……)


 死の直前、脳裏をよぎるのは、そんな下らない記憶だ。


「これは剣じゃない。ワイパーだ。斬るなよ? ……『拭き取る』んだ」

『注文が細かいのよ! ……行きます!』


 マシロの霊力がスクイージーに流れ込む。

 980円の安っぽいプラスチックの柄が、きしみ音を立てて悲鳴を上げる。

 ゴムブレードが、エクスカリバーも裸足で逃げ出すほどの、神々しい青色に発光した。


 前方50メートル。

 スライムの壁が、鎌首をもたげる蛇のように、頭上から覆いかぶさってきた。

 質量にして数千トン。

 逃げ場はない。

 だが、俺の目には、それらが「脅威」ではなく、ただの「汚れ」に見えていた。

 窓ガラスにへばりついた、しつこい手垢。

 雨上がりの泥汚れ。

 

 ならば、やることは一つだ。


「――『業務用・水切り(大)』!!」


 俺はスクイージーを、水平に一閃させた。


 その瞬間、時は止まった。

 飛び散る泥の飛沫が一粒一粒、空中で静止する。

 スライムの表面張力が破れる瞬間。

 俺の汗が頬を伝い落ちる軌跡。

 全てがフリーズした世界の中で、俺の持つゴムブレードだけが動いていた。


 ズバァッ! ……ではない。


 キュッ……!!!


 戦場には似つかわしくない、あまりにも日常的で、あまりにも間抜けな音が響いた。

 濡れたガラスをゴムで強く擦った時の、あの「キュッ」という音。

 だが、その音量はジェットエンジンの爆音をも凌駕していた。


 現象は、物理学を嘲笑うかのように発生した。

 俺がスクイージーを振るった軌道――その空間座標そのものが、「クリーニング」されたのだ。

 斬撃ではない。

 「そこにあるべきではない汚れ」として認識され、世界システムによって強制的に排除される。


 ドバババババババッ!!


 津波が、割れた。

 左右に弾かれたスライムが、轟音と共に泥の海へと飛散していく。

 モーゼの海割れ? そんな高尚なものじゃない。

 これは「窓拭き」だ。

 津波のど真ん中、俺たちが走るルート上だけが、チリ一つない「ピカピカの空間」となって開かれたのだ。


『す、凄っ……!? 本当に拭き取っちゃった! なにこれ、テレビショッピング!?』

「まだだ! 二の拭き(ストローク)、三の拭き(ストローク)が来るぞ! こびりつくんじゃねえ!」


 俺は返す刀で、スクイージーを左右に乱舞させた。


 キュッ! キュッ! キュピィィィン!!


 右から迫る波を右へ弾き、左から迫る波を左へ流す。

 その動きは、傍から見れば剣舞のように美しかったかもしれない。

 だが、やっていることは完全に清掃作業だ。

 角度は45度。

 力は入れすぎず、手首のスナップで水を切る。

 水滴を残せば跡になる。一発で決めろ。


「……しつけえ汚れだな。マジックリン持ってこい。油膜がひでえ」


 俺は無表情でワイパーを振り続けた。

 飛び散ったスライムの酸が、俺のジャケットを溶かし、肩の皮膚を焦がしていく。

 ジュッ、ジュワッ。

 肉が焼ける匂いが鼻をつく。

 

(ああ、この匂い……昔、焼肉屋でバイトしてた時の網交換の匂いだ……)


 思考が飛ぶ。

 痛覚が遮断されているせいで、現実感が希薄だ。

 自分が自分でないような、幽体離脱したような感覚。

 ただ、腕だけが自動的に動いている。

 

 前方で、バックミラー越しにこちらを見ていたドロシー婆さんの目が、細められるのが見えた気がした。

 驚愕ではない。

 納得の眼差しだ。

 死にかけの体に鞭打って、痛みを麻痺させてまで「仕事」をする。

 その姿に、同業者の匂いを感じ取ったのだろう。

 あるいは、壊れゆく機械を見るような、哀れみか。


 どうでもいい。

 今はただ、このせかいを綺麗にできれば、それでいい。


 永遠にも思える数分間が過ぎた。

 緑色の地獄を抜け、視界がパッと開ける。

 センター要塞とアイアン・マザー号は、スライムの汚染地帯を突破し、固い岩盤が広がるセーフティゾーンへと滑り込んだ。


 キキキィィィィッ……。

 ブレーキ音が響き、二台の車両が停車する。

 砂煙が舞う中、静寂が戻ってきた。


「……ふぅ」


 俺が大きく息を吐くと同時に、手にしたモノから「音」が消えた。

 パラ……パラパラ……。

 スクイージーの先端、ゴムとスポンジの部分が、灰のように崩れ落ち、風にさらわれて消えていく。

 限界だ。

 980円のゴムとプラスチックが、神話級の酸と衝撃に耐えられるのは、ここまでが限界だった。


「あーあ……また壊した。これ、人気商品で品薄なんですよ? 次いつ入荷するか分からないのに」


 背中からマシロが抜け出し、実体化して文句を言う。

 俺は残ったポールだけを見つめ、短く呟いた。


「……いい仕事だった。星5つだ。カスタマーレビューに書いとけ。『スライムの津波も一発で切れます』ってな」

「誰が参考にするんですか、そのレビュー!」


 俺は屋根から飛び降りた。

 着地と同時に膝が折れそうになるが、なんとか踏ん張る。

 地面に膝をつくわけにはいかない。

 これは、掃除屋の矜持だ。


 トラックの運転席から、ドロシー婆さんが降りてきた。

 彼女は俺の元へ歩み寄ると、賞賛の言葉をかけるでもなく、ただじっと俺の顔を覗き込んだ。

 その視線は、先ほどまでの「面白いおもちゃ」を見る目ではない。

 時限装置の作動した、危険な爆弾を見るような、険しい目だった。


「……おい、掃除屋」

「なんだよ、ババア。チップならやらねえぞ」

「今の動きだ。……痛み止めを、何錠飲めばあんな芸当ができる?」


 ドロシーの視線は、俺の左頬――酸で焼けただれ、赤黒く変色している皮膚――に釘付けになっていた。

 俺は自分の頬を指先で触れた。

 感覚がない。

 まるでゴムまりを触っているようだ。


「……さあな。味覚がねえから、ラムネ菓子みたいに噛み砕いちまったよ。数えてねえ」

「…………」


 ドロシーは葉巻を取り出し、しかし火をつけずにそれをへし折った。

 乾いた音が、荒野に響く。


「……少し話をしようか、掃除屋」


 彼女の声は、低く、重かった。


「このままだと、お前はB100Fに着く前に、人間じゃなくなるぞ」


 その言葉の意味を理解するよりも早く、俺の視界がぐらりと揺れた。

 時速120キロの代償は、遅れてやってくる。

 地面が、空に向かって迫ってくるのが見えた。

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