第9話:英雄のパレード(後編)
ドォォォォン!!
不穏な重低音と共に、路地裏のマンホールが垂直に吹き飛んだ。
重さ五十キロはある鉄の蓋が、まるでシャンパンのコルクのように軽々と宙を舞い、ビルの三階付近にある室外機に激突してガシャリと音を立てる。
「……おーおー。派手なお出ましだな」
俺はデッキブラシを構えたまま、マンホールの穴から噴き出す黒い瘴気を見下ろした。
腐った卵と、焦げたゴムを混ぜたような異臭。
そして、その穴の底から、二つの赤い光がギラリと輝いた。
『ジン、来るわよ! 推定魔力レベル……Cクラス! 「害獣」認定!』
スマホのマシロが警告する。
Cクラス。一般の冒険者ならパーティで挑むレベルだが、俺にとっては「頑固な油汚れ」程度の相手だ。
ギャァァァァァッ!!
金切り声と共に、その「影」が飛び出してきた。
その姿を見て、俺は思わず眉をひそめた。
「……なんだありゃ。ぬいぐるみか?」
現れたのは、体長一メートルほどの、モフモフとした毛玉だった。
ピンク色の毛並みに、愛くるしい大きな瞳。頭には小さなリボンまでついている。
一見すれば、ファンシーショップに並んでいそうな巨大なマスコットだ。
ただし、その愛くるしい口からは、サメのような牙が三列に並んで生え揃い、涎の代わりに強酸性の毒液を滴らせていたが。
『あれは……「凶暴化」した愛玩用魔獣、『カーバンクル・モドキ』よ!』
マシロが解析結果を叫ぶ。
『誰かが不法投棄したペットが、ダンジョンの魔力を過剰摂取して変異したんだわ! 見た目に騙されないで、あの毛並みは鋼鉄より硬いし、噛まれたら神経毒でイチコロよ!』
「チッ、捨て猫ならぬ捨て魔獣かよ」
俺はブラシを短く持ち直し、ジリジリと間合いを詰めた。
その時、俺の目は見逃さなかった。
魔獣の首元、ピンク色の体毛が擦り切れて禿げている部分に、古びた首輪の跡がくっきりと残っているのを。
そこには、かつて誰かに飼われ、愛されていた(あるいは支配されていた)痕跡があった。
(……首輪の跡か。サイズが合わなくなって、食費がかさむようになったから捨てたってところか?)
腹の底から、冷たい怒りが湧き上がってくる。
人間ってのは勝手なもんだ。
「可愛い」と持て囃し、飽きれば「ゴミ」として捨てる。
ダンジョンに捨てられた遺失物も、こいつも同じだ。
「……飼い主の責任放棄(育児放棄)かよ。躾のなってねぇガキと一緒だな」
俺の声が低く響く。
ギャッ!
殺気に反応したのか、魔獣が動いた。
速い。
ピンク色の弾丸となって、壁から壁へと三角飛びで跳ね回り、俺の死角へと回り込む。
狭い路地裏は、こいつにとって絶好の狩り場だ。
「上か!」
俺は頭上の配管を蹴って飛んでくる影に対し、デッキブラシを突き出した。
だが、攻撃ではない。
「『床掃除・第三工程』――絡め取り(ダスト・キャッチ)!」
俺はブラシの先端を、魔獣の目の前で高速で小刻みに揺らした。
猫じゃらしの要領だ。
フギャ!?
魔獣の目が、本能的に揺れるブラシの毛先を追ってしまう。
その一瞬の隙。
俺は空いた左手で、近くにあった「不法投棄された看板(『風俗店・夢の国』)」を引っこ抜いた。
「お眠りなさいよ、夢の国へ!」
ガァァァァン!!
看板フルスイング。
だが、ただ殴ったのではない。
看板の面で、魔獣の突進エネルギーを真正面から受け止め、その衝撃を殺さずにカウンターで優しく押し返したのだ。
ギャフッ!
魔獣は壁に叩きつけられ、目を回してピヨピヨと足踏みをした。
「今だ、マシロ! 『消臭スプレー(沈静化)』!」
『もう! スプレーじゃないわよ! 『精神鎮静』ッ!』
スマホのスピーカーから、高周波の特殊な音波が放たれる。
マシロの霊力による、強制的な精神干渉。
興奮した魔獣の脳波を、強制的に「お昼寝モード」へと書き換える荒技だ。
フ……フニャ……。
魔獣の赤い目が、次第にトロンとし始め、牙が引っ込んでいく。
毒々しいオーラが消え、ただの巨大なぬいぐるみに戻ろうとしていた。
その寝顔は、かつて人間に愛されていた頃の記憶を見ているのか、どこか安らかだった。
「よし、確保完了……」
俺が安堵のため息をつきかけた、その時だった。
ドォォォォォォン!!
路地裏の壁――つまり、パレードが行われている表通りとの境界壁が、外側からの衝撃で粉砕された。
「なっ!?」
瓦礫が舞い、土煙が俺たちを包む。
そして、その煙の向こうから、聞き覚えのある「キザな声」が響いてきた。
「――はぁぁぁッ! 我が剣の錆となれ!」
キラァァァン!
無駄にカッコいい効果音と共に、純白のマントを翻した男が、粉砕された壁の穴から路地裏へと飛び込んできた。
剣崎レオだ。
手には、眩い光を放つ魔導剣が握られている。
「……あ?」
レオは、キメ顔で剣を振り抜いたポーズのまま固まった。
彼の目の前には、俺と、すでに気絶してスヤスヤ眠っているピンク色の毛玉がいるだけだ。
「……え? あれ? 魔物の気配がしたから、カッコよく登場して成敗しようと思ったのに……」
レオが素に戻り、オロオロと周囲を見回す。
どうやら、パレード中に裏路地の異変(マシロの霊波など)を感知し、手柄を立てようと壁をぶち抜いて突入してきたらしい。
だが、その行動が最悪の結果を招いた。
「キャーッ! 壁が壊れたわー!」
「何!? テロ!?」
「見て! レオ様よ! レオ様が壁の中から現れたわ!」
壊れた壁の向こうから、パレードの観客たちが雪崩れ込んできたのだ。
数百人の視線が、一斉にこの狭い路地裏に注がれる。
「……チッ。最悪だ」
俺は瞬時に判断した。
ここで「清掃員の俺が魔物を倒しました」なんてバレたら、マシロのことや、俺の能力について根掘り葉掘り聞かれることになる。
それは面倒だ。絶対に御免だ。
俺は素早くデッキブラシを背後に隠し、気絶した魔獣の横からサッと離れた。
そして、小声でレオに囁く。
(……おい、レオ。突っ立ってんじゃねぇ。とっとと剣を構えろ)
「え? ジン!? な、なぜここに……」
(いいから構えろ! 全部お前がやったことにしろ!)
俺は影のように壁際に退避し、一般人のフリをして帽子を目深に被った。
その瞬間、観客たちが状況を勝手に解釈(補完)した。
「見ろ! あのピンク色の化物! あれがパレードを襲おうとしていたんだ!」
「それをレオ様が、壁越しに察知して一撃で仕留めたのね!」
「すごい! 剣を振るうまでもなく、気迫だけで気絶させたんだわ!」
「さすが白銀の騎士! 一生ついていきます!」
ワァァァァァァッ!!
割れんばかりの歓声と拍手が、路地裏に木霊する。
レオは完全に状況に追いついていない顔で、「え? あ、いや、僕は……」と口ごもっていたが、群衆の熱気に押され、条件反射的に「営業スマイル」を作ってしまった。
「……あ、ああ! 市民の安全は、僕が守る! これしきの魔物、僕の眼力だけで十分さ!」
レオは剣を高く掲げ、キラキラとした(引きつった)笑顔を振りまいた。
フラッシュの嵐が彼を包む。
『……うわぁ。面の皮、厚っ』
スマホのマシロがドン引きしている。
『あいつ、プライドないの? 全部他人の手柄じゃない』
(いいんだよ、これで。あいつの仕事は「夢」を見せること。俺たちの仕事は「ゴミ」を片付けること。……役割分担だ)
俺は騒ぎに紛れ、そっとその場を離れた。
誰も、壁際の薄汚れた清掃員になど注目していない。
みんな、輝かしい英雄の姿に夢中だ。
――しかし。
「……ん?」
フラッシュの嵐の中、レオがふと動きを止めた。
彼は剣を掲げたまま、視線を群衆の向こう側――薄暗い路地の出口へと向けた。
そこには、デッキブラシを担ぎ、気だるげに歩き去っていく作業着の男の背中があった。
「……あの、歩き方」
レオの蒼い瞳が、一瞬だけ揺らいだ。
重心を低く保ち、音もなく地面を滑るような独特の足運び。
かつて、憧れ、背中を追いかけ続け、そして失った「最強の男」の姿が脳裏をよぎる。
「まさか……いや、そんなはずは……」
「レオ様ー! こっち向いてー!」
「サインしてー!」
ドッ! と押し寄せたファンの波が、レオの視界を遮った。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ! 今は……!」
レオの手が空を掴む。
再び視線が戻った時には、路地裏の出口にはもう、誰もいなかった。
ただ、風に乗って舞い込んだ極彩色の紙吹雪が、汚れた地面の上で虚しく転がっているだけだった。
俺はポケットのスマホに話しかける。
「……変な汗かいたな」
『バレなかった?』
「ギリギリセーフだ。……ま、あいつの目は節穴だからな」
俺はニヤリと笑い、帽子を目深に被り直した。
だが、心臓の鼓動は少しだけ速くなっていた。
過去の亡霊は、いつだって忘れた頃に追いかけてくるもんだ。
俺たちは夕暮れの路地を歩き出す。
遠くからはまだ、英雄を称える歓声が聞こえていたが、それはもう、俺たちには関係のない世界の出来事だった。




