第5話「あの朝、世界が止まった」
「赤ちゃんの心音が……聞こえない」
その言葉を聞いた瞬間、世界は音を失い、すべての景色が遠ざかっていきました。
どんなに苦しくても、「生きていてくれればそれでいい」と願い続けた日々。
でも、その願いが、ある朝、あっけなく崩れ去ることになるのです。
今回は、悲しみが訪れた瞬間のことを、できるかぎり丁寧に描きました。
どうか最後まで、静かに見届けていただけたらと思います。
待合室の静けさが、妙に重たく感じられた。
彼女は椅子に深く腰をかけたまま、自分の名前が呼ばれるのをじっと待っていた。
診察室に入ると、医師は古いタイプの聴診器を手に取り、無言のまま診察台へ促した。
彼女が横になると、医師はおなかに器具を当てて、ゆっくりと場所を移動させながら耳を澄ませていく。
「……どこだ?……おかしいな?……うん?、、、、まさか……」
ぽつりと漏れたつぶやき。
その声が、彼女の胸に、冷たい石のように落ちてきた。
胸の鼓動が激しくなり、手も足も震えが止まらなかった。
息をするのもつらくなる。
――お願い、生きていると言って。
数分にも思える沈黙ののち、医師は顔を上げ、彼女の目をまっすぐに見て告げた。
「……心音が、聞こえません。
妊娠10か月で心音が止まるのは、非常にまれなことです」
その瞬間、世界が音を失った。
目の前がスッと暗くなり、医師の声は遠く、霞んだ空の上から聞こえるようにぼやけていった。
自分の体が自分のものでなくなったような、現実感のない時間が流れた。
「気づけば彼女は、自宅の床に座り込んでいた。
震える指で、夫の番号を押していた。
「赤ちゃんの心音が……聞こえないの……
死んじゃったんだって……」
受話器の向こうからは、何も言葉が返ってこなかった。
でも、夫がその場で息を詰め、言葉を探している気配が、はっきりと伝わってきた。
しばらくの沈黙のあと、彼は、ただ一言だけつぶやいた。
「……すぐ帰る。待ってて」
その声を聞いた瞬間、彼女はようやく、現実の世界にしがみつくことができた。
10か月もの間、おなかで育ててきた命。
「生きていてくれさえすればいい」
-ずっと、そう願ってきました。
なのに、ある朝、その願いが静かに崩れ去る瞬間が訪れます。
悲しみは、音もなくやってきて、
現実を引き裂くように心を覆いました。
でも、まだそれは“始まり”でしかありませんでした。
あの日から、私たちの時間は、別のかたちで動き始めたのです。次回予告(第6話)
「泣き崩れる私を、黙って抱きしめてくれた夜」
すぐに駆けつけてくれた夫。
言葉ではなく、ただそばにいてくれた人。
胸が張り裂けそうな夜、
私は、ただ静かに涙を流すことしかできなかった -。