第6話 無限に苛む蛇の呪縛、届かぬ巫女の予言
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どうしてこんなことに、なってしまったんだろう……。
「我が麗しき花嫁よ。
ついに時は満ちた。
誓約書は現の理に沿うまで待とう。
だが、真実の愛は私達2人の誠意と行動にこそ宿るもの。
――ゆえに、今宵から褥を共にしようではないか」
クリスタルに囲まれたウロボロスの神殿に、抱きかかえられたまま入った途端に床が沈んでいった。下からの風に煽られて、ふわりとベールが髪を撫でるようにして飛んでいく。
『漆黒のディスタンス』のように闇の沼底に沈められるのかと気が動転した。しばらくして、ただのエレベーターと同じだと気がついた。
どうやら地下があって、そこに向かっているみたいだ。
目がおかしい。
制服のシャツの白が青白く見える。
冷たい色の光に照らされながら、ゆっくりと地下に降りていく間も、ずっと那智さんに抱きかかえられたままだ。
騎士ともこんなに密着したことがないのに。
恥ずかしさと屈辱と、悔しさが混じって涙目になる。抵抗して暴れようとしても、がっちりと肩を抑えられた上に、「ここで暴れると、揺れを感知して止まってしまうかもしれないね」と脅迫まがいのことを言われてしまっては、もう身動きすらできなくなってしまった。
どうして。
那智さんからの交際の申し込みはもう1年以上前に断っていたのに。
その後も変わらない距離感で、みんなと集まっていたはずなのに。
どうして?
「……何故、このようなことをする。
貴様には我を妻に迎えることなど能わぬと、既に告げたはずだろう」
「黒薔薇の姫よ。
忘れたのか?
ウロボロスの神殿ができた暁には、共に誓うと言ったことを」
「それは……!
断じて、妻になるという意味などではない!!
『漆黒のディスタンス』の再演をするという意味で…!」
くっくっくっと、那智さんの体が揺れるのに合わせて、抱きかかえられたままのわたしの体も揺れた。
それが、どうしようもなく、怖く感じた。
「その時の録音はとってある。
だが、聞き方によっては妻になると言っているように聞こえるんだが、黒薔薇の姫はそれに気がついておられぬ」
《 ……そういう意味で言ったんじゃない 》
ぎゅうっと胃が締め付けられた。
まただ。
中学2年の時と同じだ。
「我が妻になる黒薔薇の姫よ。
『月明かりのウロボロスの神殿で、共に誓う』とそなたは言った。
それは『漆黒のディスティネーション』では求婚にうなずく意味があると、今なら知っているだろう?」
「それはまだ1年前には発表されていなかったスピンオフの設定で、あの時わたしが告げた時点では、そんな意味は付随してなかった……!」
「いいや。単行本に収録されていない読み切りの時点で、連載前に別冊で発表されていたのだよ。……この程度の情報の取りこぼしという粗相をしてしまうとは、姫としても私の妻になる者としても少々品が欠けていると言わざるを得んね」
まぁ、それも愛でようがあるか……などと言いながら、うっすらと笑みを形作る那智さん。
明らかにわたしが知らないことを想定していたであろう返事に、背中に冷たいものが走った。
眼前の男の整った顔が、愉悦に満ちた笑顔になる。
「これだけの準備をするのに、私もそこそこの労力を使っているからね。……流石にここまで来てしまうと、〝知らなかった”では済まされないことくらい君にも理解出来るだろう?」
《 知らなかったで済むと思ってるの? 》
まただ。
また、わたしは同じことを繰り返している。
胃液がこみ上げ、手が震えはじめる。
ぎゅうっと両手を胸の前で握りしめると、ゆっくりと降りていた床の動きが止まった。
目の前の黒い壁がエレベーターの扉だったらしく、無音で左右に開いた。
そこには鉄で作られた馬が繋がれた馬車が停まっていた。
メリーゴーランドのそれに似ている。
「さぁ、姫。城まであとほんのひとときです」
座席に乗り込むと、那智さんはわたしを膝の上に乗せて満足そうに笑った。
*
中学2年のあの時まで、わたしは少し漫画好きなだけの普通の女子だった。
『漆黒のディスタンス』にハマってはいたけれど、それを日常生活にまで持ち込むことはなかった。
校則を守った同じような髪型に、同じ制服の同じ年齢の女の子の集団の中で、特に目立つこともせず埋もれた存在として生活をしていた。
特別に親しくはなれないけれど、学校生活を送れる程度には友好的な女友だちのグループに入ることもできていた。
けれどある日、別のクラスの男子に呼び出され、告白をされたことですべてが壊れ始めた。
いつも通りに告白を断って、いつも通りに友だちにも黙ったまま過ごしていたある日の放課後。
教室で、友だちに囲まれた。
「ねぇ、優梨。
シュウくんに告白されたって、ほんと?」
「え…なんで?」
それを知ってるの?
答えは簡単だった。
友だちの中に、告白を断った男子を好きな子がいたのだ。
小さい時から騎士が好きだったわたしは、告白されるたびにその場ですぐに他に好きな人がいるからと断っていた。
ただ、あまりにも執着心が強い人だと、「その好きな奴って誰だよ」と怖い顔で詰め寄ってくることが何度かあった。物理的にわたしの好きな人を排除すれば、可能性があると思っているようだった。
これは、わたしが騎士を好きなことは、絶対にバレてはいけないと思った。
だから、友達に聞かれたその時も、騎士のことは言ってはいけないとすぐに判断した。
「優梨の好きな人って、シュウくんなの?」
「違うよ。それに、断ったし」
これでこの話は終わり。
そう思ったのに。
「じゃあ、誰が好きなの?」
この時は違った。
同じ制服を着た同じような髪型で、同じ年齢の同性の集団は、ほんの少しの差で明確な違いが出るのだと、この時のわたしは正しく理解できていなかった。
わたしの容姿は、同じ髪型と同じ制服の集団の中で、浮いていたと知ったのはもっと後のことだ。
「優梨は誰が好きなの?ねぇ、メイの好きな人がシュウくんって知ってて断ったの?」
「え?!メイの好きな人だったの?」
「知らなかったの?
じゃあ、優梨が好きな人が告白してきたら、付き合うつもりだったの?」
友達に囲まれた放課後の教室で、わたしはいつもと違う雰囲気に怖くなっていった。
「それは……わからない」
中学に入ってから、騎士とはあまり会わなくなっていた。
告白を騎士がしてくる?
それは、なさそうだな、と思った。
「ねぇ、私たち友だちでしょ?
優梨の好きな人、教えてよ」
「それは……ごめん。言えない」
どこかから漏れて、騎士に迷惑をかけるようなことになったら。
それだけは絶対に阻止しないと。
友だちなら、わたしが騎士への片想いを言わなくても受け入れてくれると、そう思っていた。
それなのに。
「それって優梨にとって釣り合うレベルの人がきたら、付き合うってこと?」
「……そういう意味で言ったんじゃない」
「だって、私たちにも言えないって、本当は好きな人なんていないんじゃないの?」
「いるよ。嘘じゃない」
「じゃあなんでその人と付き合わないの?優梨が告白したら、男子は誰でもオーケーするでしょ?」
「そんなわけないじゃない」
「じゃあ、私たちが好きな相手とは、優梨は絶対に付き合わないって言える?」
「そんな。みんなだって、好きな人、言ってないじゃない」
「ううん。私たちはみんなお互いに教え合って知ってるもの。
優梨だって教えてくれたら私たちだって教えるのに」
ーーーでも、それは、絶対に誰にも言わないって、約束できないんでしょ?
そう言いかけて、踏みとどまった。
全員の片想い相手は知らないけれど、何人かは知っている。
別に教えてもらっていなくても、友だちの反応や、変な気を利かせて動いているのを見ていれば、なんとなく分かる。分かってしまう。
彼女たちの、絶対に秘密にするなんて、その場だけの言葉だって、わたしは知っている。
「ねぇ、優梨、教えてよ」
「ごめん。言えない」
言ったら、騎士に迷惑をかける。
「それじゃあ優梨は私たちの誰かが好きな男子から告白されたら、付き合うの?」
「それは、ないと思うから、大丈夫だよ」
騎士に片想いしている友達がいるなら、まず最初にわたしを利用するだろう。でも、まだ誰も騎士の隣に住むわたしの家に来たいと言った友達はいない。
だから、騎士を好きな友達がいないことは、分かっている。
でも、これはわたしが知っているだけで、わたしを取り囲んでいる女の子たちは、誰も知らないのだ。
煮え切らない態度のわたしに苛立ってきたのか、腕組みをしながら、数人がまとまって詰め寄ってきた。
「付き合った後で、知らなかったで済むと思ってるの?」
「優梨なら教えてくれると思ったのに」
「ねぇ、優梨は私たちの恋を応援してくれないの?」
応援する。
でも言えない。
教えたくない。
騎士を守るために。
それだけのために、わたしは友だちに同じことを繰り返し言った。
それなのに。
友だちの視線は、日に日に冷たくなっていった。
少しずつ、わたしを無視したり、悪口を言う友だちが増えていった。
もう嫌だ。
わたしの言葉は、彼女たちの言葉に飲み込まれて、無いものになっていく。
もう嫌だ。
「ねぇ、優梨の好きな人って、誰?」
同じ言葉で答えても、届かないなら。
「――来るべき別れを告げるもの、業火とともに崩れ去るもの。天地万物が灰燼と化そうとも神々の黄昏の果てになお輝きを失わぬものは、古より盟約を交わした魔王の名を置いて他になし。……世界樹すら焼き尽くす終焉の剣で、貴方に焦がれる私の胸を貫いて」
誰にも届かない言葉で、答えればいい。