第2話 祝福もたらす聖牛の恵みと、波乱を呼び起こす魔王の盟約
高校の入学式の日から、新しい友だちを作ったらと優梨に何度言っても、いつも首を横に振るだけ。
その後は決まって殺戮メインのゲームを無言でプレイし続けるから、高校1年の夏休み明けになると、僕も何も言えなくなっていた。
小学生の頃までの優梨は、男女問わず友だちがいて、僕も一緒に遊んでいたのに。どうして僕以外の同級生と関わりを持とうとしないのか、優梨は絶対に教えてくれない。
そして制服がブレザーの冬服になっても僕たちは相変わらず、毘沙門商店で買い食いをして、優梨の家に行って、ダラダラと過ごしている。
それは今日も同じはずだった。
***
街路樹のポプラの葉も黄色に輝き、夕陽がまっすぐに部屋にさしこんでいる。
優梨の黒がメインの部屋ですら、まばゆい光に照らされて明るく見える。
部屋の中で浮遊している埃ですら、キラキラと輝いている気だるいまどろみの中、僕と優梨は互いに足を伸ばせば触れ合うような距離を保ったまま、互いにゲームに熱中していた。
眠気に負けそうになりながらも、スマホゲームで農場の収穫を終わらせた後、なんとなく優梨の本棚に手を伸ばした。
『漆黒のディスタンス』の最新刊が並んでいる。
その隣には新しくハマり始めたのか、『陰陽の理〜暗闇に還るモノ〜』というタイトルのコミックスが何冊かあった。
それはあとから読ませてもらおうと、ひとまず『漆黒のディスタンス』の最新刊を手に取った。
読みながら毘沙門商店で買った焼き芋フローズンの甘い溶け残りをストローで吸い込む。口の中が甘ったるくなった。
優梨の近くに置いてある無糖のお茶のペットボトルに手を伸ばす。少し、優梨が身じろぎしたのが、視界の隅で見えた。
顔をあげないまま読み続けると、漫画はまだ残りのページがかなりあるのに終わってしまった。次の巻への繋ぎになる盛り上がりではあるけれど、なんでだろうと思ってページをめくると、どうやら特別読み切りが巻末として入っているらしい。
タイトルは『漆黒のディスティネーション』。主人公の両親の若かりし頃をメインにしたスピンオフらしい。
おおう、なんか親世代の話のせいか、さらにセリフの表現が古めかしい。
あまりにも古めかしすぎて、ちょっと枯れ気味な僕の厨二心ですらムクムクと湧き立ってきた。
手元には空になったペットボトル容器。
夢中で読んでいたせいか、夕方近くになってお腹が空いてきている。
そして、さっき階下から来た海里ねぇちゃんが言っていた「濃厚ヨーグルトのスフレチーズケーキが冷蔵庫にあるから、食べてね」というありがたいお言葉を思い出した。
背中を夕陽に照らされながらレベル上げをしている優梨の方を伺うと、集中力が切れてきているのか、飽きたような顔になっている。
テレビ画面にも夕陽があたりはじめ、だるそうに優梨が後ろ手でカーテンを閉めた。
おさまっていた埃のキラキラが、また動き出した。僕と優梨の間に、キラキラがふわふわとエフェクトのように舞っている。
それを見て僕は、ちょっとだけ遊んでみようという気持ちになった。
僕は読み終わった『漆黒のディスタンス』をパラパラとめくりながら、かっこいい言い回しを考えてみる。
うーん…たしか眷属化させると命令をしてもいいはず。
優梨に濃厚ヨーグルトのスフレチーズケーキを持ってきて貰うには……。
今ではかなり優梨の厨二病語には慣れたものの、自作するとなるとあんまり上手くできない。
しばらくの間、ああでもない、こうでもないと考えこんで、最終的に面倒になってきた。
よし。だいたいでいいだろう。
キラキラが消えて、ただの夕陽が差しこむ部屋になった頃。ちょうど優梨がコントローラーを手離したので、僕は「……そこな優梨」と呼びかけた後に、厨二病スタイルを心掛けて、できるだけ重々しく言ってみた。
「あー……、原初の牝牛よりもたらされし芳醇なる恵みよ、いと甘くフワフワに満ちたる貢ぎ物をここに運びたまえ」
片手を額にあてながら、僕が言い出すと、優梨も状況を飲み込んだようだった。
まぁ、時々やってるからね。僕の厨二病ごっこ。あんまり上手くできないから、だいたい変な顔されるんだけど。
「……運命を運ぶのは騎士たる貴殿の役割のはず。それが王の真似事とは如何なる風の吹き回しなりや?」
お、今回は乗ってきたぞ。よしよし。
普段なら塩反応が多い優梨が、返事をしてくれた。これは意外にうまくできたらしい。
僕は理由になるようなセリフを必死に考えたが、さっき思いついた言葉が出てこない。
なんとなくのニュアンスでいいかと言ってみた。
「王の真似事とは、それこそ道化染みた物言いだな。――正真正銘、前世で契りを交わした〝魔王”の生まれ代わりこそ俺だ。よもや忘れたとは言うまいな?」
だいたいこんな感じでいいかと思いながら言った後に、眷属とか配下とかそういう言葉を使えばよかったんだと思い出していると。
「……え?」
優梨が固まった。
ん?どうした?
僕が慌ててリカバリーしようとするよりも早く、優梨がソファから立ち上がった。カーテンの隙間から入る光の筋に、また埃のキラキラが舞う。
フローリングに座布団を敷いて座っている僕は、逆光の優梨から完全に見下ろされる形になって、ちょっと怖い。
その上、無言のまま優梨が動かなくなった。
え、僕、本気で何か優梨の地雷踏んだ?
冷や汗を流しながら上を向いていると、西陽のあたるカーテンの色に染められた優梨の右手が動いた。けれど、優梨の前髪に遮られたままの目元は逆光のまま、暗い。
それでも僕が優梨を見上げる姿勢のままで、優梨は前屈みになって僕を見下ろす格好になっていたから。
いつもなら前髪に隠されている優梨の目元が近づいてくるとよく見えるようになった。初めて見る優梨の熱を帯びた視線。真っ赤な頬の上に、潤んだ大きな目がまっすぐに僕を見つめているのが、はっきりとわかった。
長い影を作るまつ毛が、一度だけ、瞬きをして。
いつもマンゴージュースを飲んでいた、柔らかそうな唇が、動いた。
「忘れて、ない。
比翼連理に導かれし者として、貴殿と婚姻の儀を結びたいが……今はささやかな証として、これだけを残そう」
そして、唇を閉じると、そのまま僕の上に屈んで顔を近づけてきた。
硬直した僕の視界は、まだ着替えを済ませていなかった優梨のシャツにおおわれた。
鼻先がシャツに触りそうだなと思ったが、胸元から優梨の甘い体の匂いがして、それが自分にどういう作用をもたらすのか考える間もなく、頬に優梨の髪の感触がきて、額に柔らかいものが触れた。
「え?」
僕の吐いた息が優梨の胸元に当たった。その息が僕の鼻先へ跳ね返ってくる前に、優梨は僕の肩に片手を乗せると、とん、と軽く押した。
混乱している僕は、そのまま後ろに倒れかかり、本棚に背中をピッタリとつけた。そして、自分の額に右手をあてた。
「え?」
「契りを交わすのは、まだ早い。代わりの口付けだ。……心変わりは決して許さないからな」
心変わり?それって浮気ってこと?
疑問符しか浮かばなかったが、今までに見たことのない、とろん、と、蕩けた顔の優梨が目の前にあった。一瞬で優梨との関係が変わった瞬間を理解して、身体中に血が巡るのを感じた。
衝動的に右手を動かそうとした瞬間。
「じゃ、じゃあ、そういうことだから。
い、今、運んできてやろう。
魂の伴侶たる、我が魔王のためならば、致し方ないな、うむ」
滅多にない優梨のたどたどしい言葉が聞こえて。
そのまま優梨は真っ赤な顔を前髪で隠すように俯くと、瞬歩の勢いで部屋を出て、階段を降りて行った。
「え?」
カーテンの揺れがおさまって、キラキラの埃が優梨の座っていたソファの上に舞っているのを見て、階下から優梨の海里ねぇちゃんを呼ぶ声が聞こえて。
そして、右手をあげて固まっている自分の姿に気付いた。
ちょっと待て。
額にあてているこの手を、僕は、今、優梨の頬に持っていこうとしてたぞ。キスしようとしてただろ、おい、自分。何しようとしてんだ!
「あ、あぁあぁ〜!!」
状況を全く理解していないくせに、優梨の唇が額に触れた瞬間だけを何度も思い出そうと、脳みそがぐるぐると活動している。
「今、伴侶って言った。言ってた。じゃあ、優梨は僕の彼女……?」
僕は優梨がトレーを持って部屋に入ってくるまで、近くにあったキャラクタークッションの埃をすべて出し尽くす勢いで、ぽすぽす叩きまくった。
部屋にはキラキラが大量に舞い上がっていたけれど、僕にはもう見えていなかった。
その後、お互いに直視できない真っ赤な顔をしながら、優梨とスフレチーズケーキを黙って食べた。
皿が空になると、急に沈黙に耐えきれなくなった僕は、そそくさと隣の自宅に逃げ帰ったのだった。