第90話 もしも一つ叶うなら
ぼやけた視界が段々と明瞭になっていく。
そこにいたのは、赤いスーツを着た青年だった。
ここに来て初めて風が吹く。濃い魔力を乗せた風が、二人の間を吹き抜ける。
水色、緑、赤、黄……毛先がカラフルに染まった、肩につくくらいの白髪が揺れている。
にっこりと笑った目の奥は見えない。男は笑ったまま、片腕を広げて問いかけた。
「ようこそ、ゼロ・ヴェノーチェカ」
「貴方は……? 何故、私の名を知っているのですか」
「考えてみなよ。そう難しくはないはずさ」
痛む頭で答えを探す。
奇異な見た目。
自分が来るまでは長らく閉じられていたという空間。普通に考えれば、いるはずのない存在。
「悪いけれど、そう時間は無くてね。さあ、叶えられるのは一つだけだよ。君は何を願うんだい?」
もしも一つ叶うなら。
その問いについて答えを探した。
この体を治したい。大切な友人を蘇らせたい。今も脳に響く邪魔な声を消し去りたい。
叶えたいことなど、一つでは足りない。その中から一つだけ選べというのなら。
頭を振ったゼロは、雲に沈み込んだ自分の足を見つめた。
(考えたくない)
死にたくない。それだけが私の思考を埋め尽くしている。
分かっている。選ぶべき願いが何かなんて。
でも、それでも。これ以上迷って、考えて、結論が変わってしまったら。そうなった時、後悔するのは自分だ。
恨まれていないという保証などない。脳裏に浮かんだのは、あの瞬間見えてしまったセキヤの心情。
――セキヤ・レグラスはゼロ・ヴェノーチェカに死んでほしいと心から思っている。
(あの時見捨てた私を、憎んでいるかもしれない。セキヤさえあんなことを考えて……ならヴィルトだって……)
二人の死に顔が浮かび上がり、ズキリと痛んだ額に手を当てる。
もしも二人を生き返らせてほしいと、そう願ったら……きっと、二人は戻ってくるのだろう。
きっとそれが正しい願いだ。いや、それが正しいかどうかなど……分からない。
(迷うことなんてないでしょ……? ねえ、ゼロ。もっとよく考えてよ……!)
キキョウの声が頭に響く。眉間に深い皺が刻まれる。
うるさい。うるさい、うるさい。耳障りだ。
噛み締めた歯がギリギリと音を立てる。
ズキリと頭が痛み、フラッシュバックする。
振り上げられた薙刀が、目前に迫る、その瞬間。
切り裂いた風が、肌を掠めていく感覚。
痛む右腕。
逃げる自分を見つめる、光を失っていく双眸。
伸ばされた、赤く濡れた手。
――死んでほしいと心から思っている。
これ以上時間をかけるだけ無駄だ。
絶えず引き止めようとする声を振り払い、目の前に立つ笑顔の男を見つめる。
男はにっこりと笑ったまま私の言葉を待っていた。
「決まったかい?」
首を傾げた男の髪がさらりと揺れる。
止まっていた息を吸い込み、吐き出した。
「私の、願いは」
ぎゅっと拳を握る。
一瞬見えた赤と青の笑顔はすぐに掻き消された。
「永遠の命です……!」
『お願い、待って!』
頭に響いた声はやけに切羽詰まっていた。
二人の間を強い風が吹き抜ける。
吹かれるままに前髪が暴れ、咄嗟に目を閉じた。濃い魔力を含んだ風は刺さるような痛みをもたらす。
風が止み、目を開ける。
少しぼやけた視界に、男のスーツの赤色が滲む。
焦点が合った時、男の顔からは笑顔が消えていた。
私の目を見つめる彼の双眸は、赤い色をしていた。私と同じ赤色の目が、じっと私を見つめている。
「永遠の命……それが君の願いか」
呟く声に温度はない。まるで別人のようだった。
赤い目から視線を逸らせず、吸い込まれるかのような感覚を覚え、反射的に一歩後ずさる。
男の目と口がゆっくりと弧を描き、赤い瞳が瞼に隠れる。男は大きく両腕を広げた。
「君の願いを叶えてあげよう。さあ、新たな肉体をありがたく受け取るといい」
強張っていた顔から力が抜けていくのを感じた。ハッと呼気が漏れ、それは笑いへと変わり、口角が上がる。
男の指がパチンと音を立てると、眩い光が私を包んだ。
温かな力の流れのようなものが身体中を巡っていく。まるで溶けるような感覚だ。それは微かな快楽を伴い、目を閉じた私は体から力を抜いて光に身を委ねた。その温もりは無いはずの右腕にも流れていくようで、延々と続いていた痛みが和らいでいく。
たった十秒ほどの時間が無限のように感じられる。光は段々と収まり、身体中を巡っていた温もりも消える。ゆっくりと目を開いて、光に包まれていた感覚が抜けきらないまま、ぼうっとしていた。
……痛みが消え、右手の感覚が戻っている?
それに気づいた瞬間、高揚感が込み上げてくる。
「痛くない……痛くありません! これが、これが永遠の――」
ぼたり。自分の腕を見ようとすると同時に、そんな音が聞こえた。
私の白い腕が、まるで溶けていくかのように、黒くドロドロとした流動体へと変わっていく。
「……え?」
両手の指先から肘へ、肘から肩へ。段々と侵食されていくように、じわじわと黒い泥のようなものが広がっていく。泥はぼたぼたと音を立てて垂れ落ちた。
「な、何が……?」
完全に黒い泥となった左手の薬指が、ぼたりと根本から落ちた時。私は引き攣った悲鳴をあげ、顔を恐怖に歪めた。
「わ、私の指が……! 腕が……っ!!」
肩まで侵食した黒泥は、首筋を通って顔にまで広がる。溶け始めた瞼が黒い影となって視界を覆い始め、咄嗟に顔を覆う。最早、手と呼んでいいものかもわからない黒泥がべっとりと顔についた。
「わた、しの……私の顔がっ、顔……っ」
白目は黒く染まり、髪は白いまま溶けていくように。黒泥の侵食が進むにつれ、私の体は沈んでいく。
起きてはならないことが起きているというのに、一切の痛みはなく、それが余計に恐ろしくて。
足の先まで黒泥へと置き換えられた時、足元に巨大な裂け目が生まれた。
「それじゃあ、ごゆっくり。精々永遠に生きられるよう『捕食』を頑張るといい」
ぐらりと体が傾き、裂け目の奥へと落ちていく。
黒泥の手を伸ばした先で、赤スーツの男はひらひらと手を振っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
まるで深い海の中にいるようだ。
揺らぐ意識の中、どこか遠い記憶を思い出す。
温かな太陽の下、大樹の根元に座っていた。
隣に座る誰かが笑いかけてきている。
穏やかな時間が流れていく。辺りを囲む池で魚が跳ねた。
風になびく赤い髪が緑の草原によく映える。
顔が思い出せない彼女は、一体誰だっただろうか?
私はあの景色を知らないはず――そう考えた時、私の意識は浮き上がった。
「……ここは」
横たわっていた体を起こすと、ぐちゃりと音がした。
下を向けば、自分の体からぼたりぼたりと黒い液体が垂れ落ちている。
「ひっ……あ、あぁ……」
反射的に仰け反った私は、目を閉じて荒くなった呼吸を落ち着けた。
深く深呼吸をし、目を開く。自分の手を見れば、それは白い泥によって形を保っているものの、じわじわと溶けるように流れては黒い体にぽたぽたと落ちていく。
「これが、私が望んだ永遠の……?」
震える手をぎゅっと握りしめる。開いて閉じてを繰り返し、べちゃべちゃと自分の体を触ってみる。しかし、どうしても何かに触れているという感覚がない。
……おかしい。こんなもの、私は望んでいない。
夢だ。きっと私は夢を見ているんだ。
首を振り、辺りを見渡した。
そこは真っ白な箱だった。
家具もなければ窓もなく、明かりもないのに見渡す限り白い世界。その中で自分が落とす黒と、一枚の扉だけが色を有していた。
花の模様が彫られた木製の扉へ歩こうとしたが、何度試しても脚にあたる部分は動きそうにない。
(最初、私は横たわっていた。それなら、這っていくことはできるかもしれない)
うつ伏せになると、腕だけで少しずつ扉へと這いずっていく。
下半身にあたる部分の黒泥は引きずられ、床を黒く汚しながら少しずつ移動した。
どれほど時間が経っただろうか。
扉のもとへ辿り着いた私は、体を起こすとドアノブに手を伸ばす。
しかし、開けようとしてもガチャガチャと音を立てるだけだった。
「鍵がかかっている? でも、鍵穴なんてどこにも……」
なんだ……ここまで這ってきたのは無意味だったのか。俯きため息をついたその時。ここまで這う間、自分が全く呼吸をしていなかったことに気付く。
喉に手を当て、唇を結んだ。
(呼吸の必要がない……? それは、それは最早……)
命と呼べるのか。
そんな疑問が脳を満たしていく。その時、胸の奥で微かな鼓動を感じた。
胸に手を当てると、そのままずぶりと沈み込んでいく。
硬い何かが手に触れる。唯一感触を得られるそれこそが鼓動の元だと確信した。
「は……ははは……」
唇の端が引き攣る。
引き抜いた手には、赤い液体で半分ほど満たされた、小さなハート型のガラス瓶が握られていた。
これが……私の命?
ああ、とんだ悪夢だ。これが夢なら……夢だというなら、早く醒めてくれ。
そんな私の願いは届くはずもなく、ぼたぼたと落ちる黒泥の音だけが部屋に響いていた。




