第88話 誘い
翌日になると、気まずい雰囲気は霧散していた。
ヘルトは今日も絶好調だ。元気に技名らしきものを叫び、魔力をまとわせた手足で殴る蹴るの大立ち回りをしている彼を見ながらぼんやりと思う。
「ヒーローパンチ!」
「全て一人で引き受けず、こちらに回してくれてもいいのですよ」
「む、そうか? だが……怖いのだろう? 無理しなくていいぞ」
「……怖い?」
何を言っているんだろうか、この男は。
「昨日初めて魔物が出てきた時、手が震えていた。なに、恥ずかしがることはない。このヒーローがいるんだ、どんと任せてくれ!」
ヘルトは小ぶりな虫の魔物をいなしながら言う。
震えていた? 私が、あんな魔物相手に?
彼の見間違いだ。そう思い、ナイフに手を伸ばす。ここは一つ、私も戦えることを見せてやろう。
ナイフを抜き、走り出す。いや、走り出そうとした。
……足が、動かない。
「……えっ?」
動き出そうとしても思うように足を動かせない。
もう一度走り出そうとしてみる。動かない。
ゆっくりと足を持ち上げてみる。かろうじて浮き上がった。
何度も試して、ようやくヨロヨロと数歩進んだだけ。
そうこうしている間に、ヘルトは魔物を倒しきってしまった。振り返った彼は笑顔で親指を立てる。
「よし、もう大丈夫だ!」
「……ええ」
ナイフを袖に戻す。一歩、歩いてみる。スムーズに足が動いた。
……私は、戦うことを怖がっている? いや、まさかそんなはずは。だって、相手は普通の虫より図体が大きいだけの、ただの羽虫だ。
それでも、動けなかったことは事実。
「どうした? 進むぞ」
「あ、はい。……分かりました」
少し先で振り返ったヘルトの元まで走る。……走れた。
もう一度、確かめなければ。
それから何度か魔物と遭遇したが、やはり戦おうとした時だけ体が思ったように動いてくれないということが分かった。
認めたくはないが……そういうことなのだろう。私は一体どうしてしまったのだろうか。
幸い、道中の魔物は数が少なかった。ヘルト一人で充分に立ち回れる程度だ。彼がいてくれて良かったと今なら思える。
数日歩き続け、私達はあの集落の近場までやってきた。
そういえばここに彼の妹がいるのだったな。しかし、あの集落でいつまで生きていられるか……正直、分からない。ここは黙っておいた方がいいだろうか?
進む彼の横顔を見て、留めておくことを決めた。
「この辺りで野営しましょうか」
「そうだな」
片腕しかない私は、野営の準備をするのも難しい。テントを張るのは彼に任せ、リュックから食料を取り出すくらいしかできなかった。近くの水場から水を汲んでくるのも彼だ。
……前は水場も火の確保も考えなくて良かった。彼らがいた旅がどれだけ快適なものだったか、今になって思い知る。
――セキヤ・レグラスはゼロ・ヴェノーチェカに死んで欲しいと心から思っている。
「……ッ」
頭を振る。こんな時まで思い出さなくていいだろう?
しかし一度脳裏にこびりついたその言葉は、中々消えてくれそうになかった。
水を汲んで戻ってきたヘルトは、テキパキと食事の準備を進めていく。それをぼんやりと眺めながら、浮かび上がる言葉から目を背け続けた。
今日の見張りは私だ。もう何度かこなしているというのに、今日も彼は何かあればすぐ起こすようにと念を押してからテントへ入って行った。どれだけ私が弱いと思われているのだろう。
パチパチと上がる火の粉を見つめる。
……ハッと目を開ける。どうやら眠ってしまっていたらしい。
辺りを見渡す。異常はないようだ。微かに香る鉄の臭いからは目を背けて、ホッと息を吐いて空を見上げた。
月が天高く登り、星々は煌めいている。
こんなにも空は澄んでいるのに、一向に私の心は晴れそうになかった。
何か気晴らしを。そう考えたところで、ふと思い出す。
そういえば……メレクから逃げ出す前。魔法を使った気がする。あんな魔法、今までに使ったこともなければ使えることも知らなかった。
自分の影をじっと見つめる。魔力を込めてみる。たしか、そう。立ち上る煙のような……あの時は必死だったからか、あまり鮮明に思い出せない。
しかし、どんなに魔力を込めてみても影は揺らぎさえしなかった。小さくため息をついて魔力の注入をやめる。
片腕が使えない今、あの魔法があれば便利だろうに。それに、魔法でならば戦えるかもしれない。けれども、使えないのであればどうしようもなかった。
……諦めきれない。次の見張りの時にでも、もう一度試してみるか。
ゆっくりと月が沈んでいく。ズキリと腕が痛んだ気がして、顔を歪めた。
ここからメルタまで一週間ほど。そこからパノプティスまで、もう一週間。私の旅は、もうすぐ終わる。
(ねえ。君は何を願うの?)
頭に声が響く。耳障りな声が。
「そんなこと……貴方には関係ないじゃないですか……」
ぼそりと呟く。また勝手に私の体を使ったくせに、彼は何でもないように語りかけてくる。私が意識を失っている間、彼が一体どんな凶行をしたのか考えたくもない。
(関係あるよ。だって僕は君と共にある)
「勝手に貴方がつきまとっているだけじゃないですか……一体何なんですか? 何がしたいんですか、貴方は」
(……僕は僕の役目を果たすだけだよ。ねえ、ゼロ。あの二人のことは残念だったけど、それでも――)
ギリ、と歯を食いしばる。
「貴方に役目などない!」
思わず大声を出してしまった。口を押さえ、テントを見る。彼を起こしてしまってはいないだろうか。
頭に響く声は止んでいた。火の粉が舞う音だけの夜が帰ってくる。震える息を吐き出して炎を睨みつける。一体どうして彼は私に声をかけてきたのだろう。なぜ、今になって。
「分からないんですよ、何も……」
それから時は過ぎて、メルタ付近にまで進んだ。
宿をとるだけの余裕はないから、近くで野営することになる。町のすぐ近くは基本的に魔力が安定する傾向にあるから、それだけでも過ごしやすくなるものだ。
「ん? 誰か来るな」
「……あれは」
向こうから金髪と黒髪の二人組が歩いてくる。どちらも髪は長く、リュックを背負っていた。
「ルクス?」
「……ゼロ君?」
「なんだ、知り合いか?」
ルクスと……もう一人はわからない。随分と疲れた顔をした、長い黒髪の男だ。ただ、服には見覚えがある。あの集落の神父だろうか。
「……あの時の」
男がぼそりと呟く。会ったことはないはずだが……いや、待てよ。黒髪の神父といえば、一人いたな。
私達に逃げ出すよう忠告していた、神父キュリオ。随分と見違えたが、この五年で一体何があったのだろうか。
「キュリオ……で、合っていますか」
「……ああ」
頷いた彼は、それっきり黙り込んだ。目はずっと泳いでいて、焦点が合わない。
ルクスはギザついた歯を見せて苦笑し「彼のことはそっとしておいてくれ」と告げた。
「……ゼロ君。もう一度君に会えたら聞こうと思っていたことがあったのだが」
「何でしょう?」
「でも、君の姿を見たら……そんな気分じゃなくなった。それよりも……セキヤ君とヴィルト君は? 別行動中か?」
口をつぐんだ私の代わりに、ヘルトが一歩前に出た。
「その二人は、もう……」
「……そうか。すまない、不躾だった」
「いえ……」
こうして彼らの所在を聞かれる度、もう彼らはいないのだと実感させられる。
いつだって隣を見れば二人がいたのに、今はもうどこにもいない。
「……ゼロ君。君に提案がある」
提案? ルクスは真剣な眼差しを向けている。彼はそっと手を差し伸べ、口を開いた。
「一切の苦痛を感じず、安らかな眠りにつきたいとは思わないか」
「それは、どういう……」
「俺達ならば、穏やかな最期へ導くことができる。今の君は……生き続けていることに罪悪感を抱いているように見えるんだ」
「罪悪感……?」
言われて、気付く。
そうか。これは……罪悪感なのか。
彼らを見捨てて、自分一人生き残ったことへの。そして……殺したいとまで思わせてしまった彼の心境の変化に気づけなかったことへの、罪悪感。
「……どうだろう。まだ試薬の段階だから、保証はできないが……心穏やかに、眠るような終わりを迎えられるんだ。君さえよければ……俺達に導かせてくれないか」
「……残酷な現実を知る前に、何も知らないまま眠りにつく。これこそが……救いだ」
死への誘い。人によっては、魅力的に映るかもしれないそれ。
しかし私は……あれだけの苦痛を乗り越えて生き延びた私には。
「お断りします。私は死ぬために生き延びたわけじゃない……」
「……そうか。君の意思を尊重しよう」
ルクス達は再び歩き出した。
「君の旅が無事に終わることを願っているよ」
「貴方の行く道に救いがありますように」
そう言い残して、彼らは過ぎ去っていく。
その背中を少しの間見つめ、前を向いた。
「行きましょう」
「……ああ」
ヘルトはルクス達を気にしながらも進み出す。
彼らには悪いが、私はまだ死にたくない。
もしかしたら私は死ぬべき人間なのかもしれない。それでも死ぬのは……怖いんだ。




