第87話 春
また時は過ぎて、そろそろ春に差し掛かるころだ。
部屋の外からは時々子供の声が聞こえてくる。エクメドはこの五年の間で孤児院を開いていたらしい。これが償いの一つになればと、彼は言っていた。
私の前髪もすっかり伸びて、左目の傷も癒えた。ただ一つ残念な点をあげるとすれば、傷跡が残ってしまったことだろうか。
しかし幸いにも左目自体には問題がなかった。傷つけられていたのは瞼の部分だけだったらしい。
おかげで鑑定眼による頭痛ともおさらばだ。これで本を読むことも楽になった。ただ、これにも一つ残念なことがある。
それは相手の本心が読めないことだ。わざわざ右目を出すために前髪を上げるわけにもいかないから仕方ない。
今までは否が応でも情報として入ってきていた。だから彼らの言葉をそのまま受け止められていた。しかし今は……少し、警戒してしまう。
その裏に何かが隠されていないか。どうしても気になってしまうのだ。
唯一気にせずに済むのは、娘のリサを相手にしている時だけ。彼女の真っ直ぐさには少し救われている。
さて、私の怪我が回復したということは魔宝石を返しにいかなければならないということでもある。そろそろ冬も終わることだし、季節としても丁度いい頃合いだろう。
そのことをエクメドに伝えると、彼は微笑んで頷いた。近頃は部屋の中でとはいえ簡単な運動をするようにもなった。体力が回復したと認められたということだろうか。
「パノプティスまでの道のりだが、いくら君でも一人で行かせるのは心配だ」
エクメドは真剣な顔で言う。
たしかに、片腕がない状態で戦うのは難しいだろう。今の私には扱える武器もない。せいぜい殴る蹴るの打撃と……この牙で噛み付くことくらいだろうか。
「そこで君に同行する者を選ばせてもらった。入ってくれ」
エクメドの声に応じて部屋に入ってきたのは、赤いマフラーを巻いた金髪の男。
「ヘルト殿だ。きっと君の力になることだろう」
「……」
無言のまま互いに見つめ合う。エクメドだけ、何が何だか分かっていない様子でキョトンとしていた。
「あの時のヴェノーチェカ!」
「自称ヒーローじゃないですか」
「なっ」
ヘルトは青い目を大きく見開いて眉を吊り上げた。
「自称とはなんだ、自称とは! 俺は立派なヒーローだ!」
ヘルトは拳を握りしめて怒鳴った。小さめの部屋だからか余計耳に響く。
エクメドも少し眉をひそめて、肩を上げていた。
「……ヘルト殿、もう少し声量を抑えてもらえないか」
「あっ……ああ、すまない。俺としたことが、つい昂ってしまった」
コホンと咳払いしたヘルトは胸を張って手を当てる。
「とにかく、俺が貴方の同行人だ。大船に乗ったつもりで任せてくれ」
……心配だ。非常に心配だ。
というか、なぜ彼はここにいるんだ? 彼はクレイストの住民だったはずだが。
「貴方、クレイストの住民だったはずですよね? どうしてミスキーにいるんです?」
「む、それはだな……」
ヘルトは身振り手振りを交えて、それはもうドラマティックに……言ってしまえば冗長に説明した。
簡潔にまとめると、こうだ。
クレイストの権力者に悪人がいると考えた彼は、無謀にも単身で乗り込んだらしい。そこで大事を起こした彼は、案の定追われる身になったそうだ。
元々目をつけられていたからか、それはもう本気で追いかけられたらしい。
そうして命からがら逃げ延びた彼は、そのままミスキーにやってきた。
「そして俺は考えた。ここのトップも悪人かもしれない、と!」
「屋敷に乗り込んできてね。私を見るなり、ここの最高権力者を出せと……」
「それについては申し訳ないことをした。貴方が悪人ではないようだったから、他にいると思ったのだ」
結果としてエクメドは悪人ではないと判定した彼は、この町に住むようになったそうだ。
普段は町を巡っては人助けをしているらしい。主な活動は迷子の犬や猫を助けること。
どうにもミスキーはペットを飼っている人が多いそうだ。特にここ数年で余裕が生まれたからか、そういう人々が増えたそう。
「というわけで、これも人助けの一環として受けたわけだな!」
「……なるほど。理解しました」
やはり心配であることには代わりないが、エクメドが推薦したからには腕はあるのだろう。クレイストでもその魔力の多さは確認している。辺り一帯を目眩しになるほどの強い光で照らすというのは、ちょっとやそっとの魔力ではできない芸当だ。
「それから……これを」
エクメドは一つのリュックを差し出した。受け取ってみると、背中に当たる部分が切り取られている。
「その翼は目立つだろう。これがあれば隠せるのではないかと思ってね」
たしかに、これを背負えば翼を隠すことはできるだろう。その代わり飛べなくなるだろうが……どの道、もう暫くは飛べそうにない。
ありがたく使わせてもらうことにした。
「君を助けた時、私の外套でできるだけ隠しはしたのだが……翼が完全には隠れなくてね。町では私が大型の鳥を保護したと一部ではあるが噂になっているところもあるんだ」
「噂、ですか」
「さらに極一部では、あれは悪魔の使いだなどと言う者もいてね。とはいえ、ただの噂だ。じきに収まる」
私がミスキーを発てば、その噂も関係なくなる。問題はないだろう。
更にエクメドは旅の間の必需品も用意してくれた。携帯食料も充分に詰まったリュックを背負ったヘルトは、未送りに出たエクメド一家に大きく手を振る。
「それでは行ってくるぞ!」
「気をつけてね、お兄ちゃん達!」
目一杯に手をふるリサに、ヘルトはドンと胸を張って叩いた。
「任せろ! なんといっても俺はヒーローだからな!」
「それでは、行ってきます」
耳と尻尾はフード付きのローブを着ることで隠し、翼は穴空きリュックで覆い隠す。
袖にはエクメドから貰った新しいナイフが収められている。武器をどうしようかと思っていたから、とてもありがたい。
ヘルトと共に屋敷が立っている丘を下り、町の外へ向かう。
初めて屋敷の外を歩くが、以前来た時とはまるで様子が違っていた。人々が道を行き交い、市場は賑やかで、買い物をする客も大勢いる。
通りがかった大きな建物では公演を行っているようで、煌びやかなポスターが飾られていた。
あれから五年。たった五年だが、されど五年だ。多少変わっているだろうとは思っていたが、まさかここまで変化しているとは。
門を出て北へと歩く。魔力濃度は安定しているようで、旅立ちには丁度いい塩梅だ。
「さあ、目指すはパノプティスだ。俺についてこい!」
ヘルトは意気揚々と道を進む。少し熱苦しいが、道中退屈はしなさそうだ。
こうして私とヘルトの短い旅が始まった。
……結論から癒えば、問題なく進んだと言っていい。
森に入ってから何度か魔物に襲われたが、そのどれもをヘルトが倒してしまったのだ。やはり推薦されただけあって腕はあるのだろう。
思えば、いくら衰えたとはいえクレイストの兵士を相手に逃げ延びた男だ。ちょっとやそっとの魔物を相手に負けるわけがない。
空がすっかり暗くなり、焚き火を囲んだ私達は、仕留めた魔物の肉を焼いていた。
魔物は元になった動物にもよるが食べることもできる。あまり大量に食べると魔力酔いを起こすこともあるので注意が必要だが。
串に刺した肉が油を滴らせるのを眺めていると、ふとヘルトが口を開いた。
「それにしても驚いたぞ」
「何がですか?」
「その姿だ」
ヘルトは頭に手を当てて耳の形を作る。
「耳もそうだが、翼に尻尾。まるで悪魔のようじゃないか」
「リサにも言われましたよ。ずっと悪魔のお兄ちゃんって呼ばれるんです」
「それはそうだろうな。どこからどう見ても悪魔だ……」
そろそろ焼けた頃だろうか。串を一本取って、軽く息を吹きかける。汁が滴る肉は……うん、美味い。
「悪魔だ悪魔だと言いますけどね、一応人間なんですよ、これでも」
そろそろ訂正するのも疲れてきた。次言われたら受け流すことにしよう。そう決めて次の一口を頬張る。
「む……それもそうだな。会った時は人の姿をしていた」
「まあ、隠すつもりもないので言いますけど。私、呪われているんですよ」
「呪い? 御伽話の代物じゃないのか」
そんな反応にもなるだろう。今となっては珍しい代物だ。
「現に私はそのせいでこのような姿になっているわけですよ」
「そうか……その、治るのか?」
「分かりません。でも、治すために私達は旅をしています」
「私達?」
……ああ、そうだ。今はもう私一人なのだった。
ヘルトは察したのか、それともエクメドから聞いていたのか……ハッとして口をつぐんだ。パチパチと火の粉が舞う音と風の音だけが広がる。
「その……すまん」
「……いえ」
少し気まずい空気のまま、夜が深まっていく。
やがてヘルトは空を見て口を開いた。
「すっかり夜だな……今日は俺が見張りだ。貴方は休んでくれ」
「ええ、そうさせてもらいます」
逃げるようにテントに入る。
明日になれば元の空気に戻っていることだろう。
隣に誰もいないテントの中は、少し広く感じた。




