第86話 療養
それから私は、暫くの間療養することになった。
まだ右腕の断面も、左目の傷も塞がっていないからだ。
ひとまずは大神官からの処遇を伝えられるまで回復に努めることになった。
と言っても、することと言えばベッドに横たわっていることくらいだ。食事はエクメドの妻であるマリーが担当してくれている。
初めは粥のような流動食しか食べられなかったが、一週間が経とうとしている今、固形物も食べられるようになった。
自力で起き上がれるようにもなり、時折訪れる子供の相手をするのが今の日課だ。
あまり近づかないようにと言われているらしいが、目を盗んでは部屋に入ってくる。名前はリサ。今年で十になったらしい。
「悪魔のお兄ちゃん、今日もリサが本を読んであげるね」
「……これでも一応人間なんですよ、私。本当の悪魔は……もっと恐ろしいんですから」
「でもお兄ちゃんは怖くないよ」
「人間だからですよ」
リサはどうにも私を悪魔と呼びたがる。何度か人間だと訂正しているが、翼や尻尾を指摘されてはどうにも言い返しづらい。事実、私には悪魔の血も流れているわけで。
「今日の本はね、創世記! 世界を作った神様の話なんだって」
「聖女の話はもういいんですか?」
「んー、もう先に読んじゃったから……」
リサは口を尖らせて呟く。私はまだ読んでないんですがね。
とはいえ、その内容は知っている。前世界の御伽話のようなものだ。
度重なる国々の戦争と、成長し過ぎた魔法技術が世界を滅ぼしかけた時、首の皮一枚で繋ぎ止めたのがその聖女なのだと。
本当かどうか怪しいが、強い炎の魔力を持った彼女は炎神フィオーレの生まれ変わりとまで呼ばれたとか。
「それじゃあ始めるね。昔、世界には暗闇だけが広がっていました――」
リサは私が右腕を失っていることを憐れんでか、こうして本を読み聞かせにやってくる。
本を読むにも紙や一文字一文字のインクの情報まで入ってくる始末の現状では、目を閉じていても話が入ってくる読み聞かせは正直ありがたかった。時々言葉を詰まらせるのはご愛嬌だ。
「あっ、また入り込んで! 今日のお勉強はもう終わったの?」
そして、途中で母親が止めに入ってくるのもいつものパターンとなっていた。
リサは焦った様子で何かを言おうとしているが、思い浮かばなかったのか黙り込んだ。
「先に終わらせてきた方がいいですよ」
「お兄ちゃんまで……! うー、分かった……」
部屋を出ていく後ろ姿をちらりと見る。大袈裟なくらい肩を落としてトボトボと歩く姿が少し面白い。
「ごめんなさいね、うるさくなかった?」
「退屈しのぎに付き合ってもらっているくらいです。あまり怒らないでやってください」
「そう? そう言ってくれると助かるわ」
マリーは笑ってテーブルにトレイを置いた。今日の食事も美味しそうだ。
ペンダントと折れたナイフくらいしか持っていない今、こうして衣食住を提供してくれていることがとてもありがたい。
その内、折れたナイフを解体した方がいいだろうか。いくつか埋め込まれた魔石で多少は食い繋げるだろう。
この体では前のように客を取ることはできないだろう。いつまでもここにはいられない今、これは大きな課題だ。
「食べ終わったら呼んでちょうだいね」
「ええ。ありがとうございます」
何かあった時などは、テーブルに置かれたベルを鳴らせばマリーが来てくれることになっている。
食事を済ませたら、ベルで呼んで片付けてもらい……それが終われば、後は目を瞑って横になるだけ。
目を開けていればそれだけで頭痛に苛まれる。鑑定眼は便利だが、困ったものだ。
思えば、私が前髪を伸ばし始めたのはこれが発現してからだった。後天性の魔眼は珍しいと聞く。そもそも魔眼自体が珍しいものではあるが……。
私が会ったことのある魔眼持ちといえば、クレイストで出会った自称ヒーローのヘルト・ユスティくらいだ。彼は今どうしているのだろう。今日もヒーロー活動と称して問題を起こしているのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えていると、ドアがノックされた。入ってきたのはエクメドだ。
「大神官様から通達があった」
体を起こす。これで私の処遇が決まるわけか。
もし、願いを叶える権利を剥奪されたらどうしよう。ここまで集めてきた魔力も全て無駄になる。
そうでなくとも、死刑なんてこともありえるかもしれない。
息を呑む私に、エクメドが告げる。
「魔宝石を大神官の元まで持ってくること。それを持って今回の事は不問にすると。そう聞いている」
「……それだけで、いいんですか?」
「そうらしい。良かったじゃないか」
体から力が抜ける。思った以上に軽い罰だ。いや、罰とさえ呼べないくらいではないだろうか。
これで……これで、私は願いを叶えられる。
……願い?
「君の状態を伝えたところ、急がなくてもいいとのことだ。しっかり回復してから持ってきてくれればいいと……ゼロ殿?」
「あ、はい。分かりました」
「では、私はこれで」
エクメドは部屋から去った。
……魔力は集まった。後はこのペンダントを大神官に……アシックに渡せば、願いが叶う地へ行けるはずだ。
そうしたら……私は、何を願う?
夜。そろそろ時間だ。
起き上がった僕は、軽く体を動かす。うん、これだけ動くなら充分。
折れたナイフだけでは心許ないけど、それでも狩りをするには不足なし。最低限の働きはしてくれるはずだ。
そっと部屋を抜け出す。悪魔らしい尻尾は服の中に隠して、フードを被って。翼は隠れきらないけどしょうがない。
屋敷を抜け出して、今日の獲物を探す。
この町の守護者だっていうエクメドには悪いけど……こればかりは、どうしようもないんだ。それでもできるだけ最小限に努めるから見逃してほしい。
月明かりの下、こっそりと町を歩く。こんな時間に出歩いている人はいないから、あまり気にしなくてもいいのは嬉しい。
辿り着いたのは町の隅に立っている、少しボロボロな家。ここにしよう。
不用心にも窓が開いてるし丁度いいや。
家に入り込んで、寝室を探す。見たところ一人暮らしみたいだから、僕は本当に運がいいのかもしれない。
寝室に忍び込んで、無防備に眠る男を見下ろす。
途端に流れ込んでくるのは、知りたくもない男の生涯。うるさい。うるさいな。やりにくくなるじゃないか。
唇を噛んで、男の首を切り付けた。刃こぼれもしてるナイフの切れ味はかなり落ちてるから、その内買い換えなくちゃ。
でも、これ相当の代物はお目にかかれないんだろうなあ。そう思いながら家を出た。
体を満たす充足感に酔いながら、帰り道を歩く。月だけが僕を見ていた。
歩きながら考えるのは、セキヤのこと。あの男、ゼロの味方だなんだと言っておきながら……最後の最後で、裏切った。
おかげでゼロは傷心してしまっている。あの男のせいだけではないけど、眠れない夜が続いていた。ようやく眠れたって悪夢に飛び起きる日々だ。どうしてあんなことを考えていたのか、今となっては分からない。
分かるのは、彼を信用するべきじゃなかったってことくらい。ただそれだけだ。
ヴィルトの方はどうだろう。鑑定眼で確認していないから、彼の方は分からない。
でもゼロはヴィルトのことまで疑っているようだった。仕方ない、今まで親友だと思っていた相手に殺したいと思われていたんだから。
今のゼロは鑑定眼で確認することでようやく相手を信用している。きっとこのままじゃ良くない。
でも、僕に何ができる? 代わりにこうして欲を満たすことで精一杯だ。きっと僕がゼロと話をしようとしても、嫌われて終わるだろうし。
僕との記憶を全部返す? それこそダメだ。細かい嫌な記憶まで全部返すことになる。結局、僕にできることは何もないんだろう。ただ見守ることくらいしか。
……屋敷に戻るまでまだまだ距離がある。せっかくだから飛んで帰ろうかとも思ったけど、海に落ちた時に折れでもしたのか飛ぼうとすると痛みが走る。こっちももう暫くは治りそうにないな。
歩いて屋敷に戻った僕は、こっそりと入って鍵を閉めた。僕が出ている間に誰も起きてはいないようだ。
部屋に戻ろうとした時、カタリと音がした。小さな気配が近づいてくる。
「……悪魔のお兄ちゃん?」
「リサ」
近づいてくるリサは眠たそうに目を擦っていた。
「どうしたの?」
「眠れなかったんです。貴方は?」
「おトイレ……」
「……なるほど」
ふにゃふにゃと喋る彼女はもう限界に見える。このままだと寝室に帰る前にその辺りの床で寝てしまいそう。
「ほら、手を繋いであげますから。しっかりしてください」
「……ねえ」
「なんですか?」
「だあれ? いつものお兄ちゃんじゃないよね?」
リサは眠そうにしながらもこちらを見上げている。
……驚いた。子供の洞察力というのも中々侮れないみたい。
「気のせいですよ。ほら、戻りましょう。明日になれば全部元通りですよ」
「うん……」
彼女を部屋の前まで送り届けて、自室に戻る。
ベッドに寝転がって自分の手を見た。
純粋な子供の手を握るには、汚れすぎてしまった手。
「……バカらし」
目を閉じて眠りにつく。
明日になれば、全て元通りだ。




