第76話 怪鳥
先程の地揺れはあの怪鳥が降り立ったことによるものらしい。怪鳥は崖上に居座るつもりのようで、一向に立ち去る気配がない。
いつ気づかれるものかとヒヤヒヤしながら、息を潜めて坂を登る。気分は猫から逃げ隠れするネズミだ。
やがて坂の終わりが見えてきた。
……坂を登りきれば、あの怪鳥の背後に出ることになる。
そのまま見つからないように逃げられればいいが……怪鳥はグルルと喉を鳴らしている。リラックスしているのか警戒しているのか判別がつかない。
進む先を指差して、ゆっくりと進む。足音を立てないよう、慎重に。暑さからか緊張からか、額に汗が滲む。
幸いにも怪鳥は背を向け続けていた。この調子なら逃げられるだろうか。
よし、このまま先にある岩の影まで行ければ――
バキッ。
硬い何かが折れるような音が聞こえ、バッと振り返る。
怪鳥の金色の目と視線が合った。
……まずい。
「す、すまな……ッ」
ヴィルトの泣きそうな声が聞こえると同時に、腕を引いて走り出す。
きっと小さな石植物を踏み抜いてしまったのだろう。やってしまったことは仕方ない。
グギャアアアアアオ!!
ビリビリと響き渡るような、けたたましい鳴き声をあげた怪鳥が大きく羽ばたく。
あまりにも強い羽ばたきは突風を起こし、いとも容易く私達の体を吹き飛ばした。
「うわああああっ!?」
浮いた体は溶岩の海へと投げ出される。
スローモーションになった視界には、同じように投げ出されたセキヤとヴィルトの姿があった。
ぐっと歯を食いしばり、翼を広げる。逆さまになっていた体はどうにか立て直し、落ちてきたセキヤの腕を掴んだ。
「ヴィルト!」
真っ赤な溶岩へと落ちていく彼の元まで急降下する。
伸ばされた腕を引っ掴むと同時に全力で翼をはためかせた。
私の手にぶら下がったヴィルトの足元で、溶岩がごぽごぽと音を立てている。
どうにか間に合った。ほっと息をついたのも束の間、再びけたたましい鳴き声が聞こえたかと思えば、いくつもの岩がこちらへ飛来していた。
「なっ……」
咄嗟に体を傾けて一つ目の岩を避ける。二人をぶら下げたまま避けろだなんて、なんて無茶な!
しかし、やるしかない。岩と岩の間を縫うように飛び回る。こっちはまだ慣れきっていないというのに、そんなことは関係ないとばかりに怪鳥は岩場を蹴って飛ばし続けていた。
やがて怪鳥は再び羽ばたいて飛び上がる。その衝撃で、一際大きな岩が飛ばされた。
小さな岩を避けたばかりの今、それを避けるには時間が足りない。
それでも避けようと体を傾けた時、紫色の何かが目の前を横切った。
次の瞬間、激しい破砕音と共に岩が砕かれる。
紫髪の獣人が、拳を振り抜いていた。
(なんて力だ……!)
呆気に取られている内にその獣人は砕かれた岩を足場に、安定した岩場へと飛び移った。
力の強さもそうだが、身のこなしも軽やかだ。
怪鳥はじろりと獣人を見つめたかと思うと一鳴きして去っていった。助かった……のだろうか。
とにかく、これ以上飛べそうにはない。獣人の側に降り立つ。彼の真意はどうあれ助けてもらったのだ、礼を言わないわけにはいかないだろう。
「……見慣れない顔だ」
獣人は低く掠れた声で呟いた。
紫色の猫耳と尻尾を生やした、少し筋肉質で背の高い褐色肌の獣人だ。黒い首輪に繋がれた短い鎖が音を鳴らす。
ただの獣人……というわけではないのだろう。彼も悪魔なのだろうか。
「助けていただいてありがとうございます」
「……」
黙り込んだ獣人は、近づいてくると顔を近づけた。
すんすんと匂いを嗅がれる。なんだ、なんなんだ急に。
「獣人……いや、悪魔か。しかし人間の臭いもする……何者だ?」
「私は人間だと思っています。遠い先祖が獣人や悪魔との子を成したそうですが」
「……そうか。ここへはどうして来た。迷い込んだか?」
「いえ、私達は自らの意思でここへ来ました」
ふん、と鼻を鳴らした獣人は腕を組んで私を睨みつけた。
どうにも警戒されているらしい。カメリアが言っていた通り、自らここへやってくる人間は珍しいのだろう。
「それで、自称人間が何の用だ」
「俺達、バチカル様に会いたくて城を目指しているんだよ。ここにいるっていう神官に会いたいんだけど、バチカル様の許可をもらうべきだって知人に言われてさ」
「懸命な判断だ……知人というのは?」
「あー、言っていいのかな。いいか」
こちらを見たセキヤに頷く。言うなとは言われていないわけだし……彼も悪魔なら、知っているかもしれない。
「カメリア……アィアツブスです」
「アィアツブス? お前ら、彼女と知り合いなのか」
「ええ。今回の目的を伝えたところ、本名を教えていただきました」
顎に手を当てた彼は、さすりながら考え込む。
「……彼女が人間界で偽名を使っているらしいことは俺も知っている。信憑性はある、か」
呟いた獣人はため息をつくと私達に向き直った。
「俺はツァーカブ。ここで出会ったのも何かの縁だ、城の手前までで良ければ案内してやってもいい」
「助かります。どう向かったものかと思っていたので……」
「ありがとう、ツァーカブさん」
「心強いよ」
ツァーカブはフンと鼻を鳴らすと歩き始めた。その尻尾はゆっくりと揺れている。
「礼儀はそれなりになっているようだな。ついてこい」
「ええ。案内よろしくお願いしますね」
ツァーカブは慣れた様子で道を見極めて歩いていく。
彼はカメリアのようにゲートを使えないのかもしれない。翼もないようだし、歩いて向かうことが多いのだろうか。
「城へはよく行くんですか?」
「なんだ急に」
「道の選択に慣れているようでしたので」
彼はため息をつくと、少し不機嫌そうな声色で続ける。
「単にこの辺りに詳しいだけだ。城へはあまり近づかない」
「そうなんですか」
「ああ。俺は一人が性に合ってる……話している暇はないぞ、黙って歩け」
ツァーカブは歩くペースを早めた。機嫌を損ねてしまったのは悪手だったか。
距離を空けられたので小走りで距離を詰めると、ギロリと睨まれてしまう。
「あまり近づくな」
「……失礼しました」
余計に距離を取られたので、少しあけてついていく。
沈黙の中、私達は歩き続けた。
そろそろ休憩してもいいだろうか? 私はまだ平気だが、ヴィルトが疲弊してきている。セキヤも疲れ気味だ。
この環境のうえ、危うく死にかけたばかりだ。仕方ないだろう。
「……あの」
「なんだ」
「少し休憩してもいいですか?」
ツァーカブの鋭い視線が向けられる。……そんな暇はないと言われるのだろうか。
彼の目はセキヤとヴィルトに向き……深いため息と共に立ち止まった。
「人間は軟弱なんだな。仕方ない、倒れられても困る」
「ありがとうございます」
「少しだけだ。少し休んだらすぐに出発するぞ」
地面に座り込んだセキヤとヴィルトは水筒を取り出して水分を補給している。
ツァーカブは腕を組んでその様子を見ていた。
「ふー、生き返るよ」
「これでもう少し頑張れる……」
「ゼロも飲んでおいたらどう? そろそろ喉乾いたでしょ」
「そうですね、私も補給しておきます」
セキヤから水筒を受け取り、口をつける。
この気温のせいか水が生温かい。
「……」
水を飲んでいると視線を感じ、ちらりと目を向ける。
ツァーカブが私の喉を見てごくりと喉を鳴らしていた。
「何です? 貴方も喉が乾きましたか。飲みます?」
「……いや」
水筒を差し出すと、ツァーカブはふいっと目を逸らした。何なんだ。
水も飲み終え、足を伸ばして休ませた。十分ほど経ったところでツァーカブがこちらへ顔を向けた。
「そろそろ行くぞ」
「ええ、わかりました」
それからも私達は硬い地面の上を歩き続けた。
高い塔のような岩を迂回したところで、耳障りな音が響き渡る。
「……ただのトカゲだ。気にするな」
「いや、ただのトカゲって……」
「あれをただのトカゲで済ませるのはどうかと思うのですけど」
私達の前には、馬車よりも大きな黒いトカゲが立ち塞がっていた。




