間話 そして彼は真理に触れた
あの日の光景は何度も夢に見た。
肉が焼け焦げる臭い、突きつけられた旗、目の前で巻き起こった暴力と、差し伸べられた手。
俺が背負っていくべきもの。俺が握っておかなければならない手綱。
扉がノックされる。いつもの黒い神父服に着替え、寝巻きをカゴに入れる。
「キュリオ様、朝食の時間です」
「……ああ」
微笑みを浮かべるローザに続き、廊下を進む。
教祖ドグマと天使……いや、今は悪魔として扱われているイディアが使っていた屋敷。それがそのまま今の俺の住居となっている。
初めは取り壊そうという話になっていたが……資源の無駄になってしまうと諭したところ、俺が住むことになってしまった。ローザは使用人として働いている。
そんなことはしなくてもいいと言っているのに、任せてほしいと言って聞かない。仕方なく任せているが、正直助かっているのも事実だ。
豪奢な作りのこの屋敷は、どうにも普段暮らしをするには広すぎて肩身が狭い。
食堂につくと、白いクロスが敷かれたテーブルに朝食が並んでいる。食事も見合うものをと豪華なものにされかけたが、普段通りの食事でいいと言って辞退した。
たったそれだけで、信者達は俺を持ち上げる。あの宗教の実情を知っていながら雀の涙程度にしか抗えなかった。そんな俺に、彼らから尊敬される資格はないというのに。
一個の黒パンと薄味のスープ。この集落において一般的な朝食だ。以前は一切れのパンさえ稀だったことを考えると、これでも豊かになったと言える。
来年の収穫期が訪れれば、皆が腹一杯に食べられるようになる。搾取する存在はいなくなったのだから、少なくとも今よりはマシになるだろう。
この屋敷に集められていた食料などは、均等に再配分した。これで次の収穫期まで無事に乗り越えられるはずだ。
朝食を終えたら、俺はすぐに書庫にこもる。どうやらドグマがイディアのためにと本を集めていたらしい。
その中から神に関する書物を選んで読み込むことが、今の俺の日課だった。
俺がこの集落の長となって、四ヶ月以上になる。
集落の行先が委ねられている以上、下手なことはできない。
俺が、正しい道を示さなければならない。
そのためには知識が必要だ。まずはこの世界の成り立ちから、改めて調べなければならない。
手に取った創世記のページをめくる。
(六柱の神々……)
始まりの一節を指でなぞる。
この世界にはかつて六柱の神がいたという。
無限に広がる虚無しかなかったこの世界に、土神ソイアスが大地を生み出した。
炎神フィオーレが太陽を生み出し、水神アキュラが母なる湖を作った。
風神フィンが風を吹かせ種を運び、緑が広がった。
そして闇神ツェルが夜を生み、光神リヒトが月を浮かべ星を散りばめる。
こうして神々の楽園が作られた。
(しかし、闇神ツェルは悪の化身とも呼ばれ、炎神フィオーレを誑かし神々の楽園を崩壊させた)
天上の大地は崩れ、形を変えて大陸を成し、神々の体は千々となって人間として生まれ変わった……そう創世記には書かれている。
夜更かしをする子供を叱る時、闇神ツェルに連れて行かれるというのはよく使われる言葉だ。信仰に乏しい今でも、そういった形で神の名は残っていることがある。
亜人の中でも獣人が特に虐げられるようになったのも、闇神ツェルが獣の耳を持っていたからという一説があるくらいだ。
既存の神を信仰の対象とするのなら……信仰するべきは光の神リヒトだろうか。かの男神は大らかで愛情深い神だと聞く。
しかし、本当にそれが正しいことなのか?
一時は希望そのものとして捉えられていた彼らが醜悪な悪魔として扱われたように、書物に記された神話が全て真実とは限らない。
(俺達が信じるべきものは、本当に神なのか……? いや、そもそも俺が神を信仰しようと告げたところで、彼らは納得するだろうか)
信者達は、まるで俺こそが神であるかのように崇めてくる。俺はそのような人間ではないというのに。
いつか俺が彼らに失望された時……あの三人と同じ道を辿ることになるのだろうか?
灰も残さず、業火の中で焼け死ぬ様が思い浮かび、ぶるりと体が震えた。
創世記を読み進めていると、扉がノックされる。
「キュリオ様、集会の時間です」
「ああ、もうそんな時間か……分かった、向かおう」
もうそんなに時間が経っていたのか。
書庫を出て、屋敷前の広場へと向かう。
ドグマ達が死へと追いやられた、あの広場だ。
外に出ると、既に信者達が全員集まっていた。
俺は前もって考えていた言葉をつらつらと述べる。中身はなんということはない。日々の恵みに感謝して今日も頑張っていこう……要約すればそんな言葉だ。
それでも、信者達は熱心に耳を傾ける。
……以前、度々死人が出ていた時には疑心暗鬼に陥り殺し合いにまで発展しそうになったが、今はどうにか落ち着いている。
魔物の仕業だということにしたが……きっとあれは人の仕業なのだろう。その犯人もまだ見つかっていないことは、頭痛の種になっていた。
集会を終えたら昼食を摂って、また書庫にこもって書籍を漁る。
長に相応しい人物になるためには、知識が足りない。
彼らを導くためには、この程度の努力では到底。
視界がぶれ、目を閉じる。あまり寝ていないせいだろうか。
あまり睡眠時間を削りすぎるのも良くない。しかし……明日の集会で口にする言葉もまだ決めていないのに、寝るわけにはいかない。
せめて今手にしている、この本を読み終えて……明日、皆に聞かせる言葉を考えるまでは……。
『世界の真理』と書かれた表紙に指を滑らせる。世の理がそう簡単に分かるなら、どんなに楽なことだろう。
眉間を押さえ、息を吐く。
ぶわりと吹いた風が前髪を揺らした。
何だ? 窓は開けていないはずだ。
目を開けると、夕焼けの空が目に入った。
揺れるカーテンの向こう、開かれた窓に……見知らぬ女性が座っている。
「こんばんは」
長い金髪、赤い瞳、ボロボロに羽が抜け落ちた黒い片翼。
……悪魔?
慌てて立ち上がると、椅子がガタリと音を立てた。
「……君は」
「クレスティアはクレスティアっていうの。こんばんは、熱心な神父さん」
「あ、ああ……こんばんは……」
窓枠に腰掛けた彼女は、にっこりと微笑んでいる。悪魔と呼ぶには温厚そうな顔立ちだ。
開かれた窓から風が吹き込む。冷たい空気が頬を撫でた。
「クレスティアね、貴方の頑張りを見ていたの。毎日大変そうね。そんなに頑張れるなんて、愛が成せることだと思うの」
クレスティアと名乗った彼女は、胸の前で両手を合わせる。
愛……愛、か。俺の動機は、そんな素晴らしいものだろうか……今となっては、自らのために動いているような気がしなくもない。
一歩間違えれば、信者達に群がられ死を迎えるかもしれない。その恐怖が、私を突き動かしているのではないか……そんな疑念が湧く。
しかし、彼らを導きたいと思うのもまた事実だった。正しい道を示し、皆で幸せになれるなら……それ以上に素晴らしいことはないだろう。これは愛と呼べるだろうか。
「貴方のそれは間違いなく愛だわ。だからね、貴方に祝福を授けようと思うの」
「祝福……?」
「そう、祝福。貴方はこの世界の真実を知りたいのよね?」
クレスティアは両手を掲げた。キラキラと、色とりどりの光の粒子が降り注ぐ。幻想的なその光景に、俺はただ目を奪われていた。
「さあ、見て。これが世界の理、その一端。どうか貴方に深い愛と幸福が訪れますように」
天井を見上げる。小さな穴が、そこにあった。
誰かが穴の中にいる。いくつもの……泡が漂う空間の中、宙に浮いたその人物は脚を組んで、優雅にティーカップを傾けていた。
あの顔は知っている。
一度贄として選ばれておきながら生きながらえた信者の一人。
あの日、暴動を起こした信者達の最後尾にいた、いくつもの色で髪を染め上げた奇抜な髪の信者。
「どうして……彼が……」
「セイムはね、すごい人なの。いろんな世界を渡って、その全てを素敵な遊び場に変えてしまうのよ」
「遊び場……?」
目を閉じた、笑顔の彼と目が合う。ゆっくりと、その目が開かれた。
空虚。透明だった瞳が、黒く染まる。まるで俺の色を、吸い取るかのように。
途端に無数の情景が頭の中に流れ込んだ。
『知っているかい? 森近くに一軒だけ、ボロい家があるだろう? あそこには随分なお宝があるらしいよ』
『へえ。でも厳重に警備されてるものじゃないのか?』
『それが、たった二人の夫婦しかいないそうなんだ』
酒場で噂をする、フードを被った彼。隣のテーブルでジョッキを傾けるドグマの姿。
『お兄さん、だれ?』
『……』
『お父さんとお母さんは……?』
『……遠いところに行ったよ。俺は……君を迎えにきたんだ』
ボロボロの服を着た銀髪に赤い目の子供が、服を血で染めたドグマに手を引かれていく。壁の影に、男女の死体が転がっていた。
子供が手に取った本には、ただ二つの文字が刻まれている。
『聖書』
『一つ取引をしませんか、天使様』
『取引?』
天使としての装いをしたイディアの前に跪く彼。
贄として連れられたはずの彼は、イディアに先生と呼ばれ懐かれるようになった。
『この集落は腐敗している。貴方こそ、この腐りきった汚泥を清められるお方だ』
『……私が?』
『聖女と名高い貴方ならば、あるべき形へと……』
ハイリに耳打ちをする、彼。
『……ああ、それなりの劇にはなったようだ』
燃え盛る炎、崩れおちたハイリの体、それらに目も向けず俺を見つめる信者達。
その最後列から外れた彼が、ぽつりと呟いた。
「遊び場……? は、はは……ここでの全ては、全て君が……?」
そんな馬鹿な話があるだろうか。
もしそうだとするなら、今この現状も彼が作り出したということに他ならない。
今までに失われた命は、信者達の苦痛は、全て彼の『遊び』のために用意されたものだと?
「セイムは退屈が嫌いなの。だから遊ぶ。簡単でしょう? これが世界の一端だけれど……気に入ってくれた?」
ころころと笑う少女の声が耳を通り抜ける。
俺はただ、呆然と穴の先に見える彼と目を合わせていた。
やがて、興味をなくしたように黒い瞳が閉じられ、視線を外される。
全ての元凶が、彼だというのか。もし、そうだというのなら……俺の友人の死さえ、彼が糸を引いた結果なのだとしたら――
手を伸ばす。その穴に届かないと知っていて、遠く、遠くへと手を伸ばした。
『見せてやろう』
「……?」
ふと、声が聞こえた気がした。
そして、一瞬視界がブレる。
瞬きをした後にはブレは収まり、元の視界に戻っていた。
ただ一つ……キラキラと光る、細い糸が見える以外には。
「……糸」
穴の向こうから伸びた糸は、俺の手足に繋がっていた。
俺だけじゃない。クレスティアと名乗った少女にも、何本もの糸が繋がっている。
まるでマリオネットのように。
「全て……全て、あの男の思い通りというわけなのか……?」
糸が伸びる先、穴の中を見つめる。
笑いながらも退屈そうにティーカップを揺らす、セイムという名の男。
「そういえば、この世界の成り立ちについても調べているのよね? 神々の楽園が崩れて、新たな世界が生まれた……そのキッカケもセイムが関わっているの。すごいでしょう? 愛の果てに、たくさんの愛が生まれる世界ができただなんてとっても素敵」
楽しげな声が耳を通り抜ける。
もしそれが本当だというのなら。彼は、それこそ神話の登場人物じゃないか。
この非現実的な光景が、非現実的な言葉を真実として認識させる。
まるで自分こそが神だと答えるかのように、男は笑みを絶やさない。
その男の手を見た時、ぷつりと何かが切れた音が聞こえたような気がした。
「……ははっ」
笑いが漏れる。
「はははっ……あは、あはは……」
止まらない。面白くもないのに、なぜ俺は笑っているんだろう。
体から力が抜け、床に座り込む。
穴の先を……いや、それを見つめて、引き攣ったように笑い続けた。
神に等しい、男の手。
その手には俺と同じように、糸が繋がっていた。
もし彼もまた、俺達と同じマリオネットなのだとしたら。
一体、この糸の先にはどんな神がいるというんだ――
「そんなに嬉しかったの? それならよかった。クレスティアも嬉しいの」
少女の声が遠い。
「頑張って。クレスティアも応援してるから」
穴は閉じ、一枚の羽根を残して少女は消え去った。
それでも俺は天井を見上げたまま、笑い続けていた。
冷たい風が吹き込む中、夜が明けるまで。
ずっと。
ずっと。
ずっと――




