第74話 翼
ソラン・ヴェノーチェカが死んだ。
いや、私が殺した。そう、私が殺したんだ。
寝袋の中、閉じていた目を開ける。目を閉じ続けていても、彼の最期の笑顔が浮かんでしまうせいで眠れない。
死んだ後まで私の邪魔をしてくるなんて、とんだ兄だ。
寝袋から出ると、頬杖をついていたセキヤが振り返る。テーブルについて、外の景色を眺めていたらしい。
「……眠れないの?」
「ええ。どうにも……死に顔が浮かんで」
「そっか……」
隣に座ると、セキヤはコップに白湯を注いで差し出してくれた。
「ま、飲んで落ち着いたらどう?」
「そうさせてもらいます」
コップの底にはドット草の花が沈んでいる。ふわりと漂ってくる香りが、少し心を落ち着けてくれた気がした。
「ゼロはさ……あいつのこと、どう思ってるの?」
「あいつ……ソランのことですか」
「そう」
どう思っているのかと言われても、私自身が分かっていない。
昨日の戦いで整理をつけたつもりだった。ただ、嬉しさだけを感じると思っていた。元凶を消し去れたことを、嬉しいと。
しかし、実際に感じたのは虚無感だった。
その虚無感がどこから来るものなのかは分からない。
「分かりません」
「ゼロをあんな目にあわせた張本人なのに?」
「……ええ、それは分かっています。しかし、彼がいなければ私が今生きていることさえなかった」
どちらが良かったのかと問われれば……今だと答えるだろう。
生きていなければ、彼らに出会うこともなかった。この素晴らしい友を得られたことは、私の人生において最大の幸福と言えよう。
「でも、あいつはもう死んだんだ。気にすることないよ……これからは、俺達のことだけ考えよう」
「……そう、ですね」
きっと、あの顔を忘れることはできないだろう。
満足そうに微笑んだまま事切れた兄の顔。
それでも、セキヤの言う通り気にするべきは私達の今後だ。
「残る魔力は闇だけ。ついにここまで来ましたね」
「うん。短いようで長い旅だったけど……あと少しで、俺達の願いが叶うんだ」
「私達の願い……」
始まりは呪われたことだった。
黒髪の女、メイニーが私に振りかけたという香水のせいで生じた呪い。それは悪魔の呪いだということ、ある条件で進行することの二点しか分かっていない未知の代物。呪いによって、右目の瞳孔が蛇、あるいは猫のような縦長のものへと変化した。
呪いについて調べているという悪魔、カメリアの元を訪ねて、図書館に行くべきだという助言を得た。声を失っていたヴィルトに声を発せるようにする魔道具を渡してくれたのも彼女だった。
図書館では司書アシックと出会い、この旅について教えてもらった。六種の魔力を得ることで、願いが叶う地に辿り着ける――なんとも御伽話じみた、しかし今となっては現実味を帯びてきた話だ。
魔力を収めるためのペンダントを得た私達はメルタに向かい、火の神官レイザと出会った。竜の末裔だという彼女の頼みで坑道に巣食う魔物を掃討し、火の魔力と水の神官に関する情報を得た。その夜、呪いの進行によって左目の瞳孔も変化した。
漁村ダム・エミールでは水の神官ライラの夫の形見であるペンダントを探して、巨大なイカを倒した。水の魔力をもらい、レイザに頼まれていた肖像画も画家のオルドによって描かれた。呪いの進行によって両腕に硬質な鱗が生え揃った。
次の町に行く前に、ヴィルトの故郷にも立ち寄った。故郷は滅びてしまっていて、ヴィルトは酷く落ち込んでしまったが……その日を境に、彼は変わっていったと思う。ソランと再会したのも、ここだった。
メルタからクレイストへ向かう道中、偶然ルクスと会って四人で旅をした。その途中で奇妙な集落に泊まって、ヴェノーチェカの生き残りと出会った。贄にされるだなんてゴタゴタにも巻き込まれつつ、なんとか逃げ出して。
ルクスと別れてクレイストに向かった私達は、ヴェノーチェカ邸に入り込んだ。穴が空いていた記憶を取り戻し……受け入れ難い真実も目にしたが、今はそれで良かったのだと思っている。
ヒーローを自称するヘルトの助けもあったが……結局、彼は私達のことを黙っていてくれているのだろうか。
そして廃屋敷の主、大魔法使いマホの助力によって地底にある古代都市アーティカを訪れた。無人の都市で一人稼働し続ける機械人形のマキナこそが土の神官で、一戦を交えながらも説得に成功した私達は土の魔力を得て古代都市を離れた。呪いの進行によって獣の耳が生えた。これのせいでフードを常時被っておくことになってしまった。
ミスキーは人為的な流行病に悩まされていた。ルクスの診療所を宿として使わせてもらい、町の守護者でもあるエクメドを尋ねた。彼は風の神官でありながら町を苦しめ続けていたが……彼の家族をヴィルトが蘇らせたことによって、風の魔力に加えて大神官の元を尋ねるべきだというヒントを得ることができた。そして呪いの進行によって、牙が生えた。なんとも地味な変化だ。
ミスキーを出る時、待ち伏せしていたソラン達によって連れ去られてしまった。パノプティス行きの馬車の中、何日もの間首輪を繋がれていたが……メルタの宿で逃げ出すことに成功し、セキヤ達と合流することになる。
そして今。図書館の司書でありながら大神官でもあったアシック・レカードによってオーバルへの道を繋いでもらった私達は、天上人が多く住まうこの庭園で、光の神官へイェの頼みによりショーという名の殺し合いを行い……無事、勝利した。
光の魔力を手に入れた今、残る魔力は闇。
地底の牢獄、アンディス……そこに闇の神官がいるという。
「本当に……長い旅でした」
「うん。いろんなことがあったね」
コップの中身を口にする。白樹の蜜も入っていたのか、ほんのりと甘い。
一息ついたところで、突き刺すような痛みが背中に走った。
「ぐぅっ……」
「ゼロ!?」
背を丸め、両手で肩を抱く。肩甲骨の辺りがじくじくと痛む。突き刺すような……いや、突き出てくるような痛みだ。
呪いの進行は、魔力を得たその夜に訪れる。
「ゆっくり呼吸して……大丈夫、大丈夫だから」
セキヤの言葉を聞きながら、ゆっくりと深く呼吸する。
依然として痛みは続き、皮膚は裂け、メキメキと何かが体から出ていくような音さえ聞こえてきた。
背中を血が伝う感触。一体、何が起きているんだ。
セキヤの手が背の痛みがない部分を撫でる。
歯を食いしばり、呼吸する。シーッと歯の隙間を呼気が抜ける音が耳障りだ。
……やがて、突き刺すような痛みは治まった。相変わらずじくじくとした痛みはあるが、それでも遥かにマシだ。
「セキヤ……一体、どうなって……」
「……翼」
セキヤが呟く。
「黒い翼が、生えてる……」
バサリと、ここに来てから随分と聞き慣れた音がずっと近くで聞こえた。
翼が生える時に裂けてしまった皮膚を治すためヴィルトを起こし、そうこうしている内に朝を迎えた。
黒い翼はそれなりに大きく、最早隠すことはできそうにない。
まだ動かすことに慣れていないが、軽く浮くことはできた。使い慣れれば自在に空を飛ぶこともできるかもしれない。
「すごい、かっこいい。ふわふわ」
ヴィルトはというと、翼にそっと手を当てて撫でていた。まあ、悪い気はしない。そうしているとセキヤまで参加してきた。前もこんなことがあったな……。
「さあキミ達! このワタクシが迎えに……」
滑空して飛び込んできたギボールが、固まった。
突然やってきたかと思えば突然フリーズするなんて、一体なんなんだ。
そう思っていると、ギボールはパアアッと顔を明るくして、私の翼を指差した。
「一体それはどういう仕組みなんだい!? 昨日までキミは翼を持っていなかったはず。いや、そもそも人間に翼は生えるものなのかい!? ぜひ、ぜひカイボウをっ!?」
ギボールがいなくなった。かと思えば、ロハが立っている。
……ロハに蹴り飛ばされて大樹の根本にぶつかったギボールは、頭を押さえてふらふらと立ち上がった。
「な、なな、なんだね急に……」
「なんだも何も、人間の案内はボクが任されたことなのだけれど? なんでキミがいるんだ、ギボール」
「もう旅立つと言うじゃないか。生きた人間の見納めになるかもしれないんだ、こんな機会を見逃すわけ……」
はああ、と深くため息をついたロハは私達を見て肩をすくめた。
「アレのことは気にしないでくれ。後でロヒムに言っておく」
「ま、待ちたまえ。またぶら下がるのは嫌だぞ!」
「カイボウとやらはあの死体でやればいいじゃないか。へイェに許可はもらったのだろう? 少しは自制してくれないかい」
「分かった、分かったからロヒムに言うのはやめてくれたまえ!」
頭を押さえたロハは、ギボールをしっしっと手で払った。
「分かったからさっさと行ったらどうだい。ここに残って見つかっても知らないからね」
ギボールは慌てた様子で飛び去った。なんとも忙しい天上人だ。
「えーと……それで、案内って?」
「へイェが呼んでいるのさ。アンディスへの道を開くそうだよ。だから早く来るといい。……それにしても」
ロハは私の翼を見ると眉をひそめた。
「なんだいその翼は。美しくない」
「なっ……なんですかその言い草は。私が美しくない?」
「翼は純白であってこそだ。黒い翼だなんて悪魔どものようじゃないか」
……落ち着け、私。
彼の基準は天上人のもの。白い翼しか持たない彼らにとっては、そうなのだろう。
決して。決して私が美しくないというわけではない。
この翼は呪いの進行によって得たものだが、それにしたって私の一部だ。
私の一部である以上、美しくないなんてことは許されないのである。
「まあいい、人間の美的センスはよく分からないからね。ほら、さっさと準備をしたまえ。へイェを待たせるんじゃない」
「……ええ、分かりました」
深く深呼吸して、セキヤ達を見る。
「行きましょうか」
噴水前には、昨日のように天上人達が集まっていた。唯一、ギボールを除いて。余程ロヒムのことを怖がっているのだろう。
……と思っていたが、遅れてやってきた。空いていた位置に降り立つ。彼らの立ち位置は決まっているのだろうか。
「それでは、アンディスへの道を開きましょう」
余計な言葉はいらないとばかりに、へイェは手を突き出す。その場の空間がぐにゃりと歪み始めた。
歪みに歪んだ景色のせいで、マーブル模様のようになっている。これに入れと言うのだろうか。
「これがアンディスへの道です。どこに出るかは無作為ですが……そう悪い場所へは繋がっていないでしょう」
……なんとも不安になる物言いだ。本当に問題ないのだろうか。
「ところで、闇の神官は誰なのでしょうか」
「闇の神官はメレク。私の半身です」
「半身?」
メレク。名前だけは聞いたことがある。
ということは、闇の神官も天上人なのだろうか。
「へイェとメレクは同時期に生えてきた実だからな。人間で言うところの……なんだったか」
「双子じゃないかしら、あなた」
ヨドの言葉にロヒムが続ける。なるほど、それで半身か。
「メレクに会ったら、伝えてほしい言葉があるのです」
「何です?」
「時には戻ってきてもいいのですよ……と」
心配している……のだろうか。
伝言くらい何ということはない。
「分かりました。伝えておきますね」
「頼みましたよ」
歪んだ空間の前に立つ。この中に飛び込むのは中々に勇気がいるが……仕方ない。
ごくりと息を呑んでいるヴィルトの手を握り、三人で足を踏み入れた。
ぐにゃりと視界が歪む。本当に大丈夫なんだろうな。
やがて視界の歪みが治ると……そこは、ゴツゴツとした黒い岩の上だった。




