第67話 夢見
……ふと、目を覚ます。
木漏れ日が差し込む中、背にゴツゴツとしたものを感じる。
どうやら木に背を預けて眠っていたらしい。
「起きた?」
懐かしい声がする。そよ風を肌で感じながら横を向けば、赤髪の女が赤い目を細めて微笑んでいた。
「……フィオーレ」
なぜ、この女の名を知っているのだろう。
ふわりと疑問が浮かんだが、それはすぐに消え去った。些細な問題だと思ったからだ。
「本当にこの場所が好きなんだね」
「……静かだから」
水に囲まれた、中央に大きな木が一本生えるばかりの小さな丘。
この小さな世界においては、唯一とも呼べる目印だ。
水に沈んだ小石を渡っては木の下で過ごすことが、ここ暫くの日常だった。
「……リヒトとは、どうなの?」
「相変わらず。どうせ、今も俺のことを言いふらしているんだろう」
「酷いよね……貴方は何も悪いことしてないのに」
目を細め、足元の草を眺める。小さな花がぽつりと咲いていた。そっと手を添える。花弁を指先が掠めて、小さく揺れた。
「まだ俺に関わろうとするのは君くらいだ」
「私は本当の貴方を知ってるから」
「……君は、どうしてそこまで俺を気にするんだ?」
「そんなの決まってるよ」
くすりと笑ったフィオーレは、そっと頬に触れる。
「貴方は私の大切な友達なんだから」
「……友達」
「あれっ、もしかしてそう思ってたのって私だけ? 違うよねっ?」
パッと手を離した彼女は、わたわたと手を動かす。
その様子がなんだかおかしくて、ふふっと笑いが漏れた。
フィオーレもつられて笑い始める。
少しの間笑いあった後、二人並んで景色を眺めた。
「……いつか、私が貴方を救うから」
「救うって? どうやって」
「それはまだ分からない。でも……」
フィオーレの顔に影がかかる。
「必ず、救ってみせるから」
ふっと、体が浮いた。
何もない虚空へと体が投げ出される。
遠くに見える崖から覗くのは、金髪の男の姿。
「どうして」
男へと手を伸ばす。届くはずないと分かっているのに。
「どうして、俺がこんな」
少しでも遠くへ。伸ばしきった手を、柔らかな両手が包んだ。
白いワンピースが揺れる。ほのかに光をまとう赤い髪が、虚空を照らした。
「フィオーレ……?」
なんで、ここに。
そう呟こうとした口は、彼女の胸で塞がれた。
抱きしめる腕の温もりが、冷えきった体を包んでいく。
「必ず。必ず、幸せにするから……」
決意のこもった声が耳元で囁かれる。
ふと、涙がこぼれ落ちた。
次から次へと止まらない涙は、頬を伝い、彼女のワンピースに染み込んでいく。
何もない虚空に二人きり。
自分の存在さえ見失いそうな無だけが広がる世界で、彼女の温もりとかすかな光だけが道標だった。
明るい光が視界を覆う。
燃え盛る炎が全てを焼き尽くしていく。かつて身を置いていた大地が砕け、炎に呑まれていく……そんな光景をフィオーレと二人、見つめていた。
その炎がこの身を灰にするまで、ただひたすらに手を繋いで。
「嘘つき」
いつまで経っても、幸せになどなれないまま。
「嘘つき」
あと何度繰り返す?
「嘘つき」
もう無駄なのだと、何度口にしたいと思ったことか。
それでも二度と自らの意思で口を開くことはないのだろう。
この身は灰となり、魂は摩耗を続け、記憶は遥か彼方へ置き去りにされて。
「……嘘つき」
そして何度、君の手で今世を絶ったことだろう。
「……?」
頬が冷たい。どうやら私は夢を見て泣いていたらしい。
前も夢を見て泣いてしまったが、最近は夢見が悪いのだろうか。
軽く目元を拭って体を起こす。外はまだ暗い。
「あれ、目が覚めた?」
「……セキヤ」
椅子に座って頬杖をついていたセキヤがこちらを向く。
なんとなく隣に座った私は、足を組んで背もたれにもたれかかった。
「どうも嫌な夢を見たようで」
「ゼロも? 実はヴィルトも一回起きてさ」
「ヴィルトもですか」
「正確には酷くうなされていたから、俺が起こしたんだけどね」
苦笑したセキヤは、机の上に置かれた小瓶を指先でつついた。ツァーバが渡していったアロマの小瓶だ。中に入れられていた棒は引き抜かれ、蓋がされている。
「多分、これのせいじゃないかなって思うんだよ」
「あの天上人が置いていったアロマですか」
「そう。ま、実際どうかは分からないけど……なんとなく閉じておいた」
「朝になって、感想を聞かれたらどう答えるんです?」
うーん、と顎に手を置いたセキヤが目を閉じて考える。
「そうだね……香りは良いと思うけど、つけたまま寝るのは体に合わないみたい……とか?」
「まあ、それが無難でしょうね」
人間と天上人の体が違うことくらい彼らも知っているはずだ。そう深くは突っ込んでこないだろう……きっと。
「それにしても、大変だったね」
「ええ。まさかこんなことになるとは思いませんでした」
「後悔してる?」
後悔。していないといえば嘘になるだろうか。
しかし、一時はどうなるかと思ったが、今はこうして穏やかに過ごせている。
明日どうなるかは分からないが、それでも今の私達は進み続けるしかない。
「ほんの少し。でも、いいんです。今更引き返すこともできませんから」
「……そっか」
「魔力、貰えるといいね」
「ええ」
日があけるまで、ぽつりぽつりと話をした。
今までの旅のこと。帰った後のこと。
願いが叶う地とやらは、どんな場所なのか……予想を言い合いながら、時を過ごす。
彼と話している内に、心に巣食っていた不安が解けていく。
この安心感を手放したくない。
必ず魔力を得て、彼らと共に戻るのだと。そう決意した。
朝になると、早々にツァーバが訪れた。よほど感想を楽しみにしていたのだろうか。
「どうだった」
「香りは良かったよ。でも、つけたまま寝るのは体に合わなかったみたい。夢見が悪くなるようでね」
セキヤは残念そうな顔でそう告げた。ツァーバは顔の前で指先を合わせ、ぼんやりと空を眺め始める。やはりというべきか、目は閉じられているが。
……彼ら、あるいは彼女らの目が開くことはあるのだろうか。
「そう……皆に好評だったのに。残念」
まだ眠たいのかと思うほどぽわぽわとした喋り方で呟いたツァーバは、セキヤの手からアロマの小瓶を取ると、その中身をじっと見つめた。
「悲しい感情、呼び起こす。すごいって、褒められた自信作だったのに」
……もしかして、このアロマも人間の魂から作られたものなのだろうか。
だとしたら、この場所は今までに何人分の魂を刈り取ってきたのだろう。
「次、こっち」
「あー、きっと俺達人間とは相性が悪いんじゃないかなって思うんだよね……だから申し訳ないけど、遠慮するよ」
今度はピンク色の液体が詰まった小瓶を差し出そうとする。
セキヤは両手をあげて、やんわりと断った。
「そう……アドナとカイに頼まれた新作なのに」
アドナとカイ。また新しい名前が出てきた。
一体ここには何人の天上人がいるのだろう。あの枝先にある籠は十個あった。一個を一人分の部屋だとすると、十人いるのだろうか?
「まったく、どうしてボクが呼ばないといけないんだい」
苛立った声が聞こえ、入り口を見る。
黄色い衣をまとった天上人……たしかロハだったか。彼がそこに立っていた。
「ロハ。おはよう」
「おや、ツァーバ。君もここに来たのかい? まったく、どうしてどいつもこいつも人間に興味を持つんだ。アドナとカイなんて最近妙な人間のマネをしているし……っと」
ロハは急に手鏡を取り出すと、前髪を整え始めた。
様々な角度で確認している彼の袖をツァーバが引く。
「ロハ、ロハ」
「少し待ってくれ。先程風に吹かれてね。当然ボクは多少髪が崩れたところで美しいことに変わりないが、それとこれとは話が」
「要件は?」
「ああ、そうだった」
手鏡を片付けたロハは、腕を組んで私達を見つめた。
「へイェが君達を呼んでいる。連れて行くから、さっさと外に出るんだ。ツァーバ、丁度いいから君も手伝いたまえ」
「わかった」
「お〜い、助けてくれないか〜」
大人しく外に出ると、気の抜けた声が聞こえる。
声の出所を見てみると、ギボールが縄でぐるぐるに巻かれて枝にぶら下げられていた。逆さまに吊られたまま身を捩っているのか、ゆらゆらと揺れている。
「ひ〜ま〜だ〜」
「……あれは?」
「ギボール」
「いえ、それは分かるのですが」
どうもツァーバは言葉足らずなところがあるようだ。
見かねたらしいロハがため息まじりに口を開く。
「ロヒムの怒りを買ったんだろう。どうせまた何かやらかしたのさ。ほら、さっさと行くよ」
ロハが翼を広げると、私とセキヤの腕を引っ張った。
一瞬ギボールに腕を折られた時のことが思い起こされ体が硬直する。しかしロハは気に留めず、翼をはためかせた。
彼が飛び立つと、私達の足も床から離れる。
うっかり落とされようものなら終わりだ。掴まれなかった方の腕でしっかりとロハの手を掴む。
見れば、ヴィルトはツァーバに持ち上げられ震えていた。可哀想に。
そのまま私達は枝先の籠の一つに運ばれた。最も上の位置にある籠だ。
枝の隙間から中に入ると、白い衣を着た長髪の天上人が待っていた。




