第66話 王
「余はエル。オーバルの王であるぞ」
肩にかけたマントをはためかせ、エルと名乗った天上人は笑った。くるりと巻かれた髪の向こうから覗き見える尖った耳には正四面体のピアスがぶら下がっている。
「ロヒムから話を聞いて来てみれば、まさか本当に生きた人間がいるとはな。余に挨拶をしに来なかったことは許そう。余は慈悲深い王であるがゆえに」
「……ありがとうございます。挨拶に向かえず、申し訳ありません」
両腕を広げたエルは、ふっふっふと笑って私達が座るテーブルの一席に着いた。
ひとまず下手に出てみたが、特に気にしてはいないようだ。
「して、何を飲んでいるのだ?」
「ハーブティーです。ドット草という植物の花を乾燥させて、湯を注いだものになります」
セキヤがさらりと説明すると、エルは興味深そうにコップを覗き込んだ。
「花を茶にしたのか。ふむ……興味深いな。よし、余にも飲ませろ」
「わ、分かった……じゃなくて、分かりました」
ヴィルトが固い動きで予備のコップにハーブティーを注ぐ。
それにしても、ここの王とは……神官ではないが、彼が最上位の天上人ということだろうか。
それにしてはロヒム達の言動を見るに様々なことを神官であるへイェの指示を仰いでいるようだが、どうなのだろう。
「どうぞ……」
「うむ、香りは悪くない。どれ、味の方は……」
鼻がないのに、どうやって香りを嗅いでいるのだろう。
そんな疑問が浮かびながらも、コップに口をつけるエルの様子を見る。
これで気に食わないからと危害を加えられるなんてことにならないといいが。
「……うむ。余の好む茶と比べればまだまだだが、それなりに良いものであるな」
エルは懐から小瓶を取り出すと、その中に詰まった琥珀色の液体をとろりとハーブティーに注いだ。
くるりとコップを回してもう一度口に含んだ彼は、満足そうに頷く。
「蜜との相性も悪くない。気に入ったぞ」
「それはよかった」
ほっとしたヴィルトは、少し引き攣っていながらも笑顔を浮かべる。
「余は気分が良い。どれ、余が愛用している蜜を分けてやろう」
腕を伸ばしたエルは、私達のコップに小瓶の中身を注いでいく。漂う香りはむせ返るほどに甘い。
「さあ、飲むといい。きっと気にいるだろう。皆にも好評なのだぞ」
セキヤ達と顔を見合わせる。ここで断るわけにはいかないだろう。せっかく上機嫌なのだから、機嫌を損ねるような真似はしたくない。
「では、いただきます……」
コップに口をつける。おそるおそる傾けると、僅かにとろみのついたハーブティーが口内へと流れ込む。
舌が甘みを感じ取った瞬間、脳裏に声が響き渡った。
『いつまでも愛しているわ』
じんわりと、胸を満たす感覚。何者かも分からない誰かに対する温かい感情が溢れ出す。
自分を塗り替えられていくかのような気味悪さに、思わず吐き出しそうになった。
「……すみませんが、俺達には合わないようです」
「おや……それは残念だ。仕方ない、好みはそれぞれと言うからな。はっはっは」
顔色を悪くしたセキヤがそう呟くと、エルは少しばかり眉(天上人に眉は生えていないが)をひそめたものの、朗らかに笑った。
ひとまず機嫌を損ねずに済んだらしい。
ヴィルトは胸を抑え、泣きそうになっている。
「こんなところで何をしているんだい、エル。ボクのお茶会に呼んでいただろう」
声が聞こえて振り向くと、黄色い服を着た長髪の天上人がツカツカと歩いてきた。ヒールを履いているが、声からは男か女か分からない。
……そもそも彼らに性別という概念はあるのだろうか? 今まで見た天上人は皆骨格も同じで、胸があるというわけでもない。誰も彼も余分な肉を全て削ぎ落としたかのような姿をしている。
「おっと、忘れていたよ。すまないな、ロハ」
「……ふん、人間を見にきていたのか。手出しは出来ないのだろう? なら気にするだけ無駄じゃあないか」
「そう言うものではないぞ。この人間達は余の口に合う茶を持っていたのだ」
「……へえ? それはボクの出す茶よりも美味なのかい?」
次から次へと天上人達が訪れる。気が休まらないから、そっとしておいてほしい。
そんな切実な願いを抱いていると、祈り実ってかロハと呼ばれた天上人がエルの腕を引いて飛び立った。
「人間のことはいいから早く来るんだ。ヨドもロヒムも既に待っているんだぞ」
「分かった、分かった。分かったから余の腕を引っ張るでない!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐエルの声が遠のく。王と自称しているが、きっと彼の立場はそう特別なものではないのだろう。
……ギボールといい、エルといい、やはり生きた人間がここに来るのは珍しいのだろうか。他に通路がない限り、大神官であるアシックの許可があって初めて訪れることのできる地だ。
それにしても、なぜアシックはここに通じる通路を開くことができたのだろう。尋ねてみるのも悪くないかもしれないが……藪をつついて蛇を出すわけにもいかない。
この好奇心は静めておいた方がいいか。
日が暮れ始める頃には、ずっと感じていた重圧も軽いものになっていた。天上人が私達に興味を向けなくなったからか、それとも私達がこの圧に慣れたからかは分からない。
ただ一つ分かることは……今、目の前にいる天上人をどうにかしなければならないということだけだ。
「……」
ようやく人が来なくなったかと思えば、いつの間にか座っていた一人の天上人。オレンジ色の服を着た彼は一切声を発さないので、男寄りなのか女寄りなのかも分からない。髪はヨドと同じくらい短いが、ワンピースを着ているので女寄り……なのだろうか。
ただ手をもじもじと動かすだけで、天上人は黙ったままだ。
「……何か用でしょうか」
いよいよ黙っていられず、尋ねてみる。
天上人はこくりと頷くと、おずおずと小瓶を差し出した。
「……これ」
大人しい鈴のように透き通る声だった。
テーブルに置かれた小瓶には、青い液体が注がれ、何本かの棒が入れられていた。
ふわりと花のような香りがする。
「私、作った。これを置いて、眠って」
「えっと……君は?」
「ツァーバ」
……どうやらツァーバという名前らしい。
「私の香、人気。人間にはどうなのか……気になる」
要するにこのアロマを作ったから試してみてほしいということらしい。
人間にとってどう感じるのかが気になったのだと。
エルの時の蜜のような前例がある以上、あまり良い予感はしないが……閉じた目でじっと見つめられると、断ろうにも断れない。
というか、閉じているのになぜ見つめられていると分かるのだろう。それも不気味だ。
「……分かりました。これを置いて眠ればいいのですね?」
「そう」
こくりと頷いたツァーバは羽ばたいて立ち去った。
これでもう今日は客が訪れることはないだろう……いや、この場合、客は私達の方か。
「食事を済ませたら、早めに眠りましょうか」
「うん、そうしようか」
「見張りは……? つけるのか?」
セキヤと顔を見合わせる。
ヴィルトが言う通り、見張りはつけた方がいいだろう。そもそもこの空間で満足に眠れるかどうかは分からないが……それは気にするだけ無駄だろう。
「じゃあ今日は俺が見張りをするよ。明日はゼロにお願いしようかな」
「分かりました」
「分かった。それじゃあ食事の準備をする……けど、火は使わない方がいい?」
「ええ、そうでしょうね」
結局その日は、干し肉とパンだけを食べて眠りにつくことにした。
ツァーバが作ったというアロマは香りが濃すぎず、ほどよく落ち着く匂いでよく眠れそうだと感じる。
寝袋に入った私はそう時間がかからない内にうつらうつらとし始め、やがて意識を手放した。




